ハレルヤ

2025年10月26日(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

詩篇150篇
”1 ハレルヤ。神の聖所で神をほめたたえよ。御力の大空で神をほめたたえよ。
2 その大能のみわざのゆえに神をほめたたえよ。その比類なき偉大さにふさわしく神をほめたたえよ。
3 角笛を吹き鳴らして神をほめたたえよ。琴と竪琴に合わせて神をほめたたえよ。
4 タンバリンと踊りをもって神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神をほめたたえよ。
5 音の高いシンバルで神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ。
6 息のあるものはみな主をほめたたえよ。ハレルヤ。”

ハレルヤ。おはようございます。

今日も皆さんの前で、みことばを取り次がせていただける恵みを感謝いたします。

前回私は、「主の使命」という内容で、みことばを語らせていただきました。皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。もしかしたらロバの話だけ印象に残っているのかもしれません。ロバの背には十字架が刻まれていると。イエス様のエルサレム入場の際、ロバもその使命を果たしました。
私達は、日々何気なく生きているようですが、お一人お一人にしか果たせない使命があるのです。その使命に従って生きることが、クリスチャンとして一番大事なことではないでしょうか。それをぜひ受け取ってほしいと思います。

さて今日は、詩篇百五十篇を主題に詩篇全体を学び、神様の御心を受け取っていきたいと思います。百五十篇に書かれていることは、「神をほめたたえよ」の一点です。ある意味「賛美中の賛美」とも言えるかもしれません。

はじめに詩篇一篇の一節から三節を見るとこうなっています。

幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。 主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。

次の二篇はどうなっているかというと、

なぜ国々は騒ぎ立ち、もろもろの国民は空しいことを企むのか。 なぜ地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。

とあります。

実はこの、詩篇の一篇と二篇は、詩篇全体の導入にあたる詩です。
さらに、ここで注目しておきたいキーワードが二点あります。

一篇においては二節にある「主のおしえ」です。この「おしえ」はヘブル語では「トーラー」です。ご存知のように、律法と訳される言葉です。またモーセ五書を表すために使われることもあります。
そして二篇には、二節の後半に「主と主に油注がれた者」、つまり「メシア」についての言及があります。この二つです。

二篇をもう少し見ていくと、六節には

「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

ここには「王」という主権者の記述があります。そして、二篇のおわりは、「幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は」となっています。一篇において「幸いなこと」ではじめられ、二篇で「幸いなこと」で閉じられています。
ある資料では、「詩篇とはトーラーを忠実に守ろうとし、メシアの王国を待ち望む神のための祈りの書」とまとめられています。

詩篇は文字通り詩の形式で書かれたものです。詩には、事実の正確な叙述ではなく、感情の細かいニュアンスや出来事のインパクトを、比喩などを用いて効果的に印象的に伝える機能があります。ですから、それらを理解しながら読み解く必要があります。
また、百五十あるそれぞれの詩において、それぞれ背景や年代も違います。最終的に今の形に編纂されたのは、バビロン捕囚からの帰還後だとされます。そのため、一見すると詩篇は、短編的な詩が、脈絡なくまとめられていると感じてしまう場合もあるかもしれません。
時に、「今日は聖書を読むの大変だから短く終わりたい」と思い、詩篇や箴言にしようと、一篇だけ読むということもあるかもしれません。もちろんそれも悪いことではありませんが、今日学んでいきたいのは次のような点です。
詩篇にも構成があり、文脈があり、主のご計画の壮大な物語を受け取ることができるのです。その点を学んでいきましょう。

先ほど一篇、二篇の導入を学びました。次に、本篇に入る三篇では冒頭にこのようにあります。

主よ、なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。

一篇、二篇において、「幸い」から始まっているにもかかわらず、三篇は冒頭から暗いイメージで始まります。いわゆる「嘆き」が述べられています。
少し先の二十二篇でも、

わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。 わが神、昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。

と書かれています。
実は詩篇のなかで、このような「嘆きの詩篇」と分類されるものが最も多いのです。
ここから何を学ぶことができるでしょうか。その読み解きのために、今ご紹介した二つの詩篇の続きの部分をみてましょう。

三篇三節、四節。
しかし主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ

二十二篇三節。
けれどもあなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です。

お分かりのように、嘆きのすぐ後に、主に信頼する者としての信仰や希望の言及、主への賛美がなされているわけです。嘆きの詩篇が多いとはいえ、それらは決して嘆きで終わるものではありません。嘆きの中にあっても賛美が対になっていて、やがて来たる未来においては、その嘆きが賛美へと変えられることを信仰を持って待ち望む。そのような内容が多く見られます。

私たちにも嘆きがあることは悪いことではありません。嘆きは、現状における問題点を認識できていることの裏返しでもあります。この地上においては、クリスチャンが、正しい信仰、神の国の価値観を持って生きていたら、嘆きがあって当然なのです。なぜならこの地上は悪の支配であるからです。個人的な問題だけではなく、このようなこの世の状況を目にしながら嘆きがないとしたら、むしろそちらの方が問題があるかもしれません。

そのような現実に対して、神の介入を求める祈りが嘆きの祈りということです。決してこれは何も否定されるものではなく、神の民の正しい機能です。

しかし、クリスチャンの嘆きは、主の主権の中で賛美へと変えられます。最終的に変えられるという視点もありますが、それだけでなく、私たちは嘆きがありながらも信仰を持って主を賛美します。これらの点を詩篇の本文を追いながら、順に学んでいきたいと思います。

構成上の話の続きをさせていただきますと、三篇から本篇となり四十一篇までが第一巻、第二巻が四十二篇から七十二篇。七十三篇から八十九篇が第三巻、九十篇から百六篇が第四巻、百七篇から百五十篇が最後の第五巻となり、五つにわかれています。

先ほどもふれたように、詩篇にも構成があり流れがあります。これらの意図に沿って全体を味わうと、さらなるみ言葉の理解を受け取ることができます。

第二巻の初めが四十二篇だということですが、これは皆さんもよくご存知のみことばです。

鹿が谷川の流れを慕い喘ぐように、神よ、私の魂はあなたを慕い喘ぎます。私の魂は神、生ける神を求めて乾いています。いつになれば私は行って神のみ前に出られるのでしょうか。

これは賛美にもなっています。この詩は、もちろん主ご自身を慕い求める内容が読み取れます。しかしそれだけではなく、神殿での礼拝を思い浮かべ、回顧している場面だということです。年代的にダビデが敵に追われ、エルサレムから離れている。そのような場面ではないかと言われています。四節に、群衆で祭を祝う描写があったり、「神の家」という表現が出てくることからそのように考えられます。

そして同じ二巻の七十二篇には、

王の名がとこしえに続き、その名が日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され、すべての国々が彼をほめたたえますように。

とあります。いわゆる王の詩篇です。そして後半、「人々が彼によって祝福され全ての国々が彼をほめたたえますように」という表現があります。これは旧約聖書において誰を思い起こすものでしょうか。アブラハムです。創世記において、神はアブラハムを通して地上のすべての民族が祝福されるという約束をされました。いわゆるアブラハム契約についての言及が、この詩のなかでなされています。

続いて三巻が七十三篇から八十九篇。三巻の最後の八十九篇をお読みします。

「わたしはわたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓う。わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立て、あなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」セラ

これはいわゆる「ダビデ契約」です。主はダビデとその家系に永遠の王座を約束されました。また、八十九篇後半には、

主よ、あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです。主よ、みこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。主よ、あなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。

とあります。ご存知のように、主の約束を受けたダビデでしたが、この地上においては、彼の家系が栄華を誇ったのは、その子ソロモンの代まででした。その後王国は分裂し、没落していきました。ダビデやその家系の者達には文字通り、大きな嘆きがあったはずです。しかし、主の約束、主の契約は破棄された訳ではなく、のちにダビデの家系からイエス・キリストがお生まれになりました。旧約全体の重要な点も含みながら、このような形で詩篇自体も、より大きな領域に展開して進んでいきます。

続いて第四巻の初め、九十篇の一・二節、

主よ、代々にわたってあなたは私たちの住まいです。山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまであなたは神です。

この詩では、とこしえや世界の初めに関する言及があり、視点がさらに永遠や創造主という領域に広がっていくことが分かります。
そして九十三篇、

主こそ王です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ、揺るぎません。

ここでまた、王への言及がなされますが、その王は、全世界的に主権を持って支配されるのだという点が宣言されています。

そして最後の第五巻、前半は悪を打ち破り、神の国をもたらすメシアなる王の描写がされているということです。百十三篇から百十八篇は「ハレル詩篇」と呼ばれ、その後の百十九篇が、もう一度トーラーを思い起こさせる内容であり、この第五巻の真ん中に位置しています。百十九篇が非常に長いのは、ヘブル語のアルファベット二十二文字に対して、それぞれを文頭に始まる八節が並べられているためです。
続いて「都登りの歌」のまとまりがあり、百四十五篇で第五巻は終わります。

百七篇の初めを見るとこのようにあります。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」主に贖われた者はそう言え。主は彼らを敵の手から贖い、国々から彼らを集められた。東からも西からも北からも南からも。

第五巻以降はバビロン捕囚からの帰還後に書かれたものとされます。ですからここでは敵によって散らされた民が集められる「回復」という領域が強調されています。

ここまで駆け足でざっと見てきましたが、最後のパートに入ります。百四十六篇から百五十篇は独立した結びの詩ということになります。ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる五つの詩が並びます。
百四十六篇の一・二節、

ハレルヤ。わがたましいよ主をほめたたえよ。私は生きているかぎり主をほめたたえる。いのちのあるかぎり私の神にほめ歌を歌う。

いよいよ嘆きの領域はなくなり、賛美のみの詩へと移る詩篇のクライマックスです。よくご存知の詩篇百四十八篇が、この最後の五篇の真ん中に座しています。そのような視点を持ってこの詩を見ていきましょう。