〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
伝道礼拝 「豊かな人生のための条件」

2022年6月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書 10章25節~28節

『さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

皆さん、おはようございます。そして、ハレルヤ!

One way boysの賛美、爽やかで良かったですね。J-pop風の新しい賛美でした。この教会で生まれ育った子どもたちが、主が用意してくださった真理の道を歩み、成長してほしいと、心から願っています。

 

私のためにも、家内のためにも祈っていただき、本当に感謝しています。実は家内、昨日、緊急入院してしまいました。先週の木曜日に検査したら結果も良く、腫瘍マーカーも正常で良かったのですが、術後の胆管炎があり、胆管にパイプが入っています。それは、やがて取り去る予定ですが、三ヶ月くらいすると詰まるわけです。「取り替える為の入院手続きをしましょう。」と言われ、今週、そのことについて医者と話すことになっていたのですが、その後、熱が出て昨日、そのまま入院となりました。今日は病室からネットで礼拝に出ています。

今朝は熱も引いて、楽になっているみたいです。明日、内視鏡を入れて取り替える過酷な処置がありますので、是非とも、うまくいくようにお祈りいただけたら感謝です(無事に終わり退院しました。お祈りを感謝いたします)。

 

主が家内の命を助けてくださり、三ヶ月、四ヶ月という命が、すでに二年十ヶ月以上になりました。私たちの神さまは本物です。

様々なことがありますけれど、一歩一歩、主に頼って行く時に、道が開かれる事を、日々体験しています。

今日は伝道礼拝です。「伝道」とは、「道を伝える」ことです。私たちクリスチャンが歩んでいる道をお伝えする礼拝です。

私たちが生きている世界には。多くの問題があります。また、「これが正しい道だ。」と言うような声も多くあります。「この道を選んだら大丈夫。」なんて力説するYouTube動画も数多く見かけます。何が本物か分からないです。

しかし古くから、一つの道があります。それがイエス・キリストの道です。

 

幕末に一人の男が生まれました。新島襄という人物です。同志社大学を創立した人物です。その大学を卒業された方もおられるかもしれません。

彼が生まれた当時、日本はキリスト教禁制の時代でした。各所に「高札」が立てられていて、当時の人たちが守らなければならない掟が記されていました。

中でも最も人目を引いたのが、キリシタン禁制の高札でした。もしもキリシタンがいたら、すぐに御上に告げなければなりませんでした。五人組という制度が作られて、互いに監視されていました。もしも宣教師を見つけたら、銀六百枚が報酬として与えられました。すごい金額です。イエスさまは銀三十枚で売られましたが、日本においては銀六百枚でした。これは現在の数百万円に相当します。

修道士を見つけたら銀三百枚、一般の信徒を見つけたら百枚となっています。相当、江戸幕府はキリシタンを恐れていたわけです。なぜならば、キリスト教が入ると、スペインとポルトガルに国を奪われる恐れがあったからです。新島襄はそんな只中に生まれたのです。

 

ある日、彼が友人の家に行くと、聖書の教えを短くまとめた漢文の冊子があったそうです。彼はそれを読みたいと思ったそうです。彼は海外の文化等に興味があったからです。幕末にはプロテスタントの宣教師たちも、学校の先生だとか、医者だとか、様々な形で入ってきていました。それで聖書を翻訳したりして、キリスト教布教解禁に備えていたわけです。

彼は小冊子を手にとつて読んでみたいと思った時、最初に思ったのは「私がもしも、キリシタンになったら、家族全員が張りつけになってしまう。」と恐れたそうです。

しかしどうしても、その冊子を読んでみたいと思って、こっそりと家に持ち帰って、一気に読んだと言うのです。

やはり頭のいい人は違います。一回読んで、彼は次のように書き残しました。

 

“そこで私はその本を置き、あたりを見回してからこう言った。”

誰かに見られていないか…?と、心配になったのでしょう。

 

“「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。私の机を作ったのは誰か。大工か。いや、神だ。神は地上に木を育てられた。神は大工に私の机を作らせたが、その机は現実に、どこかの木からできたものだ。それであるなら、私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない。”

 

彼は聖書の小冊子を読んで、一発で「本物の神さまがおられる!創造主なる神がおられる!」と気づいたのです。私たちも、こうありたいですね。彼は神の存在に気づいて、人生が大きく変わりました。

彼の人生はそんなに長くはなかったのですが、その後、アメリカに渡り、日本に戻ってミッションスクール「同志社大学」を創立し、歴史に名が残る人物になったわけです。

 

キリスト教を宗教だと思わないでいただきたいです。これは宗教ではなく、「真理の道」です。もしも、本物の神さまがおられたら、その方を神として認めるのは宗教ではありません。自分の両親を両親として認めて、「宗教に入ってしまった!」と言わないですよね。両親を両親として認めるのは、当然のことです。同じように、本物の神さまがおられたら、その方を認めるのは宗教ではなく、人間の本分です。その方を認めたら、絶対に祝福されるはずです。

 

聖書には、人生が祝福される秘訣と条件が記されています。それは多くの箇所にあるのですが、今日は特に、先ほど読んでいただいた、ルカの福音書十章二十五節〜二十八節からお話しします。もう一度読んでみたいと思います。

『さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 

これはすごいことです。「永遠のいのち」があったら、欲しいと思いませんか?人生は長くても九十年、百年で終わってしまいます。しかし、死後の世界もあります。また、死後の世界のそのまた後のよみがえりの世界まであると聖書は語っています。永遠の世界があるのです。死も苦しみも悲しみもない、素晴らしい神の国が究極のゴールです。

 

律法の専門家が、イエスさまを試そうとして、イエスさまに質問したのです。すると逆に質問を返されて、専門家の答えはドンピシャでした。「それを実行したらいのちを得ます。」とイエスさまは彼に告げられたのです。

神が実在するならば、我々もここに記されている条件を実行したら、いのちを得るはずです。永遠のいのちという、すごいゴールの過程で、素晴らしい人生となるに違いありません。

その条件を短く端的にまとめると、二つになります。

 

一番目は、「神さまを愛する」

二番目は、「隣人を愛する」

その結果、「永遠のいのちが与えられる」

 

難しくないですよね。普通の宗教家なら「修行が必要だね。断食が必要だ。」と言うはずです。しかしイエスさままの条件は簡単です。神を愛することと、隣人を愛することだけです。

 

人間には誰かを「愛する」という特徴があります。誰かを愛した経験はありますか?また、動物を愛したり、植物を愛したり、様々なものに人は愛情を注ぎます。愛とは、どう表現して、どう定義していいのか分かりませんが、内側にある事は確かです。

どうしてかと言うと、天地宇宙を造られた神さまが愛をもっておられるからです。新島襄が出会った神さまは、愛なる神さまです。神さまの中に愛があるから、我々にも、分け与えられているのです。

「愛」を感じたら、自分から沸き上がっているのではなく、神から分け与えられたものだと感謝して下さい。「私は生まれてこのかた、愛を一度も体験したことがない。」なんていう人はいないはずです。

 

この頃、孫のひとりが、神じゃなくて亀を買ってきて世話しています。昨日も亀を世話しながら、「かわいいなー、こいつは!」と言うのです。私は亀を愛したことはないですが、彼は、「かわいい!こいつ!たまらん!」と言っています。

また先ほど、歌っていた青年は、イエスさまに対する愛情もありますが、八月に結婚される彼女に対する愛情も溢れているように感じました。年頃になれば、誰かを愛するようになります。

誰かを愛するようになると、その人のことが四六時中、気になります。私にもそういう時期がありました。それは五十年ぐらい前の話ですが、一人の女性のことが頭について困りました。それは誰かと言いますと、もちろん今の家内です。家内が二十代の頃の写真です。ちょい可愛いでしょう。

愛情とは神さまから与えられたものです。ゆえに本来、最も思いを寄せなければならないのは、「神さまに対する愛情」です。

 

『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』と勧められています。「いのちを尽くし、」という意味の別訳があります。それは、「たましいのすべてを持って、」という意味です。

聖書の神さまは三位一体なる神さまです。天地を造られた神さま、人間の姿を取って地上に来てくださったイエスさま。今は聖霊さまという形で存在されている神さまです。それは唯一、同一の神さまです。もしもイエスさまが、肉体という形で今もおられたら、一箇所にしかおられません。しかし今は、どこにもおられます。三位一体なる神さまを愛する思いを持ったら、人生は必ず、豊かになります。

 

今週、試してみてください。「イエスさまを愛します!」と、語りかけてみてください。まずは告白から始まります。告白してみましょうか。「イエスさまを愛します!」告白することは神を愛することになります。「イエスさまを愛します!」

そして父なる神さまのことを「アバ、父」と呼んでもいいと言うのです。「アバ」とは、「おとうちゃん!」という意味です。なんと天地宇宙を造られた神さまを、「アバ、父!」「お父さん!」と親しく呼ぶことができるのです。「アバ父なる神さま、愛します。」と告白しましょう。「アバ父なる神さま、愛します。」いいですねー。

そして「聖霊さま、愛します。」言ってみましょう。「聖霊さま、愛します。」

 

今週は、この言葉を心の中に留めて、告白して下さい。

『心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』たましいのすべてを神さまに向ける人生になったら、本物の愛が私たちに流れ込んで来ます。

 

日本では「神様」と言うと、怖いものばかりです。いつも話していますが、日本の神々って、およそ愛の対象にはならないです。不動明王と手を繋いでデートに行きたい女性はいません。千手観音に抱きしめられたいと思っている人もいないはずです。恐ろしい魔物みたいな神々ばかりです。あれは本物の神ではないのです。後ろに隠れているのは、神ではなく、神のふりをした「悪霊」です。

本物の神さまは、愛の神さまです。私たちが「愛します」と告白したら答えてくださるのです。すでに神さまは私たちを愛していますから、応答しなければいけないのです。恋愛もそうじゃないですか。一方が愛したって、応答しなければ成立しません。神さまは全人類を愛しています。次には、私たちが応答しなければいけないのです。