2026年8月16日(日)新城教会牧師 四元雅也
マタイの福音書 第十二章七節
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
日本・韓国・モンゴルの合同ミッションが昨日出発し、本日から集会が始まります。通訳者として参加予定だった方が急遽参加できなくなるハプニングがありました。しかし、代わりの通訳者が備えられ、今回奉仕してくださることになりました。主の備えに感謝いたします。日本時間の本日十二時から集会が行われるとのことです。最後まで主によって守られますよう、お祈りいたしましょう。
先週、千葉県における集中豪雨により、大きな被害がもたらされました。被災した地域のため、また、継続して熊本のためにも、被造物の管理人としてお祈りしましょう。
本日は太平洋戦争から八十一年目の終戦記念日です。全国で慰霊祭などの催しが行われます。最近は皇室に対する関心が高まっています。天皇を国家の中心として、庶民に印象付けようとする意図を感じます。戦時中、国体が天皇を中心とした軍事国家であったように、現在の平和国家としての象徴もまた天皇です。今後の日本の行方が、天地の創り主である主、み子キリスト、聖霊の神様によって治められますように。私たちは国を霊的に見張る者として祈りましょう。
前回、私は三月二十九日の礼拝で奉仕させていただきました。およそ五か月前になります。その間にも、水曜主日礼拝にて二回ほど奉仕の機会をいただきました。そこでも、これまでお話ししてきた事柄に関連して神様からの導きを感じておりました。そのため、本日はその際にお話しした事柄も交えてお伝えしたいと思います。水曜主日礼拝に参加されていた方には復習となる部分もありますが、単なる繰り返しにはならないようにいたします。ご一緒にみことばから学んでまいりましょう。
六月十四日午後に映画会が開催されました。
映画『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』この映画は、ナチス・ドイツの支配下で自らの信仰と信念を貫き、命をかけてヒトラー政権と闘った実在の牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーの生涯を描いた作品です。 Amazonプライム・ビデオにてレンタル視聴が可能です。
ディートリヒ・ボンヘッファーの人生は千九百六年〜千九百四十五年です。ボンヘッファーは、二十世紀を代表するキリスト教神学者の一人です。彼は若くして神学博士号を取得した天才神学者でした。当初は学究生活を送っていましたが、ヒトラーの台頭とともに時代は激変しました。ヒトラーが政権を握ると、彼はその独裁的な政治手法を批判しました。ナチスの蛮行に抗議し、ドイツの教会を救うために奔走します。ナチスの実態を世界に知らせ、政権を崩壊させるためにスパイ組織と接触し、ヒトラー暗殺計画に加わりました。千九百四十三年に逮捕され、獄中で婚約者のマリア・ヴェーデマイヤーに宛てた詩や、神学的な著作(『獄中書簡と論文集』など)を残しました。千九百四十五年四月、終戦直前に三十九歳の若さで処刑されました。
映画の中で描かれていることは、平和を祈る聖職者であった彼が、スパイ活動に身を投じナチスに忠誠を尽くす構成員の中に潜入し、ヒトラー暗殺計画にまで加担するに至ります。その苦悩と決断の過程が描かれています。ナチスに支配された教会を守るため、また迫害されるユダヤ人を救うため、彼は行動を起こしました。「悪の前で沈黙することは、実は悪そのものである」と判断し、抵抗運動の闘士として行動しました。ひとりの牧師として、極限状態の中で「キリスト者として何が正しい選択か」を問い続けた姿に焦点を当てています。
ナチスが行ったキリスト教への迫害
・イエス・キリストのアーリア人化:イエスをユダヤ人ではなく、「ユダヤ主義と戦ったアーリア人(またはガリラヤ人)」であると再定義する、歪んだ神学説が唱えられました。
・聖書(新約聖書)の脱ユダヤ化:千九百四十年に『神のメッセージ(Die Botschaft Gottes)』という改訂新約聖書(通称:民衆聖書)が出版されました。旧約聖書は丸ごと削除され、新約聖書からもイエスのユダヤ的な家系図や旧約聖書の預言、ユダヤ的な語彙が取り除かれました。
・十戒の書き換え(十二の戒めへ):モーセの十戒は「ユダヤ的なもの」として破棄・改変されました。代わりに、ナチスの人種思想や国家への服従を盛り込んだ「十二の戒め」が作られました。
当時のドイツは、日本と同様に反キリスト思想が社会を支配していた時代でした。悪の神が立ち上がり、国を支配していました。教会はその権威のもとで迫害されていたのです。昭和初期から太平洋戦争期(千九百三十年代〜千九百四十年代)にかけて、日本の軍事政権・国家神道体制下でも、キリスト教に対する制度的統制、礼拝の神道化、教義および聖書の自主規制や改変が広範囲に行われました。
「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」
開催日:千九百四十年(昭和十五年)十月十七日(神嘗祭の日)
会場:青山学院(東京都)および全国各地
規模:全国から約二万人のキリスト教徒が参加した大集会
背景:キリスト教の各教派は、国策への協力を余儀なくされていました。そのため、神社参拝の強要や宮城遥拝を受け入れ、国家との妥協を迫られた状況下で開催されました。
太平洋戦争時、日本のキリスト教は国家権力や国家神道に屈し、全面的な戦争協力へと舵を切りました。当時、政府は「神社は宗教ではなく、国民道徳の基準である(神社非宗教論)」という論理を掲げました。そして、キリスト教に対して「日本精神への絶対服従」を迫ったのです。
【日本の軍事政権下で行われたキリスト教弾圧】
一.制度統合と「日本基督教団」の結成
二.礼拝儀礼の国家神道化
三.教義と神学の改変(「日本的キリスト教」論)
四.聖書解釈・用語・讃美歌の改変と排除
五.改変を拒否した人々への弾圧
戦後の千九百六十七年、日本基督教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦争責任告白)」を発表しました。国家権力に屈して教義や礼拝を自ら歪め、戦争協力を行った歴史を公式に謝罪・反省しています。
映画『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』を視聴し、自身の時代が平和であることを感謝いたしました。
みことばを語り続けることが教会の使命です。みことばによって、教会が国を見張り、国を正す使命を帯びています。もしも教会が悪の権力の前に屈し、力を失うとしたら、どうでしょうか。ボンヘッファーのようにひとりのクリスチャンとして、神の使命に立ち続けることができるかという問いが自分の中に生まれました。正直なところ、そこまで強く生きられないのではないか、自分の力では難しいのではないかと思わされます。
現代は多様性の時代と言われます。多様性の時代は、言い換えれば自己責任の時代です。礼拝の中で時折、霊的戦いが開かれた頃の新城教会を懐かしく振り返ることがあります。私はその頃に救われ、献身させていただくことができました。本当に良いタイミングで救われたと感謝しております。
千九百九十年代のリバイバルの中で信仰を生きてきた私のような世代は、今よりも全体主義的で画一的な時代を生きていたと感じます。「さあ甲子園だ」と言われれば皆で甲子園に向かい、「武道館だ」と言われれば武道館に向かって、全員でひたすらに走ることができました。それはそれで良い時代だったと思い返します。しかし、今の時代は異なります。それぞれが自分の信じる道に進んでいく時代です。一人一人が神様と強く正しく結びつき、自分の足で信仰の道を歩む責任が求められています。この時代に正しい信仰を持ち続けることは、大変なことだと感じます。このような時代の風潮の裏にも、悪魔の戦略があるのではないでしょうか。教会へ行かなくても、インターネットで様々な教会の礼拝を見ることができます。教会を変えるハードルも下がりました。一つの教会に縛られず、クリスチャンとして自由に振る舞うことができます。信仰においても多様性を前面に出して生活できてしまいます。しかし、そこには「皆が一丸となって主のみ心に焦点を合わせる」ということが困難になる危うさも潜んでいます。
旧約聖書の士師記の時代のように、イスラエルの十二部族がバラバラになり、統率する指導者がいないために暗く長い時代が続いた歴史があります。一歩間違えると、そのような状況に突入してしまう危険性を秘めた時代なのかもしれません。だからこそ、先日行われた韓国での若者キャンプや、今回のモンゴルミッション、若者ワーシップなどの働きは非常に重要であると実感いたします。
話が少しそれましたが、私はボンヘッファーの人生を思う時、次のみことばを思い起こします。ピリピ人への手紙 第一章二十一節
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
「御心の天になるごとく 地にもなさせ給え」御心が行われますようにと祈ることは、「私の思いではなく」、すなわち自分の意志が行われるのではないということを意味します。この祈りは、「地にも」を「私の上にも」と言い換えることができます。
ルカの福音書 第二十二章四十二節
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
自分に御心がなされますようにという祈りには、イエス様がゲッセマネの園で祈られたような「神への究極の従順」の意思が込められています。この祈りの重さを知り、神様の前に告白できる者とならせていただきたいと願います。映画を見て、大戦当時の教会のようであるか、あるいはボンヘッファーのようであるか、自分自身に問いかけました。
彼が獄中で婚約者のマリア・ヴェーデマイヤーに宛てた詩「善き力にわれ囲まれ」は、現在も世界中で賛美歌として歌い継がれています。その歌を、久米さゆりさんがYouTubeで歌われています。ぜひ動画をご覧ください。
ボンヘッファーの映画から感じることは、彼の行った行為が正しかったのか、あるいは悪であったのかという是非を私たちが論じるべきではないということです。ヒトラー暗殺計画の実行は悪だったかもしれません。しかし、神様から受けた愛と情熱による行為だったのかもしれません。いずれにせよ、彼も救われた罪人であり、神様のような絶対的な正しさを人間に求めることはできません。人間がとり得る選択の中で、彼なりの真実な思いを行動に移したのだと思います。そして、彼もまた十字架によって罪を贖われた者であったということは間違いのない事実です。マタイの福音書 第十二章七節
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
私たちの人生において、今後起こるすべての事柄の中で、表面上の正しさや人間的な正義にとらわれることがありませんように。神様を愛し、隣人を愛し、神様が心から喜ばれることを追い求めて生きる者となれますよう、日々主を仰いでまいりたいと思います。
ルカの福音書 第十章二十五節〜二十九節
さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
話は変わりますが、このみことばから「『信仰』と『独善』」という対比について考えてみたいと思います。
クリスチャンにとって、信仰は最も大切なものの一つです。愛と希望に並び、いつまでも残るものとして信仰が挙げられています。私たちがクリスチャンであるならば、それは目に見えない天地を造られた父なる神様、御子イエス様、そして聖霊様という三位一体の神様を信じる信仰を、あなたが持っているからです。
ガラテヤ人への手紙 第二章二十節