わざわいではなく平安 ―主に立ち返る祈り―

2026年7月5日(日)新城教会牧師 鈴木陽介

エレミヤ書29章10~11節
10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ハレルヤ、おはようございます。 今日もみ言葉を取り次がせていただける恵みを感謝します。もう二〇二六年も半分が経過しました。この一年も本当に早いものです。それゆえに、二〇二六年、残された時間を主のみこころの中、歩めるように祈り、進んでいきたいと思わされます。
先月六月は、十三日に賛美奉仕者のための一日合宿が行われ、また二十七日には、七時間連鎖祈祷が行われました。どちらも素晴らしいときが与えられました。
七月も様々な働きが予定されています。十八日には伝道コンサートが行われます。上條頌兄弟が率いるゴスペルクワイヤーとプロで活躍するミュージシャンのスペシャルバンドが賛美、演奏してくださいます。ぜひ、新しい方々をお誘いください。当日は、ヘブンズアイスクリームアンドコーヒーの五周年のイベントも同時開催され、多くの方々が集うことを願っています。ぜひ、お祈りください。
また、二十五日には七時間連鎖祈祷が予定され、二十八日から三十一日は、子どもたち対象の「ユニブルキャンプ」が韓国で行われます。ぜひ、祝福をお祈りください。間もなく一学期を終えて夏休み期間に入る子どもたちの世代のためにお祈りください。
また、忘れてならないのは、7月9日は霊的戦いが始められた開戦記念日です。先週も「地政学」という視点からみことばを受け取りましたが、この地において、この戦いが始められたことには大きな意味があり、私たちの教会に託された主の計画と使命があります。この新城教会に属する者として、この主の戦いを絶えず前進させていきたいと願います。ぜひ、今週は特に戦いの姿勢を持って祈っていきましょう。

それでは本題に入らせていただきます。今日は、エレミヤ書二十九章十節から十一節を主題に学んで行きたいと思います。この箇所は皆さんよくご存知のみことばで、素晴らしい、希望に満ちたメッセージです。今回は、このみことばをエレミヤ書全体から読み解いて行きたいと思います。そうすることで、この箇所が示していることをより深く鮮明に受け取ることができます。
エレミヤ書は、預言者エレミヤに主が語られた言葉がまとめられた書物ということになります。年代は紀元前6世紀頃、場所はユダの国においてです。当時、ダビデから始まったイスラエル王国は、北と南に分かれていました。北イスラエルと南ユダです。実はこのエレミヤ書の時期からおよそ100年前、紀元前722年に北イスラエルは、アッシリアという国に滅ぼされています。南ユダは守られ、健在でした。そのような時代背景の中、語られたことばになります。
エレミヤ書の冒頭からみていきたいと思います。一章七節、八節。
7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」
これがエレミヤの召命の記事です。この時からエレミヤは預言者としての務めを果たしていきます。今日の本題にも大いに関わることですが、エレミヤは「涙の預言者」や「悲しみの預言者」と評されます。エレミヤ書全体を読むと、何故そうであるのかが良くわかります。しかし全体を読まずしても、すでにこの八節に、エレミヤの困難な役割が暗に示されています。「彼らの顔を恐れるな」や 「あなたを救い出すからだ」とあります。救い出す必要があるということは、危機の場面に瀕するということを意味します。
続きの九節、十節には、
9 そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
10 見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
とあります。
十節の王国というのは、自分の国であるユダのことです。そして、ユダだけでなく諸国の民に対しても任命されているということになります。十節後半には、「引き抜き」、「引き倒し」、「滅ぼし」、「壊し」破壊的な表現が続きます。エレミヤに託される主の言葉はこれらが起こされるためだというのです。エレミヤはこのような言葉を自国の民に伝えるために任命されたのです。しかし、同時に、「建て」、「また植えるため」という希望のことばも託されています。
このように冒頭部分からもエレミヤが、人間的に見れば断りたくなる様な役割を負わされ、苦難を伴う役割を果たしていくことが伺いしれます。

私は今回、みことばを取り次ぐに当たって、エレミヤ書全体を二日に分けて一気に読ませていただきました。みなさんもぜひ、機会があれば、聖書のあるひとつの書物を一度に全部読むということをしてみてください。そうすると、その書物全体の流れが非常によくわかりますし、全体の文脈の中で読むことにより、特定の箇所の理解がとても深まります。私自身そのように読んだことにより、今までにないほどに、エレミヤ書により描かれている主のみこころ、教えを受け取ることができました。それは、まるで一本の映画を観たような感じでした。

さて、エレミヤ書の構成を大雑把に区分すると、一章から二四章はイスラエルへの叱責や警告が語られます。そして、二五章には「バビロン捕囚」の確定的な預言が語られます。二六章から四十五章では、イスラエルのさばきと、その後の希望。四十六章から五十一章では、バビロンを含む近隣諸国のさばきが描かれています。最後の五十二章は、結びとして、第二列王記二十五章と同じ内容が書かれています。
当時のイスラエル民族、ユダの民は、偶像礼拝をはじめ、主のみこころから外れる行いをしていました。主はエレミヤを通してそれを何度も警告し、悔い改めを促しました。しかし民は悔い改めず、ついには、ユダ王国は主のさばきによりバビロンという国に滅ぼされることが宣告されてしまいます。いわゆるバビロン捕囚です。これは主のさばきであり、悔い改めない民に対する、主ご自身の厳然たる計画でした。しかし同時に、主は主の民に対して、その後の回復・再建も語ってくださっています。主は、従わない者にさばきを下す一方、み声に聞き従う者には恵みを注がれる方です。
エレミヤ書を概観すると以上のような内容になります。
このくらいの構成理解があるだけでも、聖書の内容、つまりは主のみことばの本来のメッセージをかなり正確に受け取る事ができるのです。
エレミヤ書において、「有名な」希望のメッセージは三十章から三十三章に、固めれていますが、それは二六章から四十五章のさばきの場面に挿入されていることがわかります。本日主題に挙げさせていただいている二十九章の箇所も少し区分は外れますが、同様のことが言えます。エレミヤ書がそのような構成になっていることには、しっかりと理由があり、それらを含めて主が示そうとしておいられる内容を受け取る事が、「正しい」聖書の読み方であるのです。
主がご自身が、エレミヤ書を通して語られるメッセージを、主の民としてより深く正しく受け取っていきたいと思います。
それでは順を追って、先程の構成も頭においていただきながら、エレミヤ書本文を読み進めていきたいと思います。まず、七章二十三節。
23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』
主の声に聞き従うことは、主の民にとって最も重要な事であると言えます。これは現代のクリスチャンにおいても同様であり、この教会においても、最近よく語られる内容です。私達も日頃、主から語られること、示されることはその通り実行・実践するべきであると勧められています。
主を信じ、恐れるということは、主に聞き従うことです。自分にとってどんなに困難な事であっても、聞き従うとき、天での計画が動き、主の祝福が現されます。冒頭に学んだように、エレミヤ自身が預言者として、自国の民にさばきや滅びを宣告する役割を担わされ、それに従順に聞き従いました。それ故に捕らえられ、命の危機に瀕し、苦難の道を歩みました。しかし彼はその役割を全うしました。
当時の民には、二十三節のような警告を受けるだけの実情がありました。免れないさばきの場に至る前に、何度も悔い改めが促されています。十八章、六節から十節には、このようなみことばがあります。
6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。
9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、
10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。
「引き抜き、打ち倒し、滅ぼす」と、一章と共通する破壊的な内容が示されます。 ここで注意するべきは、これは主がなされることだという点です。聞き従わない民に対して、主ご自身がなされることなのです。主は悪を裁かれます。しかし、主に立ち返る時、主はそのわざわいを思い直される方でもあります。
続けて二十六章十三節、
13 さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。
後半は十八章の箇所と同様の内容が書かれています。前半には「あなたがたの生き方と行いを改めなさい。」とあります。これは、エレミヤ書では何度か繰り返される表現です。ここでも偶像礼拝を中心とするあらゆる悪から離れるべきことが求められています。
そして二十五章の八節、九節。 バビロン捕囚の宣告です。
8 それゆえ、万軍の主はこう言われる。『あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったから、
9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる──主のことば──。わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、この国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とする。
再三の悔い改めの警告に従わなかった民に、主のさばきが宣告されました。この段階においては、主がそれを思い直すことはありません。イメージとして、怒りの杯が満ち、溢れるときに、その事が起こされるのです。これまで学んだように、杯が満ちるまでは、主は悔い改めのチャンスを与えてくださいます。しかし、ユダ王国の民はそれに従いませんでした。
また十一節には、
この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。
とあります。先の箇所と合わせて気付くべき点があります。それは、主ご自身が、そのさばきのために、バビロンという異教の国を用いているということです。これは私たちの地上的な感覚では理解し難い事かもしれません。神が悪の存在を肯定するように感じる方もいるかもしれません。しかし、これはあくまで、一時的な事であり、最終的には悪は滅ぼされます。理解し難い出来事について考えるときに大事なのは、その先にある主の思い、主のご計画に目を向けることです。
そしてまた、七十年という地上的には長い期間、神の民である彼らが異教の国に仕えることが宣告されています。これに対し、「すぐに解放される」という偽りの預言をした、ハナンヤやシマヤという人物は主によって罰せられています。主の計画から外れた偽りの希望のメッセージも、主から排除されます。