2026年4月26日(日)新城教会牧師 上條実
イザヤ書43章4節
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
ハレルヤ。今日、皆さんの前に立つ事ができることを心から感謝します。まず家内のためにいつもお祈り頂き心から感謝します。相変わらず守られています。お祈りを心から感謝いたします。
また私も一月後半でしたが「心房細動」という病気で、カテーテル手術をいたしました。「心房細動」というのは早く言うと不整脈です。自覚症状はありませんでしたが、検査しました所、不整脈があり、カテーテル手術をいたしました。三泊四日の入院でした。守られて無事終えることができました。
また四月一日朝起きましたら、突然左足のかかとがとてもすごい痛みに襲われました。そして整形外科に行って診察してもらいました。レントゲンを撮っても異常がなく、診断は「足底筋膜症」だと言われました。

私の足の裏は極度の扁平足です。医師によると偏平足の人に多いとのことでした。足の裏のところの筋が炎症して痛いのだと言われました。そして痛み止めのクリームと膏薬を頂きました。2日、3日で、 だいぶ良くなり、今は全く痛みがなくなりました。感謝します。私は以前上行動脈瘤で手術をしたり、また心臓のカテーテル手術。そして足が痛かったり、なんで私はこんなに病気があるんだろう?踏んだり蹴ったりの人生だと思いました。牧師としてこんな病ばかりであると証しにもならない。とにかく、早く完全に癒やされて、もう二度と、病にならないように祈りました。そんな中で与えられたみことばは、先ほど読んで頂いたイザヤ書四三章四節のみことば
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。』
というみことばです。とても慰められました。こんな病だらけの私を高価で尊い。 そして主は私を愛していて下さる。このみことばでとても励ましを頂きました。
また足底筋膜炎になって歩くことも困難になったとき一つのみことばを思い出しました。申命記二九章五節
『私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった』
まあ、足が痛いということで、そのみことばを思い出したのですが、改めて主は愛していて下さると思いました。このみことばはイスラエルの民がエジプトにとらわれていましたが、出エジプトをした時の出来事です。主はモーセを立てられて、成人した男性だけで六十万人。女性や子どもたち入れると、ある人は約200万人ほどの人々が四十年間荒野を移動したのです。
しかし、今みことばにありましたように、
『私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった』
というのです。主はイスラエルの民に奇跡を起こしました。身に着けている着物は擦り切れず、その足の靴も擦り切れなかった。 こんなこと、普通じゃないんですよね。 私は先ほど言いましたように極度の扁平足です。だから靴を買いに行ってもなかなかフィットする靴がないのです。 普通の人たちが当たり前にあるアーチが私にはないのです。良いと思って履いても靴にアーチがあるのでアーチが邪魔になってフィットしないのです。アーチが異物を踏んでるような感じで、なかなか靴が見つからないのです。また、がに股で歩くため、いつも靴底の減り方が極端に外側がすぐ減ってしまい、靴がすぐにダメになってしまうのです。しかし出エジプトの時は履き物もすり切れなかったというのです。また着物もすり切れなかったとあります。平らな道を歩いたのではなく、イスラエルの民は、荒野を歩き回ったのです。荒野は、砂漠や石がゴロゴロした中を旅をし続けたました。また多くの戦いもありました。しかし靴は擦り切れなかった。奇跡です。滝元順牧師が良く引用しているAIで私調べて見ました。出エジプト記の時代の靴はどんなんですか?と調べてみたら、現在のような靴ではなく、サンダル(ぞうりのようなもの)でした。
特徴としては素材は革(羊や山羊の皮)が中心で、形状は底に革を敷き、ひもで足や足首に巻きつけるシンプルな作りだそうです。砂漠や荒野を歩くため、通気性と軽さが重視されていたともありました。
こんな簡単なサンダルが四十年間擦り切れなかった。奇跡です。荒野を旅している途中で靴を作ることは困難です。主は二百万人の靴が四十年間、すり切れることがなかったというのです。
主は小さなことまでも完璧にお守りくださる方です。またそんな奇跡を体験しているイスラエルの民は、水がない。食べ物がない。肉が食べたい。などなど不平不満だらけの民でした。しかしそれらも全て主は聞いて下さり、必要な時に、必要なものを与えて下さいました。またどちらに進んでいって良いか分からない時に、昼は雲の柱。夜は火の柱で導いて下さいました。このイスラエルの民は主に愛されていました。しかし不平不満の民であっても、主は助け、導いて下さいました。愛してくださいました。二百万人の一人でも苦労しないように助け、足いて下さいました。
ネヘミヤ記9章19節に、
『あなたは、大きな哀れみをかけ、彼らは荒野に見捨てられませんでした。 彼らを荒野に見捨てられませんでした。』
私たちの人生は荒野のような人生を送っています。毎日いろんな問題や、いろんな悩み事、病などがあります。しかし、私たちを愛して下さっている。事細かに愛して、見捨てられない神です。ヘブル十三章八節
『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』
出エジプトの時だけではなく、今もいつまでも同じです。
私たちは毎日の生活の中で、どれだけ神さまが私たちを助け、導いてくださっているということを、今日知っていただきたいのです。イザヤ四三章二節~四節
『あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』
リビングバイブルでは
『たとえ水の中をくぐり、大きな困難にぶつかっても、わたしは共にいる。悩みの川を渡るときも、おぼれはしない。迫害の火の手が上がり、そこを通り抜けていくときも心配はない。炎はあなたを焼き殺さないからだ。わたしは主、あなたの神、あなたの救い主、
イスラエルの聖なる神だ。わたしはあなたを自由の身とする代わりに、エジプトとエチオピヤとセバを与えた。あなたを生かすために他の者が犠牲になった。あなたのいのちを買い戻すため、他の者のいのちと交換した。わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ。
わたしはあなたを愛している。』
とあります。たとえ水の中をくぐり、大きな困難にぶつかっても、わたしは共にいる。悩みの川を渡るときも、おぼれはしない。迫害の火の手が上がり、そこを通り抜けていくときも心配はない。炎はあなたを焼き殺さないからだ。わたしは主、あなたの神、あなたの救い主、イスラエルの聖なる神だ。と言っています。またわたしはあなたを自由の身とする代わりに、エジプトとエチオピヤとセバという栄えて国々をを与えた。あなたを生かすために他の者が犠牲になった。あなたのいのちを買い戻すため、他の者のいのちと交換した。わたしにとって、あなたは高価で尊いからだ。わたしはあなたを愛している。素晴らしい愛なる神です。エペソ五章一節
『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』
とある様に愛なる神にならう者となりなさい。と言っています。しかし皆さんは愛があるかもしれませんが、私には愛のかけらもありません。
今から私の体験した出来事をお話ししたいと思います。しかし不適切な表現がありますので、まず先に謝っておきます。
数日前の出来事ですが、一緒に住んでる恵太が夕食が要らないと言ったので、外出したついでに、まだ十五時ぐらいでしたけども、早いけどお弁当をテイクアウトしておこうと、新城市のあるレストランに入り、お弁当を注文しました。注文して待っている時店内を見渡すと、数人の方が食事を取られていました。
レジに一番近い席におじいさんとおばあさんが仲良くご飯を食べていました。その人たち、どう見ても八十超えておられるご夫妻でした。そのレストランは「カツ専門店」です。でも、2人でパクパクパク食べてるんですね。 そして、おじいさんが先に食べ終わって、席を立ち、おばあさんに早く行くぞと立ち上がって、お金を支払うためレジに向かいました。奥さんはまだ食べているのです。おじいさん少し待ってあげればいいのに、愛がないなあと思ってみていました。お金を支払ったら、奥さんに早く来い!と怒鳴っていました。さっさと駐車場の方に出て行ってしまいました。奥さんは食事は途中ででしたが、食事をやめて席を立ち上がろうとしていました。見ていると体が不自由な方でした。ゆっくり立ち上がって一歩踏み出した時に、コンクリートの床に転んでしまいました。しかし頭をぶつなかったので、よかったなと思いながら、私は、すぐにそのおばあさんに駆けよって、その人起こそうとしてあげました。しかしお店の人も、お客さんも誰も助けに来ませんでした。私は一人でおばあさんを起こしてあげようとした時、「こんな人助けるんじゃなかった」と心の中で思いました。それは何でかっていうと、まあ、なぜかというと、おばあさんから強烈な匂いがしました。わからないのですが、下の方のにおいとか、体臭というか、いろんな臭いで、とても臭くて、やめようと思ってしまいました。しかしここでやめてはいけないと思い、やっとのことで起こしてあげました。しかし、自分で歩けないのです。少し落ち着かせて一緒にゆっくり歩きましょうっと言ってしっかり体を支えながら、外にいるおじいさんの所まで時間をかけて連れて行きました。すると、そのおじいさんは、おばあさんに向かって「お前、何やってんだ」って言って、ものすごい剣幕で、お母さん怒るんですね。早く来い!と助けることなく、すごい剣幕で怒っていました。やっとのことで車に座らせてあげました。その時一言「ありがとう」と言ってくれましたが大変な出来事でした。車を見ると浜松ナンバーでした。そして自分が注文した弁当をもらって帰りました。しかしそのにおいは強烈だした。私が家に帰るとき、まだおばあさんが私の隣に座っているかのような、私の服にそのにおいが染みついて、車中、めちゃく臭かったんですね。 だから窓全開にして、家に帰りました。
時間が経って夕食食べようと思った時に、まだその弁当から臭いがしていました。ひどい目にあってしまったと思いました。
愛なる神を信じていながら、「助けなければ良かった」などと思ってしまいました。そんな事を考えつつ食事をしている時、心の中で「お前には愛があるのか?」と問われました。私は「私には愛がある。人助けをした」と反発する自分がいました。しかし、「においなどで怒っているが、あなたはあの夫婦の為に祈ったか?」と言われたような気がしました。その時反省させられました。Ⅰサムエル十六章七節
『しかし【主】はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」』
ここに人はうわべを見るが、【主】は心を見る。とあります。見せかけの愛ではだめだ。主は心を見ていると教えられました。食事後私は主の前に出て、昼間であったご夫妻のために祈りました。その後イザヤ書43章4節