〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
もう一つの神秘、それは「教会」

2022年7月3日(日)新城教会主任牧師 滝元順

エペソ人への手紙 3章8~11節
『すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!
仲一バンドの演奏、爽やかでしたね。歌もうまかったですが、歌詞が良かったです。真実な告白が、一生涯続いて欲しいと思います。

今日は七月最初の礼拝です。少しプログラムが変わりまして、十時からバイブル・リーディングの時間があり、創世記一章を読みました。その後、子どもたちのプレイズタイムがありました。子どもたち、毎回、演奏技術が向上しています。次の世代を担う、賛美の器たちが育っています。
教会とは興味深いグループです。赤ちゃんからお年寄りまで、イエスさまによって一つとなっている大きな家族です。
今も読みましたように、教会とは「世々隠されていた奥義」の一つだと言うのです。天地宇宙を創られた神さまは「教会」を創造するプランを、初めから持っておられました。それは世々隠されていた奥義の実現であったのです。今日はそんなところをご一緒に学んでいきたいと思います。

まずは皆さんにお祈りいただいて、入院していた家内ですが、無事に退院できました。胆管にチューブを入れているのですが詰まり、入院したのですが、無事に取り替えることができました。やがてそれは撤去するものですが、元気に退院して参りました。その日にサイクリングに出かけておりました。このくらいなら、大丈夫かなという感じです。皆さんに祈っていただいて、ここまで来ることができ、本当に奇跡中の奇跡です。この奇跡が突破口となって、教会の中にもっと奇跡が起こるように祈りたいです。私たちの神は生きておられます。

今日は、一年の教会活動をまとめた「リバイバル感謝報告書」を皆さまにお渡しています。礼拝が終わってから、少し説明の時間があります。読んでいただければ、それですべてなのですが、ふり返れば、二〇一九年から二〇二二年まで、本当におにごっこみたいでした。ごっこならばいいですが、実際に、死が追いかけているような年々でした。
特に私は新型コロナ騒動に加えて、家内の病気が目の前にあって、まさしく、死に追いかけられた年月でした。よくぞまぁ、ここまで逃げ切ったという感想です。
新型コロナの問題も、今はウイルスが弱毒化してきたので、亡くなる方が少なくなりましたが、当初はやはり危なかったです。
私の親しい海外の友人が、二人ほど亡くなりました。本当に残念です。世界中が死に追いかけられて、逃げ切ってきた感じです。

そんな中、私が思い出した聖書のストーリーは、預言者エリヤです。彼は一人で、バアルの預言者四百五十人と戦い、勝利した、主の勇士でしたが、その後、彼はイザベルという、最悪の女から命を狙われたのです。そうなったら彼はビビって、一目散に逃げ出したのです。今まではイスラエルでただ一人、全ての敵を相手にして戦っていたエリヤが、イザベルから命を狙われたら、一目散に逃げ出したのです。彼は北イスラエルの領地を脱出して、荒野にまで逃げました。
そしてあれほどの勇士が、こんなことを神に言っています。
第一列王記十九章四節、

『自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」』

私はエリヤではありませんが、気持ち的には分かる気がします。人間は死に追いかけられると疲れ果てます。私も「もうダメかな・・。」と思ったことが、この間に、何度もありました。皆さんも、今までの人生の中で、そんな体験を何度かされたかもしれません。

しかしそんなエリヤに、主は優しく語り、ご自分のみ使いを遣わされ、助けられました。

『彼がえにしだの木の下で横になっていると、見よ。ひとりの御使いが彼にふれ、「起きて、食べなさい」と言った。 彼が見ると、見よ。彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。』

エリヤは神が用意されたパン菓子と水によって、少しの間、安らぐことができたようです。彼はそれを食べて、また横になりました。
先日、「体に最も悪い朝食」メニューが出ていました。皆さんはどんなものを食べていますか。もっとも体に悪いのは、「菓子パンと缶コーヒー」だそうです。それを続けると、やがて病気になるそうですので、気をつけてください。
神さまは「菓子パン」ではなくて「パン菓子」をエリヤにくれたみたいです。菓子パンではなくて良かったですね。そして缶コーヒーではなくて水でした。
これは何を意味しているのでしょうか。エジプトから脱出したイスラエルは、荒野でマナによって養われたことを再現していると思われます。イスラエルは神からの食物、マナを食べたのですが、彼らは荒野での戦いに勝利できなかったのです。
同じようにエリヤも、ダメでした。

しかし主の使いがもう一度戻ってきて、彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから。」と言いました。
『彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。』と記録されています。二度目のパン菓子と水は、一回目とは違い、すごい力となりました。それでエリヤは力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブまで到達したのです。ホレブとは、モーセが十戒を受け取った記念の山でした。そこまで四十日かかって到達したのです。
このように、荒野で死にかけていたエリヤを、神はパン菓子と水で力づけて、立ち直らせたのです。
これは何を意味しているのかと言うと、やがてイエスさまがご自分のからだを十字架で裂いてくださり、血を流してくださる事、その象徴としての「聖さん式」を表していると思われます。
エジプトからカナンの地まで、四十年かけて到達した象徴として、エリヤは「四十日四十夜」かけて原点であるホレブまで到達しました。

長く続く新型コロナの試練にありますが、恵みもあります。今回まとめさせていただいた報告書の中にも、コロナがなかったら、与えられなかった祝福がレポートされています。
今週は、ヘブンズアイスクリーム&コーヒーの一周年記念イベントがあります。これはただ、アイスクリームを売るイベントではありません。伝道会が付いていて、コンサートが行われます。福音が地域に宣べ伝えられます。コロナがなかったら、きっとなかったと思われます。神さまがコロナを通して、恵みを与えてくださいました。

また私たち夫婦は、聖さん式で救われたと思います。家内が病気で望みがない中、抗がん剤を飲む度に、聖さん式を行って服用しました。それで癒されてきました。もちろんそれだけではなくて、皆さんの熱い祈りと、とりなし、そして霊的戦いが背後にあったからですが、まさしく、聖さん式はエリヤが第二回目に神から受け取ったパンと水のようなものでした。
私たちはコロナ騒動の悪い面ばかりを見ますが、このような中にも多くの感謝があります。

エリヤはホレブ山まで逃げて行ったのですが、そこでモーセのように神と出会いました。洞穴に隠れていたら、ものすごく激しい風が吹いてきたと言うのです。「この中に神さまはおられるか?」と思ったら、おられなかったと言うのです。
次に地震が起こったのです。「地震の中に神はおられるのか」と思ったら、そこにもおられなかった。次に、火が現れたと言うのです。乾燥した砂漠の中、火が現れたわけです。絶対に神さまがおられるに違いないと思った事でしょう。しかし、そこにも神さまはおられなかったと言うのです。

日本に近年、起こった事柄をみれば、激しい台風があったり、大地震があったり、原子力発電所が壊れて、見えない火が飛び出したりと、振り返れば、日本は神に立ち返るのではないかと、何度も期待させられました。しかし、そこには神さまはおられなかったというのか、日本人は、神に目を向けませんでした。何かエリヤの体験に似ている気がします。

しかし最後、エリヤに「かすかな細い声」が聞こえたと言うのです。神は激しさの中でも語られますが、「かすかな細いみ声」でも語られるということも、知らなければなりません。
今朝は聖書を朗読する時間がありました。聖書を読んでいる中、はっきりと聞こえないように感じるかもしれないけれど、神は声をかけてくださいます。
それまでのエリヤはたいへん激しく、派手な働きでした。しかし、最後の神との出逢いは、「かすかな細い声」でした。
エリヤがその声を聞いた後、本当の人生が始まりました。彼はイスラエルにおいて、「自分一人だけが戦っている」と、孤独感を覚えていました。しかし神が細い声で告げられたのは、
第一列王記十九章十八節、

『しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。』

自分はひとりぼっちだと思っていたけれど、イスラエルには七千人もの勇士たちが隠されていたのです。
おにごっこのように、ただ逃げる日々が続いていますが、私たちが疲れ果てたときに、神は細い声をかけてくださいます。
「これからが本番だよ!」と語ってくださるのではないかと期待しています。これからが主の働きの本番であるに違いない!と信じています。

次は、追われるのではなくて、「逆に彼らを追うようになる」のです。
私は二〇〇〇年に、この教会の主任牧師に任命されました。大きな責任と仕事を任されて、これから大変だなと心配になって主の前に祈った時、イザヤ書四十一章二節・三節の言葉が与えられたと信じています。

『だれが、ひとりの者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせられるのか。誰が彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。彼はその剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように追い散らす。彼は彼らを追い、なんなく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。』

その時、このみことばが私の心に響いてきました。私にできるのか心配していた時に、「まだ歩んだことがない道を、なんなくあなたの足で進んでいきます!」と主が後押ししてくださるような気がして、決断した思い出があります。

今回、いくつもの試練に見舞われて、力を失った時、このみ言葉を思い出しました。
「あっ!そういえば、かつてイザヤ書四十一章二節、三節を与えられた!」と思い出しました。今歩んでいる道は、未知の道で、もしかしたら、誰も歩んだことのない道かも知れないけれど、主が共におられるなら、なんなく進んでいくはずだ!と信仰を持ちました。

様々な苦労がありますが、これからが主の働きの本番であると信じます。
今週は、新城教会にとって大変重要な週です。それは一九九二年七月九日、教会に新しいことが起こったからです。私がまとめた「主が立ち上がられた日」という本がプレイズブックスにありますから、読んでいただきたいと思います。一九九二年は、本当に驚くべき年でした。二月十三日に激しく聖霊が注がれて、七月九日に地域に対する霊的戦いが始まったからです。それも早天祈祷会の只中で、全員に同じ思いが与えられました。どう説明していいのか分からないのですが、今週の土曜日は、七月九日です。六時から早天祈祷会がありますので、是非、集まって下さい。皆さんでもう一度、祈りたいと思います。

甲子園ミッションの準備のただ中で、これからどう進んでいいのか、思案しているただ中でした。そこで主が一つのみことばを与えて下さいました。それはコリント人への手紙第二、四章一節〜四節です。

『こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。』

まず私たちが、クリスチャンとして、社会に対してどのよう態度をとらなければならないのかが、ここに示されています。
日本でクリスチャンとして歩むのは、なかなか大変です。周りにクリスチャンはほとんどいないし、いろいろプレッシャーを感じるかもしれません。しかしここに書かれているように、『恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。』とあります。自分自身を神の前に推薦するとは、イコール、すべての主を知らない人たちの前に、神の国の代表者として、生き様を通して、イエスさまを現すことです。
日本のクリスチャンは大変真面目です。しかしなかなか福音が伝わりません。その理由が続いて語られています。

『それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。』

それでもなお人々が受け入れない理由は、「覆いが掛かっている」と言うのです。今ここに、大きな毛布を持ってきて、皆さんの上に広げたら、光が照っていても、光は届かなくなります。光を届けるためには、まず、覆いを取らないと、どうにもなりません。
日本で百五十年以上に渡って、福音が伝えられ、クリスチャンが真面目に人々に、自分自身を明らかにしても、なおも福音が伝わらないとしたら、どこに原因があるのか。それは、「覆いがある」と言うのです。

九二年の六月頃、青年たちが「ハートフルサパー1000」という集会を企画していました。千人以上の人たちを豊川の河川敷に集めて伝道集会をやろう!という計画でした。一生懸命人々を誘うのですが、一週間前の動員状況は、千人に対して、三百人しか集まっていませんでした。
しかし祈祷会の中で、「この街には覆いがあるから、覆いを取り去る祈りをしなさい。」という主からの声を聞いたのです。その覆いとは、「この世の神、悪魔・悪霊ども」である事を教えられて、みんなで悪魔に立ち向かって、初めて祈りました。
それで開いたハートフルサパー、すごかったです。これは預言的な写真だと私は信じています。やがて新城教会にこの光景が実現すると堅く信じています。

なんと千二百人が集まりました。「私はこの集会に参加しました!」という方、スイッチオン。おられますね。新城教会の縮小セットを豊川の側に建てて、まさに、いのちの川の側の、神の国の食事会でした。

しかし「街に覆いがある」と本格的に教えられたのが、その後の、七月九日でした。主が訪れてくださり、霊的戦いが街に対して始まりました。それを通して、教会とは、霊的覆いを取り去る場所だ、と教えられました。教会の役割について教えられたのです。

教会とは「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義を実現する場所」だと言うのです。それをすべての人に明らかにする場所だと言うのです。
その内容とは、

『これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。』

教会とは、ただの組織ではないのです。天上にある支配と権威に対して、教会を通して「神の極めて豊かな知恵を知らせる」場所だと言うのです。
天上とは、どこでしょうか。神の国だと勘違いする事が多いのですが、もしも、これが神さまの天ならば、どうですか。神の国は神の知恵で満ちている場所です。そこに今さら、神の極めて豊かな知恵を知らせる必要はないわけです。この「天上にある支配と権威」とは、エペソ六章十二節に対応しています。

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

ここに「天上にいるもろもろの悪霊との戦い」が出てきます。霊的戦いには、三つのレベルがあります。「支配と力」とは、地上レベルです。「暗闇の世界の支配者たち」とは、星々の世界、宇宙レベルの戦いです。原語では「コスモクラトール」という占星術用語が使われています。そして、最も厳しい霊的戦いは、「諸天レベル」の霊的戦い、すなわち、「天にいる諸々の悪霊」との戦いです。
実は初代教会の教父たちは、パウロが書いたこの文章、「天上にいる諸々の悪霊」という表現にたいへん戸惑ったそうです。「えっ!?天に悪魔がいるの?」と。しかし、どう調べても、パウロははっきりと、天上に戦いがあると語っています。
聖書をよく読めば、ヨブは天の会議に悪魔が入って来て訴えられました。
以前にもお話ししましたが、天には悪魔が訴える窓口、「天の法廷」があるのです。天の法廷で勝利できるか否かは、実生活に大きく関わります。

二十五年間、悪魔の世界に身を置いていた男が救われました。ジョン・ラミレスという、プエルトリコ出身の人物です。彼は二十五年間、悪魔の祭司として、特に、ニューヨークの闇の世界を牛耳っていたのです。しかし彼はイエスさまと出会い、パウロのように、今では、霊的戦いの勇士となり、世界中を回って伝道しています。彼が書いた本の中に、

“私は世界中の信者から信じられないほどの苦しみを訴えるEmailを毎日受け取る。主を心から愛するクリスチャンの兄妹姉妹が地獄の軍団によって攻撃されている。心を痛めながら、こう言いたい。「今日、霊の戦いをする教会はどこにあるのか。」”

教会の目的とは何か、それは天の法廷で訴える、闇の軍団に対して立ち向かう事です。その為の唯一の機関が教会です!この働きを決してやめてはいけません!と主は言われます。

彼は悪魔の祭司として、ニューヨークのあるブロックを支配していたそうです。そのために彼は年間二回、必ず、やっていたことがあったそうです。それが何かと言うと、夜中に街の四隅に行って動物を殺して、血を注ぎ、悪霊を呼ぶ行為を、必ず行ったそうです。これをやらないと闇の仕事がうまく行かないというのです。四隅を取ると地域を悪魔の支配下に置けるというのです。その結果、闇の仕事が思うように進んだと言うのです。しかしそれを怠ると、働きがうまくいかなかったそうです。
悪魔は神の法則をよく知っています。オセロのように、街の四隅を奪ったら、街を勝ち取れるということです。

実は九二年に、主が私たちに教えてくださったのは、新城市の四隅に行け!ということでした。街の四隅には悪しき力の拠点があって、街全体が悪魔の支配に陥っているという事でした。
「四隅に行って、悪しき契約を取り消しなさい!」ということでした。また「四隅で主の民が聖さん式を行いなさい!」と語られました。
前回も話しましたように、私は聖さん式があまり好きではなかったのですが、戦いに出て行こうとする瞬間に、主が「ちょっと待て!聖さん式を行ってから出て行きなさい。」という思いが与えられて、四隅に出て行きました。
このような祈りを、いつしか「エックス祈祷」と呼ぶようになりました。なぜならば、対角線を結ぶとXになるからです。

街が悪魔の手に陥っているので、街を解放する祈りをし始めなさいと語られたのが、他でもない、一九九二年七月九日の早朝でした。
なぜ七月九日だったのか?初めは何も意識していなかったのですが、その後、気づかされました。
新城市は、歴史的な街です。「天正三年五月二十一日」に、設楽原の戦いがありました。それを太陽暦に直すと「一五七五年七月九日」になります。設楽が原の戦いが始まったのは「卯の刻、朝の六時」でした。
なんと、霊的戦いが始まったのは、「七月九日、朝の六時」でした。このことに気づかされた時には、本当に鳥肌が立ちました。
私は理系の人間で、歴史のことは全く興味がありませんでした。この街には、多くの血が流されています。数時間の戦闘で、一万六千人が死んだのです。こんな激しい戦いは、世界で初めてだったと言われます。鉄砲が効果的に、戦略的に用いられて、数時間の戦争で一万六千人もが死亡したのは、世界で初めてだったそうです。これほどの規模の戦いが次に起きるのは、ヨーロッパにおいて三百年後でした。
短時間に世界で最も多くの人たち、「六時間で一万六千人」が命を落とした戦いが、新城市で起こったのです。それは近代戦の始まりでした。

なぜ、新城市で神が霊的戦いを始められたのか?という理由がわかった気がしました。
私たちはもう一度、初心に戻って、街を勝ち取る為、世界を勝ち取るために、決意を新たにしたいものです。

実は昨日、興味深い集会がありました。それは世界中をつないで祈る「グローバル・プレイヤー・リレー」と呼ばれる祈祷会でした。多くの国々の人たちと一緒に祈りました。
これを主催したのは、アフリカ系の女性たちで、昨日はズームを使って世界を結んで行われました。ズームでの集会も、コロナがなかったら実現しなかったと思います。

どうしてこの祈祷会に参加することになったのかと言うと、祈祷会の司会者が、新城教会に長く来られていた、ジャマイカ人のキャリアンさんであったからです。彼女は今、この働きに参加していて、「是非、新城教会も加わってください。」ということで、参加することになりました。キャリアンの娘も、こんなに大きくなりました。帰国後、もう一人子どもが生まれました。素晴らしい家族となっています。
キャリアンさんは、十年前ぐらいに新城教会に来られたのですが、私は印象深く覚えています。中庭でバーベキューをしていたら、黒人女性が自転車で入って来て、英語で、「この教会のパスターいる?」と言うのです。「はい、私です。」と答えると、私の所に来て、「パスター、この教会って危険じゃない?」と言うのです。私は頭にカチンっときて、まだ聖められていませんね。彼女に言いました。「危険かどうか、自分の目で確かめろ。」すると、「分かった!おっけぃ!」と言って、風のように走り去って行きました。
その後、彼女は喜んで集うようになりました。
ある時、彼女が私の所に来て、「パスター、ちょっと祈ってほしい。」と言うのです。なぜかと聞くと、「私の人生に、いろいろ問題があって、今も大きな問題が起きている。」と言うのです。
私は「そのような問題は霊的な問題の場合が多いよ。家系的な問題とか…。」と話し始めたら、「NO!!」と言うのです。「そんなの私は信じない!そんなのあり得ない!」と言うのです。彼女はイギリスの神学校を出ていて、聖書の知識も、そういう神学を学んだのでしょう。「霊的問題なんてあり得ない!」と言うのです。だから私はその時にもカチンっと来て、「分かった。それじゃぁ私も祈らないよ。」と言ったら、「パスターが祈りたければ祈ってもいいよ。」と言いました。私は、「理解しないなら祈らない!」と言って、追い返してやりました。彼女の性格はむちゃくちゃストレートですから、そういう時はこちらもストレートにしないと通じません。

しかし私たちは、彼女のためにとりなして祈らなくてはいけないと思わされました。彼女は教会のすぐ近くに住んでいたので、その地域をとりなして祈りました。「彼女の目の覆いが取り去られますように!」と祈りました。
そうしたら不思議なことが起きました。なんと、彼女が住んでいたアパートに、悪霊が出たと言うのです。それも、自分の故郷のジャマイカから派遣された悪霊が目の前に出てきて攻撃されたと言うのです。
彼女はそれまで、霊的戦いについて信じていなかったのですが、その体験で目が開かれて、戦いのスイッチがオンになりました。それからは大きく変えられて、とりなしの勇士となりました。

二〇一五年のことでしたが、「私の国、ジャマイカに来て祈ってください!」と言われて、瀧川先生と共にとりなしに行きました。
実は昨日のプレイヤーラリーのメッセンジャーは誰だったか知っていますか。私じゃないです。なんとパスター瀧川でした。彼は二十分間、すべて英語でメッセージをしました。彼はアメリカに数年住んでいましたから、英語ができて当然ですが、いや〜、恵まれましたよ。一回、ここで英語でやってほしいくらい、良いメッセージでした。世界の人たちが素晴らしいとコメントしていました。それは霊的戦いのメッセージでした。
いろいろな国の方々が熱く祈っていました。戦いの祈りをしていました。今、世界を変えるためには戦うしかありません!それは、人と戦うのではなくて、目に見えない敵との戦いです!と、そのことに気づかされています。まさに主は、七千人の勇士たちを世界に用意しておられることを、昨日も体験しました。
アフリカの方々の祈りは凄かったです。一人のおばさんの祈りは、このまま召天されるのではないかぐらいの勢いの祈りでした。これだけ激しく祈ったら、神さまは聞かざるを得ないだろう思いました。九二年に霊的戦いが始まって、そんな中、キャリアンさんも霊の目が開かれて、今ではオン・ファイヤのとりなし手となって、世界中の友と祈るようになりました。

私がジャマイカに行った時、ちょうど親父が死にかけていて、本当に大変だったのですが、初めてジャマイカに行きました。そこでたいへん良い体験ができました。
綺麗な所です。でも、島のほとんどがジャングルです。最も魔術師が多い国だと言われます。ジャングルの奥に入って祈りに行きました。

九十二年に新城教会で始まった霊的戦いが、三十年間で世界に広がりました。昨日はアジアのために祈るという企画で、ザワメキも賛美しましたし、チェ先生が韓国代表で祈りました。また、パク先生夫妻はネパール代表で祈りました。これらも九二年七月に主が訪れてくださった実です。教会の使命とは何か?を教えられなかったら、広がらなかったのです。

教会は何をしたらいいのか?それは、天で訴える悪魔の訴えを取り下げる場所なのです。
新城教会は何のために存在しているのか?悪魔の訴えを取り下げる場所として存在しています。悪魔は真剣に、主の民を天の法廷に訴えます。悪魔とは「ディアボロス」=「中傷者、告発者」という意味です。
そして『あなたがたの敵である悪魔が吠えたける獅子のように食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っている。』という、「敵」という言葉は、以前にもお話ししましたけれど、「アンチデコス」=「訴訟を起こす者」という意味です。私たちを天で有罪にする役割を持っているのが悪魔とその一味、悪霊どもです。彼らは理由を見つけては、合法的に訴えます。しかし私たちは、教会として、イエスさまとともに法廷に立ち、「異議あり!」と異議を唱えて、天で勝訴するならば、地上も変えられます。

今一度、私たちは教会に与えられた役割をしっかりと理解し、霊的戦いが始まった週に受け取りたいと願っています。

『また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。』

エペソの六章でパウロは『私たちの戦いは血肉に対するものではない。主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる諸々の悪霊との戦いだ。』と結びました。

教会、それは神が創造された奥義のひとつです。その奥義の内容は、「天にある支配と権威に対して、神の豊かな知恵を宣言する場所」であることを確認して、この七月、主の前に歩み始めたいと願っています。
最後に一言お祈りさせていただきまして、私のメッセージに代えさせていただきます。一言お祈りします。

天の父なる神さま、み名をあがめて、心から感謝をいたします。教会がどのような存在であるかについて、今日は共に学びました。あなたがこの教会に訪れてくださり、役割を教えてくださったことを心から感謝いたします。
主よ、この記念の週に、もう一度、教会の役割を確認させてください。世界が悪魔によって覆われていますけれど、覆いを取り去らせて下さい。イエスさまがもう一度帰って来られる道を用意する教会に変えてください。そのために働く勇士として、私たちを用いてください。
すべての栄光をお返しして、尊きイエスさまのみ名によって祈りをおささげいたします。アーメン。