わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。

2025年11月2日(日)新城教会牧師 上條実

エゼキエル書12章28節
“それゆえ、彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。わたしのすべてのことば、わたしが語ることは、もはや引き延ばされることはなく、必ず成就する──【神】である主のことば。』」”

ハレルヤ、感謝いたします。今日こうして皆さんの前に立ち、みことばを語れることを心から感謝します。

早いもので十一月になりました。朝晩が涼しいというよりも寒くなってきました。ある方は暖房も必要になるかと思います。健康に気をつけて生活していきたいと思います。近くの小学校でもインフルエンザが流行っているそうです。体調を整えながら生活していきたいと思っております。

先週はいろんなことがありました。よく教会にも来てくださった方ですが、N姉のお母さまであるK姉さんです。月曜日に召され、木曜日に召天式が行われました。八十八歳でお亡くなりになられました。素晴らしいお母さんで、私の家内ともよく、デイサービスシオンでよく一緒になったものですから、私もとても良い思い出がありました。月曜日はご家族の賛美と祈りの中、天に召されたそうです。今は天国で死も苦しみもないところにいらっしゃることを感謝します。

また、菊地家に待望の男の子が誕生しました。本当に感謝します。母子ともに守られ、特に子育てが祝福されますように覚えて祈っていただきたいと思います。

話は変わりますが、一月十二日に息子の頌(しょう)が再度伝道のためにという事で新城市でコンサートをしたいとの事です。私のところはすべて話はスルーして長男と全部話してやっているみたいです。

今度は教会ではなく、新城文化会館で行うそうです。その時は大ホールが工事中ということで、小ホールで行います。約四百人入れるところで、チケット代は五千円だそうです。彼は伝道のためにやりたいと願っておりますので、覚えて祈ってください。詳しいことは後日連絡があると思いますが、ゲストにMay-Jが来て、それからいつも協力して下さっているクリスチャンのバンドの方々が来てくださるということです、ぜひ覚えて祈り下さり、支えていただきたいと思います。次男の頌のためにもいつもお祈りいただいていますが、守られるように祈っていただきたいと思います。

それでは早速、みことばに入って行きたいと思います。

今日はエゼキエル書の十二章二十八節のみことばから、『わたしが言ったことはすべてもう延びることなく、必ず成就する』というテーマでお話しします。聖書のみことばは必ず成就します。遅くなることなく、まもなく神さまが、私たちにみことばを成就させてくださるという事を語りたいと思います。

もう一度エゼキエル書の十二章二十八節をお読みさせていただきます。

“それゆえ、彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。わたしのすべてのことば、わたしが語ることは、もはや引き延ばされることはなく、必ず成就する──【神】である主のことば。』」”

エゼキエル書は旧約聖書ですが、四章から二十四章はエルサレムの滅亡に関する預言が書かれています。そしてエゼキエルは、「もはや神の時は延ばされることはない。神の語られたことは必ず成就するのだ」と伝えたわけです。誰に伝えたかというと、神を信じている人、当時のユダヤ人に対して語ったみことばです。そこにはエルサレムは滅亡する、と預言が書かれています。

あなたは毎日聖書を読んでいるでしょうか?毎日読んでいらっしゃる方、手を挙げてください、とは言いませんが、私たちはなかなか聖書を読む機会が少なくなってしまったかも知れません。今、文字離れで、聖書を出して読むというより携帯アプリで読んでしまうところがあります。私のアプリは音声で読み上げてくれます。一週間忙しく、あっという間に過ぎてしまい、はっと気がつくと聖書を全く読んでいなかったという方もいらっしゃるかと思います。聖書は神のみことばですので、ぜひお読みください。いつも神のみことばに聞き従う心を持って歩みをしていきたいと思います。

第二コリントの六章一節、二節をお読みさせていただきます。

“私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。”

「確かに今は恵みのとき、今は救いの日」ということは、聖書は全ての人に向けて書かれたわけですから、今日ここにいらっしゃる方一人ひとりに対するみことばです。聖書のみことばは、「今は恵みのとき、今は救いの日」。みことばによって必ず恵みを頂き、救いを下さるというのです。

また、伝道者の書三章十一節に、

“神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。”

私たちは神によって造られたものです。神のなさることはすべて時にかなって美しいことをしてくださる。ジャストタイミングの素晴らしい神の祝福を私たちに与えてくださるという約束です。この時間は聖書からみことばを学ぶ時です。このメッセージが語られる中一つでもいいのでみことばを受け取って下さい。「恵みのとき、救いの日」となると聖書は語っています。イザヤ書五十五章十節、十一節には、

“雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。”

被造物の法則は雨が降ったら、地が潤され、そして育てている作物が潤され、実を結ぶ。それは神さまが創られた法則です。同じように、聖書のみことばは必ず神の望むことを成し遂げ、神の言い送ったことを成功させます。雨が降ったら地を潤して実がなっていくように、私たちに下さったみことばは、私たちの素晴らしい祝福の生活の中の実を結ばせてくださるということを覚えていただきたいと思います。マタイの五章十八節に、

“まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。”

聖書はただの本ではありません。歴史書でもなく、道徳の本でもありません。自己実現のことばではありません。一点一画神のことばです。全能なる神が語られたことばです。聖書のことばは生きています。

最近与えられたみことばで、ヨハネ五章二十五節にこんなみことばがあります。

“まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。”

ここに不思議なことが書かれています。「死人が神の子の声を聞くことができる。今がそのときです。そして、聞く者は生きるのです」とあります。死んだ者が聞くことはできません。普通はあり得ないことです。しかし私たちは霊的には死んだ者でありましたが、イエスの十字架と復活により私たちは死んだ者から、死からよみがえり、生き返りました。みことばによって私たちは生かされています。聖書にイエス・キリストを信じたら救われるとあります。私たちは死んだ者であったのが、今イエス・キリストを信じて生かされているのです。ですから、神のことばは絶対に成就するということを今日続けて学んでいきたいと思います。私たち一人ひとりのために聖書はあります。ヘブルの十一章一節に、

“さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。”

私は分かりやすいのでリビングバイブルでよく読むのですが、そこにはこう書いてあります。

“信仰を、どう定義したらよいでしょう。 それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。 また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。”

私たちはみことばをそのまま神のことばとして信じ、素晴らしい神様が与えてくださったものをキャッチします。それが、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させる。」リビングバイブルでは、「何が起こるかわからない未来にも望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです」とありますので、あなたが神のみことばを受け取ったら、そのみことばを信じた時成就します。未来は全く分かりませんが、しかしみことばは未来においても素晴らしい祝福を与えてくださるという約束です。

祈っていただいております、私の家内ですがいつも支えて、守られていることを感謝いたします。今日も施設に入居していますが、特に変わりなく普通に生活ができることを心から感謝します。

少し証をしたいと思うのですが、パーキンソンが進んで、薬の調整ということで、前回も話しましたが、病院に入院しました。そうしましたら数日後突然、医師から連絡があり、普通は静かに息をするところを、突然ものすごい音を立てて、苦しそうに息をするようになってしまいましたと連絡がありました。そして、先生にすぐ「これはもう気管を切開しないと危ないです」と言われてしまいました。本当にショックでした。正直普通は治らない病気であり、筋肉も力がなくなっていく病です。私は信仰を持って「神は癒してくださる」と祈っていました。また私とともに一緒に家庭集会に行ったり、いろんな奉仕をさせていただきたいと願っておりました。祈っていました。しかし正直、気管切開というと現実を突きつけられ、とても悲しくなったのです。やはり声が聞こえなくなるということは、話すこともできないという事ですので、とうとう人生の最後の何か着地が来たかのような気持ちがして、本当に苦しみました。

でも、機械をつければ話すことができるともあるという事でした。しかしドクターは「今の状況であれば、声帯もあまりよくないので話すこともできないでしょう」。と言われました。しかし彼女の現実を見るとすぐに処置して挙げないと危ないといわれ、気管切開の手術を受けました。正直話すことができないという事は辛かったです。術後お見舞いに行くと、わたしを見るなり、口をパクパクして一生懸命、私に話かけてくれていました。しかし現実は口をパクパクしているだけで、声が聞こえませんでした。何を行っているのか分かってあげれない辛さ。彼女の現実を見て知ったとき、落ち込みました。一番辛いのは彼女なのに、私は主に「どうしてこんなになってしまったんですか?」と主に不平を言ってしまいました。しかしその後感謝なことに不思議と神さまは祈りを叶えてくださって、声帯が良く動いているので、機械をつけたら会話ができるかもと言われました。本当に慰めでした。そして器具を取り替えた時、家内の声が聞こえました。もう嬉しくて何度も行って家内と一緒におしゃべりをして、いつも賛美したり祈る時を持ちました。昨日も私の今日メッセージのために祈ってもらいました。声が小さいので、なかなか聞き取れないときもあります。また私も耳が悪くて聞き取れないこともありますが、会話ができるというのは幸せです。普通に私たちは喋っていますが、気管切開というのは悲しい経験でしたがこのことを通して主に感謝することができました。皆さん気管切開というのは、声帯のすぐ下のところに穴を開けて器具を入れて呼吸しています。その器具から痰を取ったりしているわけです。

カニューレというもの気管に入れています。そしてスピーチカニューレという喋れるようになる器具を入れてもらうと、声が出るのです。呼気時に空気が声帯を通ることで、声帯が震えて声が出ます。声を出すためには、声帯を空気が通らなければいけないのです。気管切開をすると、口や鼻ではなく気管カニューレを通して呼吸をすることになりますので、空気が声帯を通らなくなるため、声を発することができなくなります。ただスピーチカニューレにすると、カニューレから(気管切開部)から息を吸い込んで、鼻や口から息を吐き出すことができるようになるので、空気が声帯を通ることになり、声を発することができるのです。神さまの恵みで普通に喋ることができるようになりました。