あなたの重荷を主にゆだねよ

2025年6月8日(日)IJCC主任牧師 冬樹友博師

詩篇 55編22節【新改訳改訂第3版】あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しいものが揺るがされるようにはなさらない。

ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

ハワイに行って、新城教会に一つ勝っていると自負していることがあります。新城教会では、ハレルヤと一回挨拶する習慣があります。私はその上を行こうと思って、毎週三回、ハレルヤと主をほめたたえています。今回、久しぶりにまた新城教会に招いてくださったことを本当に感謝しています。私がハワイに導かれて三三年になります。すごいなって自分でも思っています。英語もろくにできないまま三三年、日本語を中心に宣教の働きを進めることができました。主の哀れみを本当に感謝しています。私がハワイに行く前から、新城教会で多くの方々が祈って励まし送り出してくださったことを昨日のように覚えています。

今年二〇二五年六月八日。今日は何の日かご存知でしょうか?毎年日は変わるんですけれども、キリスト教の専門用語としても使われている日でもあります。さて、今日は何の日でしょうか?今日はペンテコステの日です。

クリスチャンにとっては、このペンテコステの日をお祝いする教会が増えてきたというか、昔よりよくペンテコステのお祝いをするようになりました。私ももう何十年か前、ペンテコステの日に一八歳で洗礼を受けました。そういう意味において、今日がペンテコステであり、意味深い日であります。「ペンテコステってなんですか」まだ、よくわからないっていう人のために、最初にペンテコステについてちょっとお話をしたいと思います。ペンテコステをお祝いしているのはクリスチャンだけだと思います。では、何を祝うのか。クリスチャンでも詳しく知らない人がおられるかもしれません。私自身クリスチャンになってからしばらく経って、ペンテコステの意味を知ったことを思い出します。それは聖霊が下った日を記念して一般的にお祝いをしています。

聖書を見ていると、ペンテコステの日にどういうことが起こったか詳しく書かれているわけですけれども、イエスさまの時代から、五旬節というお祭りがエルサレムでも行われていました。それは、クリスチャンにとってペンテコステをお祝いする土台が、ユダヤ教の五旬節の祭りであったということを知ることができるからです。

ヘブル語でペサハと呼ばれるそれは過越の祭りですね。これは有名です。イスラエルの民、その当時ユダヤ人たちが、エジプトからモーセによって、導き出されて、そのときにユダヤ人は罪が赦される証として家の門柱に子羊の血を塗ったという出来事ですね。

そのとき以来、ユダヤ人は、出エジプトすることができたことを感謝することを忘れないようと、過越の祭りが今も行われているわけです。それはクリスチャンにとっても、ユダヤ人だけではなく、「罪が赦されたよ。そして奴隷の時代から、脱出してきた。苦しかったエジプトでの生活のことを忘れないように」、というお祭りでもあります。ところが、その後、現在でもユダヤでは、この過越の祭りは盛大に祝われています。この過越の祭りから、五旬節、それからいわゆる第七週後にお祝いをしたのがこのペンテコステなんですね。

七週というのは一週間が七日ですから七×七で四九日過ぎた次の日は、五〇日目という日にお祝いをされたわけです。そこでどうしてペンテコステというのか、それは英語では「ペンタゴン」第五週っていうのはお祝いになっているわけですけれども、ユダヤ教ではこの.ペンテコステの日に収穫祭としてのお祝いもされている。重なってくるんですね。多くの収穫があった。そして、今もそのお祝いが盛大になされているわけです。そして意外と知られていないのが、モーセが出エジプトして、シナイ山まで来たときに、何が起こったか。十戒という律法をもらったんですね。皆さんもご存知だと思います。私達は、その出エジプト記の一〇戒のところを読んでね、何回読んでも十戒(十回)。ここでおじさんギャグを入れて自分でほっとしているような状況ですけども、実はこのイスラエルでそのことが起こったのが、何日目だったか、それは五〇日目だったんですね。それが、ペンテコステの起源になっている。実は、イエスさまが天に昇られてから一〇日後に聖霊を受けたということが中心になってますけれども、実はその日に律法を受け取ったんですね。それが、このペンテコステの祝いになっている。このことをクリスチャンになってからずいぶん経ってから僕も知りました。神さまが律法を与えられた日を記念する日でもあるということですね。

イエスさまはその律法から解放するために私達のために十字架にかかってくださった。律法はもう今はいらない。もう古くなった。と思われるかもしれませんけれども、実はその律法から解放するために、イエスさまが来てくださった。その律法を最初に与えたのが、このペンテコステの日だったということを、私達はもう一度確認したいと思います。律法がなければ、私達は裁かれることもなかったんじゃないか。しかし、人間は、生まれたときから罪を持って生まれてきているので、何とかそれを処理しないといけない。律法を守っているかというと、守り切れてないこれが現実です。そこにイエスさまが来てくださった。そして聖霊なる神を与えてくださった。もちろんペンテコステ以前から聖霊様はおられました。働いておられました。いつからですか。それ実は、天と地がスタートするときから父なる神、子なる神、聖霊なるお方はおられた。ところが、ずっと聖霊様のことはこっち置いといてっていう形でクリスチャンも生活をしていたかもしれない。

しかし、そのペンテコステの日に聖霊様が来てくださった。そしてそれ以降、それまでは旧約の時代は聖霊様がおられるときはすごく祝福されたけど、罪を犯して聖霊様が離れていった。あのサウルをもそんな経験をしてきました。

ところが、イエスさまが十字架にかかって全ての罪を許してくださって以降、イエスさまが天に昇られた後、聖霊様が激しく、私達の生活の中に下ってきてくださって以来、聖霊様はずっと私達と共にいてくださる。これがペンテコステですね。

そういう意味では、クリスマスより、イースターより一番私達にとって大切なお祭りがペンテコステかもしれません。そのことを皆さんにも一緒にシェアしたいと思っていました。

今日与えられている聖書箇所、詩篇の五五篇二二節、二〇一七年訳で読みますって言ったのが、僕の原稿では、第三版の訳になっていると思いますのでそのあたりをご了承ください。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

この一節を選ばせていただきました。そして、今日のまとめはですね、あなたの重荷、心配事を恐れることはない。主があなたのことを心配してくださる。だから任せて信じましょう。これが今日の結論です。今日もみことばの約束を信じて受け取り、しっかり握って、あなたの重荷を主にゆだねて生活していきしていきたいと心から願っています。

今日は三つのポイントでお話をしたいと思います。
一つ目のポイントは、あなたの重荷を主にゆだねましょう。一言でゆだねるといっても、皆さんはゆだねることができていますか。もしかしたら、ゆだねることができなくて苦労してるっていうことがあるんではないでしょうか?ゆだねるとは任せるということです。

私達が毎日の生活の中でいろいろな決断をしなければならないことがたくさんあります。その決断を人に任せていることがないでしょうか?「これやっといて」「これ返事しておかないといけないから返事しておいて」。そのときは意外と無責任な自分がいるんですね。家内に「これやっといてって、任したからね、よろしく」。家内も忙しいのに、「あれまだやってくれてないの」って。「自分でやりなさい」って、神さまが言っているのに、人に押し付けてしまう。そういう意味の任せるではなくて、「いろいろな問題があるが、それを主人に任せなさい」。それを聖書は教えているんではないでしょうか?面倒なことは任せるということは、責任を取りたくないってことですね。だから、都合が悪くなると任せるよ、ってそれをまるでゆだねているかのように言いながら、何か問題があったときは人を責めている。そういうことがあるんではないかなと思います。

世の中は深く考えないでも物事が流れていくことは、たくさんあると思います。気をつけなければならないですが、「あなたの重荷、心配事は恐れるな」と聖書は教えています。

主があなたのことを心配してくださるのです。しかし、答えが出せない。そんなとき、信頼できるアドバイスしてくれる人がいて、「これがいいよ、こうしなさいよ」。しかし、物事がうまくいかなくなっていくときや、アドバイスを受けたときに、「自分はやりたくない、そう言われてもそれは従いたくないし、自分の考えがある」。そのときには悩んでしまうわけですね。だから心配事も増えていってしまいます。あれは嫌だ。こっちがいいとわがまま言うようになってくる。わがままを聞いてもらえると悩みはますます増えていくんですね。何でも「はい、そうします」「こうしなさい」。「はい、そうします」。「やっぱり聞いて良かった」っていう経験をしている間は問題ないのですが、「いや、これよりもこっちの方がいいんじゃないかな」「聞かない方がいいんじゃないかな」。そんな自分勝手でわがままな思いが増えてくると、悩みも増えてくるのではないでしょうか?選択肢が多くなると、悩みが多くなり、どうしたらいいのかわからなくなってしまうことがあるのではないでしょうか?その悩みは、実は贅沢な悩みです。これで問題ないのに、こうした方がよりよくなるんじゃないと思ってしまうと、わがままになってくることが多いんではないでしょうか?しかし聖書が教えている答えは、意外とシンプルなんですね。

先ほど読んだ詩篇五五篇二二節には、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して正しいものがゆるがされるようにはなさらない。」

私はこう見えて、単純です。どう見えてるかわかりませんけど。単純な男です。「イエスさまを信じなさい。」「はい、信じます。」難しく考えることができない。本当はもっと考えなさいって言われてるのに、「いいよ、いいよ」と思っているところが多いのかもしれません。

聖書の約束の中には、素晴らしい約束がたくさんあります。私達はその約束を甘く考えて、なめているところがあるんですね。神さまが言っているのに、真剣に聞いていないことがあります。世の中の常識や世の中の流れに合わせてしまっていることが多いんではないかなと、反省させられることがたくさんあります。

それは神さまの約束っていうのは本当に素晴らしい約束がいっぱい聖書に書かれているので、真剣に聞いていないことが多い、と言えるかもしれません。

私が大学二年生、三年生ぐらいのときに、クリスチャンの大学生KGKというグループでしたけど、全国大会っていうのがありました。僕は京都出身ですけど、群馬県の赤城山の麓に青年の家があってそこで全国大会があったんですね。僕も参加しました。KGKは勉強するのが大好きな人が多かったんですね。今どうかわかりません。今もきっと聖書の学びをする人がたくさんいると思います。僕は勉強するのがあんまり好きじゃなかった、楽しいことが好きでした。

それを期待して行ったんですけど、青年の家で集会をすると、朝ご飯を食べた後に、そこに集っている団体がみんな集まってくるんですね。「私達はこういう団体です、こういうことをやってます」っていうことをクリスチャン的に言うならば、証できるチャンスがあるんですね。そこでKGKの代表が挨拶をしました。一人の女性でしたね。そのときに彼女は聖書のことを紹介しました。マタイによる福音書の一一章二八節から三〇節までこう書かれています。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」