いけにえと真実の愛

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

ところで、信仰とは主体的な体験に基づく信念です。非常に個人的なものであり、他人の体験によって得られるものではありません。夫婦であっても、自分がクリスチャンだからといって、配偶者が同様に信じる者になるとは限りません。
それは食べ物の好みのようなものです。例えばカレーが好き、寿司が好きといった共通の思考を持つことはあっても、それによって得られる感動の体験は人それぞれであり、全く同じではありません。このように、信仰とは個人的なものであり、主体性や主観性に基づきます。他人の信仰によってあなたが救われることはありません。自ら考え、自ら信仰の決断をしなければ意味をなさないのです。

逆に、他の誰も信じなくても、反対されたとしても、「私は信じます」と言える信仰こそが救いの条件です。誰が何と言おうと、どんなに脅されたとしても、ボンヘッファーのように命を脅かされても揺るがないものです。信仰とはそのような性質を持っています。人が持つ信念の中で、最も強くその人を動かすもの、それが信仰だと考えます。

しかし、それゆえに信仰は時として独善的になり、私たちを神様の御心から引き離す力にもなります。信仰が独善に陥るかは紙一重です。そこを自分で見分けられないと、良い実を結ぶことができないのではないでしょうか。

映画のポスターに書かれていたサブタイトル「これは最大の罪か、最大の愛か」は、クリスチャンとして彼の行ったことに対する反応の両極を示しています。
ある姉妹がご自宅で映画についてご主人とお話しされた際、このサブタイトルのような議論になったと教えてくださいました。彼のしたことは、殺人計画に加担した悪であったのか、それとも神と人を愛するがゆえの善行であったのか。この映画は私たちに問いかけています。皆様はどのように感じられるでしょうか。

ルカの福音書第十章に登場する律法学者に象徴されるように、当時のユダヤ人たち、特に祭司やパリサイ人、律法学者たちは、人々から立派で正しい信仰生活を送っていると敬われていました。しかし彼らは、まさに「信仰」という名の「独善」を生きる人々でした。

彼らは、イエス様がどんなに素晴らしい奇跡を行われ、真理を解き明かされていても決して受け入れませんでした。自分たちの考えに凝り固まり、自分たちこそモーセの弟子であり、神に選ばれた聖なる者だと信じて疑わず、イエス様を殺そうとしました。自らを反省し、正しい分別を持とうとする心を生み出すことができなかったのです。

先ほどお読みしたルカの福音書第十章二十五節〜二十九節で、律法学者はイエス様に対し、最も大切な戒めは「神を愛し、隣人を愛すること」だと答えました。彼の解答は正解でしたが、イエス様は彼がこの戒めを実践的に理解し実行できているかを確かめるため、「よきサマリヤ人」のたとえ話をされました。(ルカの福音書 第十章三十節〜三十七節)

この物語は非常に有名であり、礼拝の中でも幾度となく取り上げられているため、内容は皆様ご存じかと思います。私は最近、この物語を描いた子ども向けのアニメを見て、そこに描かれているテーマについて改めて教えられ、恵みを受けました。ここで皆様とご一緒に見てみたいと思います。

ここに描かれている祭司とレビ人が、倒れている人を助けなかった信仰的な理由について考えます。それは、彼らが一般のユダヤ人よりもユダヤ教に深く根ざした存在であったからです。それ以上に、彼らの生業や人生そのものが「神に仕える者」でした。その歩みを全うすることに拘りすぎたため、祭司やレビ人は隣人を憐れみ、その命を助けるという最も基本的な善行さえ守ることができませんでした。そして、彼らが最も軽蔑し、霊的に汚れていると分類し、その民族の名を口にすることさえ忌み嫌っていたサマリヤ人が、最高の戒めを実践したという事実を受け入れることができなかったのです。

イエス様は「律法の文字通りの遵守(汚れを避けること)」と「律法の本質(愛)」のどちらが神の御心に近いかを問いかけられました。

「私が望むのは誠実であって、いけにえではない」(ホセア書 第六章六節 / マタイの福音書 第九章十三節)

祭司やレビ人は「神を第一」にしているつもりでした。しかし、律法で最も大切な「慈しみ」という行為を、儀式的なルールのために切り捨ててしまったのです。ここに、この物語の深い教訓があります。

真の信仰とは、自分の信じる道を歩みつつ、「自分には見えていない真理の側面がまだあるかもしれない」という柔軟な心を持ち続けることです。それが主体性と独善性を分ける境界線となります。その鍵となるのが「謙虚さ」と「隣人愛」です。ここには三つのポイントがあります。

第一に、自分の信仰は絶対的な存在に対する「応答」に過ぎず、自分自身が絶対ではないと自覚する謙虚さ。
第二に、自分の内なる確信を大切にしながらも、他者もまた異なる確信を持って生きていることを尊重する姿勢。
第三に、信仰が自己満足に終わらず、他者への慈しみや社会的な善として表現されていること。

この三点です。

マタイの福音書 第十二章七節
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。

このみことばにも、背景となるエピソードが存在します。それは「安息日に仕事をしてもよいのか」という問いです。弟子たちが安息日に道を歩きながら、畑の麦穂を手で摘み、実を揉み出して食べていました。それを見たパリサイ人たちが、イエス様に「安息日に仕事をした」と苦情を言いました。また、その直後にイエス様が会堂に入られると、片手が不自由な方がおられました。日頃から病人を癒やされていたイエス様が、安息日にこの人を癒やして仕事をするのかどうかに、彼らの関心が集まりました。パリサイ人にとって、手が不自由な人が助けられることよりも、安息日を守り礼拝をささげるという律法のほうが重要だったのです。また、それによってイエス様を責める口実を得られるかどうかに感心がありました。イエス様は、いけにえよりも愛のほうが大切であることを教え、病人を癒やされました。ここでも、パリサイ人たちは自らの信仰に頑固に固執し、イエス様の御声を聞きながらも受け入れることができませんでした。

まとめに入ります。先日、ある集会の中で、参加されていた方に次のような質問をいたしました。
「主の声を聞いたことがありますか?主と出会った瞬間がありましたか?」

そこでは「聞いたことがある」と手を挙げてくださった方がおられる一方、「自分はまだです」と謙遜にお答えになる方もいらっしゃいました。

皆様はいかがでしょうか。イエス様との個人的な出会いは、あなたの人生を大きく動かす体験です。あなたの信仰においてそのような体験を得ることができるよう、ぜひ求めてください。

『あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──』
(エレミヤ書 第二十九章十二節〜十四節)

現代には、私たちが主と出会えないように邪魔する電波が存在すると礼拝の中で語られています。実際にそうなのかもしれません。しかし同時に、主と出会うための電波も届いています。「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」(ローマ人への手紙 第十章十八節)とある通りです。その領域に、私たちがアクセスする必要があります。もし主と出会うならば、誰が何と言おうと、あなたはイエス様から離れることなく、信仰を揺るぎないものとすることができます。そうなったとき、律法による形式的な信仰ではなく、愛によって自ら正しい信仰に基づいて行動するクリスチャンとなることができます。

一度限りの人生において、主を愛し、隣人を愛するという「愛」の上に立った信仰を築き上げていきましょう。そこには、神様の力強い御業が現されていきます。

最後に一言、お祈りをして終わりにしたいと思います。
自分はイエスさまの放たれているWiFiにログインできてるだろうか。悪魔が放っている邪悪なWiFiにログインしてしまってはいないだろうかということもチェックして、まだイエスさまと出会われてない、イエスさまによって救われた体験のない方がいらっしゃったら、今日ぜひイエスさまを受け入れようと決断してください。イエスさまを受け入れて歩む人生は、周りがどのような状況であっても、たとえ苦しみがあったとしても。 勝利することができる人生です。あなた自身の足でイエスさまに歩んでいく決意をして祈ってください。また、これまで、律法的な形式ばった信仰に縛られていた、大切なものが見えていなかったと教えられたならば、悔い改めて神さまの前に祈る時を持っていただきたいと思います。
では、お祈りしましょう。

愛する天のお父様、心から感謝します。今日、この礼拝の時を与えられて、主のみ前でみことばから学ぶことができたことを心から感謝いたします。主よどうかここにおられますおひとりおひとりの上に触れてください。私たちがあなたにログインして、あなたから良きものを受け取り、自分自身の人生を合わせていくことができるように助けてください。今日、ボンヘッファーの生きざまを通して自分自身がどのような信仰を持っているか振り返る時をメッセージの中から与えられました。どうか、おひとりおひとりが神さま、あなたの前に自分自身を点検し、かたくなに神さまを拒んでいた自分がなかなかったかどうか見つけることができるように、そしてまた、私たちに委ねられた戦い、主の使命を受け取って、全うしていくことができますように、心よりお願いいたします。どうか、そのために必要な力もお与えください。自分の力ではできません。聖霊によって、どうか助けてくださいますように、心からお願いいたします。これからの時もすべてみ手に委ねます。イエスさまのみ名によって祈ります。 アーメン。