主とともに戦い抜く

2025年6月22日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

テモテへの手紙第Ⅱ 4章7節
”わたしは勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。”

ハレルヤ! おはようございます。今日またこの場所でみことばを取り次がせていただける恵みを感謝します。

先週まで三週にわたって皆さんに献金を募らせていただきました。来月に控えている、韓国での次世代リバイバルキャンプのためです。野菜や食べ物飲み物、あるいはグッズなどを販売させていただきました。子どもたちが準備や作業も自分たちでやってくれました。
多くの献金が捧げられ、皆さんのご協力に本当に感謝いたします。この献金はキャンプ費用の補助として子どもたちのために用いられます。ぜひ子どもたちのために続けてお祈りください。

また、ヘブンズファームが始まり、はや一ヶ月以上経ちます。それぞれの作物が少しずつ大きくなっています。こちらも感謝です。
決して大きな規模ではありませんが、クリスチャンが、被造世界に対してしっかりと関心を持ち、主から与えられた使命として、それらを管理していく、その実践の働きとして、大きな恵みを与えられています。多くの方が率先して働きに加わってくださり感謝です。

実はこれは、イスラエルから来たナツメヤシです。ある方がイスラエルでドライデーツを買って、その種を大事に発芽させ、六年間かけてここまで育て上げました。なかなかできることではありません。それを二鉢、ヘブンズファームに献品していただきました。枯らしたら大ごとですので、ぜひ祈ってください。

今年この教会に与えられているテーマのとおり、様々なことが加速して展開されていることを感謝します。

それでは今日のみことばに入らせていただきたいと思います。第二テモテの四章七節、このみことばから学んでいきたいと思います。

「わたしは勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」

皆さんよくご存知の箇所です。これを書いたのは使徒パウロですが、読んでのとおり大胆な、堂々たる宣言です。なかなか言い放てない言葉ではないかと思います。パウロは晩年、殉教の直前に自分の死期も悟ったうえで、この手紙を書きました。私達もこのような言葉を堂々と宣言し、この地上を去ることができるようになりたい、そのような模範、目標となるようなものです。

パウロ自身の背景について少しだけ見ていきます。パウロは、特殊な使徒でした。イエスさまと実際に地上でともに歩まれた弟子ではない。福音書を読んでも出てこない。使徒の働きでようやく登場します。その九章にパウロの救いの記事が書かれています。復活の主と直接出会う出来事を通して、クリスチャンを迫害していた側であった者が改心し、主のための使徒となりました。それがパウロです。
大雑把な年表がありますが、九章の出来事はパウロが三〇歳ぐらいのことだと考えられています。

第二テモテが書かれたのが紀元六七年あたり、パウロが殉教したのが六八年ぐらいだろうと言われております。見てのとおり、第二テモテはパウロの一番最後に書かれた手紙です。
テモテは、パウロの弟子でした。第一ならびに第二テモテは、テトスへの手紙とともに牧会書簡とも呼ばれます。使徒パウロから弟子テモテに対して、自分の働きが終わりに近づく中で、福音宣教に直接関わる働き人としてのあるべき姿を教えています。

第二テモテの二章一節から六節を読んでみると

一 ですから、わたしの子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

二 多くの証人たちの前でわたしから聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。

三 キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと苦しみをともにしてください。

四 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。

五 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

六 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。

このようにあります。

一節には、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさいという勧めがなされています。弟子テモテに「強くあれ」と。しかしそれは、キリスト・イエスにある恵みによってということです。
そして二節、当然ですが、「私」は筆者パウロ、聞き手はテモテです。そして「信頼できる人たち」、「ほかの人」が出てきます。つまりここでは、霊的な四世代における信仰の継承、主の使命の継承が描かれています。パウロは、まもなく自分は地上から去るとわかっていた中で、自分が与えられ走りきった主の使命を、テモテへ託すためにこの手紙を書いています。しかしそれはテモテのためだけではなく、それを信頼できる人たちに委ね、その信頼できる人たちが、さらに他の人たちに伝えていくよう命じられています。クリスチャンの働きや使命は、自分一人で終わるものではありません。考えれば当然ですが、脈々と連綿と何千年もの間、働き人が紡いできたものが今私達にも託されているのです。その使命は、私達の思いや希望で変わるものでもなく、また途中で止められるべきものでもありません。私達自身も、まさにパウロから受け継いだ信仰、使命を、今日この場所で、主の前に出て、学び受け入れ宣言しています。このみことばの通りに生きようとしている者が、クリスチャンだということです。

そして三節、キリスト・イエスの立派な兵士として私と苦しみをともにしてくださいとあります。この教会でもよく語られているように教会とは主の軍の軍事基地であって、私達一人一人は、呼び集められた主の勇士・兵士・戦士です。兵士として、主とともに主の働きのゆえに、苦しみをともにする存在であるということです。ここでは、恵みをともにして喜んでくださいとは書かれてはいません。この地上にあっては戦いがあることが前提です。そこに苦しみが伴うのは、クリスチャンとして当然だということです。
そして四節以降、四・五・六節と兵役、競技、そして農業と三つの異なる視点・例えから、同じように働き手のあるべき姿が語られています。四節では、任務と役割を理解するべきであることが書かれています。私達は、日常の生活も大事ですし、現代社会を一生懸命生きないといけない、仕事もあります。しかしその前に、兵士であることを忘れてはいけません。何が一番大事なことであるかを忘れてはいけません。
五節では、定めに従って歩みをしなければ栄冠を得ることができないことが書かれています。私達は、主の教えに従い、主の働きを進めます。
そして六節には、報酬があることも書かれています。主の働き人として、主から与えられる報いがあります。
これらの言葉は、使徒パウロが弟子テモテにあてた内容です。一義的には、彼らのように福音をストレートに扱う役割の働き人に向けられた内容であるとも考えられます。クリスチャンにはそれぞれ一定の役割の違いがあります。もしかしたらそれによって、「あるべき姿」についても、求められる度合いは少しずつ違うのかもしれません。しかし、忘れてはいけないのは、私達は、誰もが主の兵士として召された存在であるということです。単に主から愛玩を受けるために、また各々の満足のために救われたのではありません。これは全ての人に適用されることではないかと思います。
クリスチャンには果たす使命があり報いがある。そのことを忘れてはいけません。

農業の例えがありましたので、同じ農業の分野の例えで語られている箴言を開きたいと思います。箴言二〇章四節。

「怠け者は冬に耕さない。刈り入れ時に求めても、何もない。」

まさに農家の方には、身にしみてわかる言葉だと思います。農作物・果実が欲しいと思っても、実際に何もしなければ地から勝手に生じるわけではありません。種を蒔く以前に、土地を種が蒔ける状態にしなければなりませんし、種を蒔かなければ実は結びません。一般論として、被造世界・物理世界、物理的な原則が備えられているような世界の中で私達は生きています。そこでやるべきことをやらなければ報酬は無い。そのような原理原則があるのも事実です。

報いというのは正と負の両側面ですから、やらないのであれば、やらないことに対する報いが自分に返ってきます。罪の報酬は死だというみことばもあるとおりです。私達は恵みと報酬・報いという領域をどちらもバランスよく受け取っていなければなりません。そうでないと、極端な信仰に陥ることがあり得ると思います。
私達は恵みや祝福をいただく存在であると同時に、やはり戦うべき存在であります。どちらも欠けてはいけない側面です。

少し話は変わりますが、六月も終わりに差し掛かっていますが、SSBジムが始まってもうすぐ一年ということになります。去年の夏でしたので、早いもので一年です。

ジムに関してもこれまでにお話をさせていただいているとおりですが、第一テサロニケのみことばから、私達の霊魂体が全人的に、主の使命を全うするため、間に合う器として保たれていなければならないのです。ですから、教会にジムがあるのは、何も特別なことではなく、ある種、当然であるということが言えるかもしれません。
実はこんなデータがあります。これは筋トレ継続率の研究報告です。筋トレを一年間継続できる人は、全体の三・七パーセントしかいないということです。一時志を持って、さあやろうと思っても、ほとんどの人が続きません。ですから、運動の継続が一年超えているという方、おめでとうございます。世界でも稀な存在、上位四パーセントに入るスーパーエリートです。
人間とは、大変と思うことを継続することが一番苦手な生き物ではないかと思います。それは私自身そうですし、それぞれご自身を考えていただければよくわかると思います。

皆さん運動について、どのような認識をお持ちでしょうか。こちらのデータも御覧ください。これは厚生労働省の健康作りのための身体活動運動ガイド二〇二三というものに使われている資料です。総死亡の相対リスクということで、何もしない状態を一とした場合、有酸素のみだと〇・七五となり、〇・二五死亡リスクが下がるとのことです。また、筋トレのみだと〇・八。さらに両方実施したら、〇・六となり、死亡リスクが〇・四、つまり四割も下がるというのです。素晴らしい情報じゃないですか。じゃあ運動したらいいじゃないですか。礼拝の中で、このような運動とか筋トレの話をすると、福音と関係ない話だというご指摘もあるかもしれません。いくら努力したって自分で自分の命を伸ばせるわけではない。もちろんそれは正しいと思います。また、第一テモテに、「肉体の鍛錬も少しは有益ですが」という箇所があり、それを引用される場合もあります。少ししか有益じゃない、もっと大事なことがあると。しかし、少しでも有益なのだからやればいいのです。私達の日常に、無益な事に使っている時間は無いでしょうか?その分を少しでも有益なものに回せばいいのです。さらには、当時の生活習慣と今の生活習慣はまるっきり違うわけです。ある研究では、イエスさまたちは、当時、少なくとも一日一六キロとか三二キロ歩いていたといわれます。食生活も違う、便利な機械もない。くわで田畑を耕したり、日常で体をしっかり使っていたわけです。そういう人たちが対象であった場合に、運動しましょうなんていう教えが必要かというと、無いわけです。彼らにはそのようなものは、備わっていました。

今皆さん、どんな働きにもすぐに応答できる状態にあるでしょうか?海外宣教に出ていくことも一つの例かもしれません。私達は主の働きに間に合うように霊魂体が保たれていなければなりません。

ある方がこんな話をしてくれました。「マイオカイン」という物質、皆さんご存知でしょうか?。私も知らなかったのですが、マイオカインという物質が、筋肉から分泌されるというのです。以下資料を引用します。

「マイオカインとは、骨格筋から分泌される生理活性物質の総称。ギリシャ語のmyo(筋)とkine(作動物質)を組み合わせて作られた造語。 近年、研究が進み、『運動と健康』の仕組みを解明するカギとなる物質として注目を集めている。健康のために運動が大切であることはよく知られていると思います。運動によって筋肉を動かす際に、エネルギー源として糖や脂肪が消費されることから、肥満や糖尿病など様々な疾患の予防に繋がることもわかっています。しかし、従来の認識では、筋肉自体はエネルギーを消費する受身の組織だと考えられており、筋肉が物質を分泌して他の臓器にメッセージを出していることは知られていませんでした。
マイオカインの存在がわかったことで、運動と健康の関係がさらに明確になり、運動の重要性に対する科学的な裏付けが強化されつつあると言えるでしょう。」