〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
うめきの祈りに応えて下さる「主」

弟は先天性の舌小帯短縮症だったので、赤ん坊の頃に手術をしました。さもなければ、食べたり話したりすることが困難になるからです。「舌足らず」という言い回しがあります。言葉で十分に表現できないことを意味します。

私たちは祈ろうとしても言葉が見つからず「舌足らず」になることがあります。口から出るのは常套句ばかり。思考がまとまらずに空回りしているようで、心を天に向けていても、こんな祈りが神の耳に届くのかしらと心配になります。そういうときは御霊に助けを求めなさい、と使徒パウロは語りました。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と、紀元一世紀のローマの教会に教えたのです(ロマ8:26)。この「助け」のコンセプトは重い荷物を背負うこと、「ことばにならないうめき」は、私たちの必要をとりなしてくださる聖霊の臨在です。辛く心が乱れ、雑念が湧いて集中できなくても、聖霊は、私たちの思いを神の耳に届く完璧な祈りに変えてくださいます。御霊は耳を傾け、応答し、このお方に頼まなければ気がつかなかった思いがけない心の必要を与えてくださいます。
==

このようなメッセージでした。時に、私たちは何を祈ったらいいのか分からない状態に落ち込むことがあります。その時に、助けてくださる存在がおられるのです。
メッセージの中で語られていましたが、ローマ人への手紙八章二十六節、

『同じように御霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。』

私たちの内側に、聖霊さまがおられます。聖霊さまの働きは、言葉にならない、うめきを形にして、完璧な祈りにして、父なる神さまに届けてくださる働きです。

以前にも祈りがどのように機能するのかについてお話しさせていただきました。我々が信じる神さまは三位一体の神です。父なる神さま、子なるイエスさま、そして聖霊さまです。三つにして一つのお方です。祈りとは「イエスの名前を通して、聖霊の助けにより、アバ父なる神に祈る」という流れです。
そのような図式で祈りは神の元に届くのです。この中で重要なのは、「イエスの名前を通して祈る」ということです。世界中に今、うめきがありますから、誰でも祈っています。しかしそれがすべて、神のもとに届いているのかどうかは疑問です。なぜならば、イエスの名前だけが、父なる神さまのもとに届く唯一の名前であるからです。イエスさまの名前を通さない限り、祈りは他の所に行ってしまいます。八百萬の神々の名前を通したり、世界の様々な宗教の神々の名前を通しても、父なる神さまのもとに祈りは届きません。
今では誰でも持っている携帯電話、「一桁くらい違っても、なんとか通じるだろう・・。」と言っても、通じますか?通じないです。他の人の所にかかります。祈りも同じです。イエスさまの名前を通さない限り、父なる神の所には届かないのです。

同時にイエスさまの名前と共に重要なのが、「聖霊の助け」です。聖霊さまの助けがあって初めて、祈りは神のもとに届くパッケージになるみたいです。なぜなら、私たちの限られた言語能力で神さまとコミュニケーションしようとしても難しいからです。それをきちっとした神に響く言語にしてくださるのが、「聖霊さま」です。
そして聖霊さまに助けてもらうために必要な条件が、「うめき」です。どう表現していいのかわからない私たちのうめきを、聖霊さまのうめきとするとき、聖霊さまは父なる神さまのもとに祈りを正確に届けてくだるのです。ゆえに、「うめき」によって、祈りの応えがやってくるのです。
様々な問題があって、言葉にならない祈りが心を支配することがあるかもしれません。それはある意味、重要な場面です。

ハンナは心に悩みがあって、声にも出せないぐらいの祈りでした。彼女は神の宮で、心を注ぎ出してうめいていたのです。
しかしその後、何が起こったのかと言うと、神が彼女の胎を開かれたのです。その結果、偉大な預言者サムエルが誕生しました。

詩篇の記者は二十二篇一節で、

『わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。』

これは旧約聖書の詩編にある言葉ですが、ピンとくる方は、聖書をよく読んでおられる方です。イエスさまがこれと同じ言葉を語られたからです。イエスさまが十字架で、ご自分の命を父なる神さまに委ねる寸前、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれました。
これは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」、かつて詩篇の記者が読んだ詩を、ご自分の言葉として叫ばれたからです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とは、アラム語であると言われます。イエスさまはアラム語を話されていたのですが、ご自分の言語で、父なる神さまの前に、ご自分のうめきを吐露されたのです。
その時に何が起こったのでしょうか。贖いが成し遂げられて、三日目によみがえられたのです。

人生の中にも、様々なうめき・悲しみがありますけれど、言葉にならないうめきは、大きな祝福を生み出す、重要なカギなのです。
うめきの後には大きな喜びがある。必ず、新しい命が生まれ出るということです。

私も三月三日に悪い結果を聞き、家に帰って、出てくるのはただうめきだけでした。皆に会わす顔もないなと、夫婦でがっかりしていたのですが、人間ってしばらくすると精神的にもリカバリーするものです。少しずつ元気になって、もう一度、「そうだ!このうめきを、主の前に出して祈ってみよう!」と思いました。
しかし家内は体調が悪くて、あまり祈ることができませんでした。それで私は「祈りは任せてくれ!」と言って、真剣に一週間祈らせていただきました。
けれども家内が私にこう言うのです。「予備診断で、あのような結果だから、一週間後は、覚悟して行ったほうがいい。」。
それはそうだと思いました。一応の診断でもそこまで言われたのだから、最悪の結果しかあるわけがないと思いました。

ついに一週間が経ちました。その日、正式な診断を聞く為に病院に行きました。そういう場面に遭遇したことはありますか?結構、精神的にも、肉体的にもつらいです。息子や娘にも祈ってもらい、また、多くの皆さんにも祈っていただき、頑張って行きました。
病院に行く前、息子から電話がかかってきました。私が、「祈ってくれ。」と頼んだら、祈ってくれました。
彼は最近、めちゃくちゃ忙しいらしく、この数日間は、東京ドームで仕事をしています。朝から晩まで、どんな仕事をしているのか話してはいけないらしいので言いませんが、忙しくて、くたくたに疲れていましたが、このように祈ってくれました。
「今から、病院に行きますけれど、大勝利となって帰ってきますように!大喜びして、帰って来ますように!」と祈っていました。
私はその祈りを聞きながら、「こいつめ!軽はずみな祈りをしやがって…。そんなこと、あるわけがない。最悪の結果を聞くだけだ。」と思いました。
それで私は彼に言いました。「仕事中に、最悪の結果を聞いても落ち込むなよ。」と言うと、「俺が祈った通りになるように!」とか言って、結構強気でした。

私たち夫婦は、おそるおそる、予約の時刻に病院に行きました。すると予約の時刻よりも早く、診察室に呼ばれました。その時は、結構、肝が据わっていました。診察室に入ると、いつも診てくれる主任の先生が、「先週はすいませんでした。」とか言って、「結論から申しまして、再発とか転移はありません。」と言うのです。
「えぇ!どうしてですか?」と聞くと、「放射線科からのレポートもそのようになっていますし、私もそう思います。放射線からのレポートを見て下さい、再発とか転移は確認できないと書いてあるでしょう。」と言うのです。そして「全て、胆管炎のせいだと思われます。」と言われました。彼女の場合過去のテータが多くありますから、マーカー値も「以前も高い値がありました。それは胆管炎の影響でした」との事で、セーフ!だったのです。
最悪の結果を聞くと思っていたら、息子が祈った通りになりました。それで、喜びと共に帰ることができました。
しかしその後、家内は病院で発熱して、車椅子で家に運んできました。今はちょっと良くなってきましたけれど・・。相当、精神的にも負担だったと思います。

先週、私はうめきの祈りの重要性について、実体験させられ、皆さんにお伝えできて、たいへん嬉しいです。
問題があったら、主の前にひれ伏し、うめいて、祈ってみてください。心を水のように注ぎ出せとあります。
哀歌二章十八〜十九節、

『彼らは主に向かって心の底から叫んだ。シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。』

非常事態宣言が人生の中に起こったら、昼も夜も、詩篇では「毎朝」とありましたが、ここでは昼も夜も、休まず、心を水のように注ぎ出してうめいてみろと言うのです。そうしたら主が働いて下さいます。
これはバビロンに征服された後のユダの人たちに対しての言葉ですが、私にとっては、自分に対する言葉として、主の前に出て祈る一週間となりました。そんな中、主は私たちを助けてくださいました。全く明日に希望を持てない暗闇の中、主は私たちを助けて下さり立たせて下さいました。心から主に感謝致します。

イエスの名を通して、聖霊の助けによって父なる神のもとに祈りは届きます。またそこに、うめきが加わる時、聖霊さまは祈りを具体化して、父なる神に届け、応えてくださいます。
同時に、うめきを、人間だけでなく、被造世界全体にも広げなければならないというのが、聖書が教える重要な真理です。

『私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』(ローマ人への手紙八章二十二節)

ここに「システナージョ」という言葉と、「スノディーノ」というギリシャ語が使われています。それは「表現されない内なる悲しみ」が「共に」という言葉でくくられています。人だけでなく、被造物全体が共にうめいているのです。ある本に、

“パウロは地球が無生物の土、石、水、および植物からなるただの物質だとは考えていなかった。彼は地球には記憶があり、「選択する意思」に近い何らかの能力があると信じていた。おそらくその「意思」は現在私たちが知っている意思とは違うだろう。しかしローマ人への手紙八章には、地球が期待したり、虚無に服したり、うめたり、その完成を切実に待ち望んでいるということを明確に示唆している。”

うめきとは、人だけでなく、人を含む被造物全体のものです。その事実を知って神の前に出る時に、主は祈りに応えてくださるのです。
何回も話してきたことですけれど、ある注解書にこう解説されていました。

“キリスト教の救いとは何か?
キリスト教の救済論は、コロサイ一章二十節の、ほとんどこの一節に要約されている。万物、すなわち地上・天上のすべてのもの、人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も、国家もキリストによって、神と和らがせることが神の欲し給う処であり、悦び給う処であった。”

コロサイ人への手紙一章から、以前にも学びましたが、救いとは人だけのものではなく、十字架の贖いは被造物全体との和解であって、パウロはそれに仕えていたという事実です。
うめきは、私たちだけでは不十分だと言うのです。すべての被造物も主の前にうめいていることを理解する時、『み霊ご自身がとりなしてくださる。』のです。その結果、すべてのことが働いて益となり、八章の最後では「圧倒的な勝利者」になると述べています。

さらに、そこには「霊的戦い」がある事を忘れてはなりません。悪魔はなんとかして、人も被造物も滅ぼそうと目論んでいます。しかし私たちが被造物を味方につけ、敵に立ち向かうときに、大いなる勝利が現されるのです。