主は目的を持ってあなたを選ばれた

2022年11月20(日)新城教会牧師 岡本信弘

ヨハネによる福音書15章16節
『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

早いもので、二〇二二年も残り一ヵ月となりました。皆さんも、十二月になると、この一年を振り返ることがあると思います。
私が今年のみことばとして与えられたのは、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい』(テサロニケの手紙第一五章十六~十八節)でした。簡単な短いみことばですが実行することはなかなか難しく、この一年を振り返り、できていないな…、本当に自分は弱い者だな…と思わされ、自分を見つめ直している時に、先ほどお読みいただいたみことばが与えられました。今日はここから、「主は目的を持ってあなたを選ばれた」というテーマでお話ししたいと思います。もう一度お読みします。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

このみことばを読み返す時、神さまはなぜ私を選んだのだろう、と思うことがあります。確かにみことばにはそうあるけれど、「私も選ばれたの? 私は例外?」と思っている方もいらっしゃるかもしれません。
今日はそんなあなたに、神さまは、神の国の建設のためにあなたを必要として、目的を持って選ばれたということをお話ししたいと思います。

余談ですが、私はプロ野球が好きです。プロ野球に興味がない人はご存じないと思いますが、日本のプロ野球は十二球団あり、毎年百名くらいの人が入団します。ということは、百名くらいの人が引退するわけです。
プロ野球では、各球団が「この人が欲しい」と、希望する選手を指名して契約するドラフト制度をとっています。それぞれの球団は、チームが優勝するためにどこをどう補強したらいいか、どんな人材をとったらいいかなど、レベルの均衡を図るために調査し、スカウトマンが学校に赴いたり、いろいろな野球の試合を見に行ったりして、「この人だったら、私のチームを優勝に導いてくれるだろう。戦力になってくれるだろう」と目星をつけ、十月のドラフト会議で指名するのです。あくまでも球団側が選ぶのであって、選手側が希望しても選ばれなければ入ることができません。
千名以上の人がこのプロ野球に願書を出しますが、実際に入団できる人は百名くらいです。一位に指名された人は契約金をいくらもらえるか知っていますか? 上限で一億円です。最終的に入団するかどうかは、本人が決めるわけですが、一億円払ってまでその人を獲得しようとするということは、その人にそれだけの価値があると認めたということになります。
ただ、どんなに素晴らしいピッチャーがいても、自分のチームで投手が必要なければピッチャーを指名することはありません。野球の場合は、「チームを優勝に導く」という目的のために、球団が選手を選び、指名して獲得に動くわけです。

聖書の中にも、神さまが特別な目的を持って選ばれた人物のことが描かれています。その一人は、イスラエル二代目の王様 ダビデです。
イスラエルに最初にたてられた王は、サウルでした。彼も主に油を注がれ、王として選ばれた人物でしたが、神への不忠実さのゆえに退けられました。
神は、エッサイの息子たちの中に次の王を見つけたから捜しに行くようにと、預言者サムエルをベツレヘムに遣わしました。そのことが第一サムエル記十六章六〜七節に書かれています。

『彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」』

エッサイには八人の息子がいましたが、そのうちの七人が次々前に進みました。しかしその中に主が選ばれた者はいませんでした。

『サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」』(同十一〜十二節)

エッサイの末の息子ダビデを、主は選ばれたのです。では、他の七人の息子たちは主に選ばれていなかったのか、という疑問が湧いてきます。神さまが「イスラエル再建のために」選んだのがダビデだったというだけで、他の人たちも、目的は何かわかりませんが、神に選ばれた者たちであることにはかわりありませんでした。しかし、八人兄弟の末っ子であり、幼い羊飼いの少年だったダビデを、どうして神さまは特別に選ばれたのでしょうか。ダビデの信仰を表している箇所があります。

イスラエルは当時ペリシテと、食うか食われるかの戦闘態勢にありました。圧倒的な力を持って前面に出てきた敵の大将 巨人ゴリアテの前に、イスラエル軍はなすすべもなく、怯えてしり込みしていました。そんな時、兄たちの様子を見に行ってほしいという父の言葉によって戦場にやってきたダビデは、イスラエル軍に暴言を吐いているゴリアテを目の前に、こう言いました。

『おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。……この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。』(同十七章四十五〜四十七節)

ダビデは神に絶大な信頼をおき、必ず勝利させてくださるという信仰のもとに、剣や槍ではなく自分が普段使っている石投げ一つで立ち向かい、ゴリアテを倒してイスラエルに大勝利をもたらしました。
神さまは、彼の信仰を見ておられました。ここに、神さまがイスラエルの王として、イスラエル再建のためにダビデを選んだ理由を見ることができます。そしてダビデは、主のみこころに従い、その目的を果たして神さまに喜ばれたのです。
また、神は人類救済のためにイスラエルの国を選ばれました。そして約束の地カナンを勝ち取るために選ばれた人物は、アブラハムでした。彼は、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われ、信仰によって神に従い七十五歳の時にカランから出て行きました。そして、百歳の時、息子イサクを授かりました。しかし数年後、「あなたの愛しているひとり子イサクをわたしにささげなさい」と神さまから言われ、この無謀とも思えるような命令にも、アブラハムは従いました。神さまは、アブラハムの神を恐れている彼の信仰に応えて、全焼のいけにえとして雄羊を備えられました。アブラハムは、のちに「信仰の父」と呼ばれています。そのように、アブラハムは敵の門を勝ち取る者として、選ばれたのです。
新約時代ではどうでしょうか。最初にリバイバルリストとして選ばれたのは、パウロでした。彼は人々を先導してキリスト者を迫害・弾圧し、投獄するような、キリストに敵対する者でした。しかしそんな彼を、主は、異邦人の救いのために選び出しました。パウロは主に出会い、今までの人生から百八十度変えられ、何度も死ぬほどの苦しみを体験しながらも、主の働き全うし、異邦人への伝道という目的を見事に果たしました。
このように、聖書には神さまが目的を持って選んだ人物のことがたくさん書かれています。
そもそも「選ぶ」とはどういうことでしょうか。調べてみると、「多くの中から目的や基準にかなうものを取り出す。選択する。選び出す」と書かれていました。では、私たち一人ひとりは何の目的のために選ばれたのか、ということを考えてみたいと思います。

まず、今日のみことばにあるように、人間である私たちは、自分がキリスト教を信じようと神さまを選んだのではなく、「神さまが名指しで、私たち一人ひとりを選んでくださったのだ」ということを覚えてください。パウロの時代からすると二千年以上の時が流れていますが、今も変わることのない神、イエスさまは、聖書に登場してくるような偉大な人物たちと同じように、私たち一人ひとりを、神さまの目的の達成のために選ばれたのだということを是非受け止めてください。

新城教会は今年で設立七十二年となりました。神さまは、滝元明先生を日本の救い、福音ために選ばれ、新城での開拓伝道が始まり、一九六〇年には、この場所に赤い屋根の教会が献堂されました。ここを霊的戦いの拠点として神さまが選んでくださり教会が建てられたことは、神さまの大きな目的があり、そして私たちも、偶然にここにいるのではなく、神さまによって導かれ、ここに連なっているのです。
明先生は、伝道者としてリバイバルのために働くという目的のために選ばれたお一人でした。八十五年間の人生をただひたすら人々の救いのために、リバイバルのために走り通した先生で、今も私の最も尊敬する伝道者です。
また、ある人は、「政治家になって国を変える」という目的のために選ばれている人もいます。今年、参議院議員になられた金子先生は、牧師として政界進出をして、この国を神の国に変えたいという思いで、国会で奮闘しています。是非祈ってあげてください。
明先生のような大伝道者にはなれないし、政治家になることもできない、と思っておられるかもしれませんが、それは、その目的のために選ばれ、その選びにふさわしく働いてこられたから大きな働きができたということです。
それは、人それぞれに目的が違うということです。

ピリピ人への手紙二章十三~十四節に、このようにあります。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。』

私たち一人ひとりは神さまに選ばれ、救われました。そして、その選びにふさわしく、神のために少しでも役に立つ者になりたいと願うなら、神さまはそのために志を立てさせてくださり、後押ししてくださるのです。そのために、いろいろな障害物があり、困難なことがたくさんあるかもしれません。しかし、「つぶやかず、疑わずに行いなさい」と、励ましてくださいます。

少し話が変わりますが、来週の土曜日には、浦田兄と原田亜弥子姉(いつも亜弥ちゃんと言っています)の結婚式があります。亜弥ちゃんは私の娘と仲が良く、前から祈っていたので、結婚が決まったと聞いて本当に嬉しいです。
考えてみると、亜弥ちゃんがこの教会に導かれたのにも大きな目的があったと思います。もちろん浦田兄に出会うためということもあったと思いますが、彼女が救われたことによって、多くの親族も救われ、また、霊的に目が開かれた兄姉がこの教会に導かれるきっかけがあったことを見る時に、神さまの大きな目的があって、亜弥ちゃんをこの教会に送ってくださったのだと思います。一人の人が救われる、その目的はそれぞれ違うのですが、主の大きなご計画があるということを私たちは知ることができると思います。
皆さんの中には、家族がまだ救われていない方がいらっしゃると思います。家族の中でクリスチャンは一人だけで、信仰を守り、家族のために祈り続けるのは、忍耐のいることだと思います。私のようにクリスチャンホームに生まれた者には分からない、大変な戦いがあると思います。
実は、わが家は母が救われたことによって家族全員が教会に導かれ、クリスチャンホームになることができました。今から七十年近く前に、母はイエスさまに出会い救われました。当時、この新城では「クリスチャンなんて…」と白い目で見られ、村八分のような状態で、親族からも激しい反対を受けたと聞いています。しかしそのような中にあっても信仰を失うことなく、戦ってくれたからこそ、今私たちは信仰を持ってここにいることができています。
その信仰は受け継がれています。私は五人兄弟の四番目なのですが、兄の正広と姉のけい子と私には共通点があります。それは、三人ともせっかちであること、そしてビジネスが好きというところです。「趣味は何ですか?」と聞かれたら、普通はゴルフとか食べることとか言うと思いますが、私たちは「何が何でもビジネスがしたい」(兄は、ビジネスマンというより「商売人」という言葉が似合いますが…)と答えます。姉は、「あんたも私ももう少し頭が良かったら、もっと儲けて神さまのために献げることができたのにね」と言ったりします。私も「そのとおり」とは思っていますが、姉には「そんなことを言っても仕方がないよ。神さまがこれで良しとされたんだから」と言います。皆さんの中にも、兄や姉のように、献げる目的のために選ばれた人もいるかと思います。