かまを入れよ。刈り入れの時は熟した

2023年3月5日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

ヨエル書3章13節

かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。

三月にすでに入り、この被造社会を見ると、梅の花も咲いて新しい命が芽生えて、喜びの季節がやってきていると、主に期待の思いを与えられる今日この頃であります。
また今朝の素晴らしいモーセスさんたちの証しも本当にただただ主の素晴らしさを受け取らせていただいて、今日はさらに主に期待をさせられるような日であると感じています。

今日は私が二〇二三年に対して、この新城教会に預言的メッセージとして与えられたみことばを、皆さまと共に分かち合っていきたいと思います。ヨエル書三章十三節をもう一度お読みします。

『かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。』

今朝はこのみことばから、私が神さまご自身から覚えさせられていること、教えられていることを共に分かち合っていきたいと思います。
最初に簡単に、私自身がこの二〇二三年に与えられているみことばをまとめたものをお分かちしたいと思います。

“この二〇二三年、主の刈り入れの時は熟し、私たちは大胆にかまを入れる年となる。そして主のみ座から流れ溢れる収穫の恵み、主の勝利を受け取る年となる。そのために私たち新城教会一人ひとり、幼い子からお年寄りまで、すべての世代が、今一度、主に私たち自身を献身して、主を王として仰ぎ見、また畏れて、主の勇士として総力を尽くして立ち上がっていく。また主の軍隊として集い、敵に立ち向かっていく。そして、ただただ一筋にひたすらに主への賛美と礼拝をおささげするように。”

そのように神さまから語られているような気がします。今日はその内容を今から見ていきたいと思います。昨年末ぐらいにヨエル書の三章九節から十節のみことばが、私の心の中にずっと巡っていました。

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。』

「聖戦をふれよ。聖戦をふれよ。」と、賛美もありますが、このみことばが、なぜか分からないのですが、ずっと心の中に巡り続けていました。そんな中でこのヨエル書を私自身、少し学んでみましたので、皆様とともに学んでいきたいと思います。

このヨエル書の主題というのは、「主の日」と言われます。終わりの日、主の日に、イエスさまがもう一度この地上に帰られて、この地上に天国、神の国を完成してくださる。その日に対しての預言であると言われます。そしてその日が非常な早さで訪れようとしている。そんな預言をしている書巻であると言われます。
そして私自身が与えられているヨエル書三章の部分は、特に終わりの日における約束の民に対して、神さまご自身が、この民に敵対した敵、諸国民に対して、審判、裁きが下ることが述べられている箇所であります。主による徹底した裁き、そして約束の民に完全なる勝利が与えられるということが書かれてあります。また、ユダとエルサレムが回復する、繁栄が元通りにされる、復興される約束が語られています。その復興が、終わりの日に現される神のみ国、永遠の都と重ねられて語られていると言われます。
では、このヨエル書三章を少し最初の部分から見ていきたいと思います。
ヨエル書の三章一節から二節、

『見よ。わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。』

このように、主による敵に対する裁きが最初に書かれていくわけです。その文脈の中で続いて、ヨエル書三章の九節から十一節の言葉があるわけです。

『諸国の民の間で、こう叫べ。聖戦をふれよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。』

これは主自身が敵に対して語っている言葉であります。リビングバイブルで読むとわかりやすいので読んでみます。三章九節〜十一節(リビングバイブル)、

『このことを、できるだけ遠くまで告げ知らせよ。 戦いの準備をせよ。 精兵を集め、全軍を召集せよ。鋤を溶かして剣に打ち変え、鎌を打ち直して槍にせよ。 弱い者を強くせよ。諸国民よ。束になってかかって来い。』

こんな意味のある言葉です。敵に対する裁き、諸国民に対して、主ご自身が命令している言葉であります。

「聖戦をふれよ。」という言葉は、「戦いの準備をしろ」という意味があります。直訳すると「戦いを聖別せよ」という意味です。
当時、戦いをする時に、パレスチナの人たちはそれぞれの神々に祈って戦っていたわけですけども、まさにこの「戦いを聖別せよ」というのは、主ご自身と敵である悪魔悪霊に対する、主の戦い、宗教戦争、主ご自身の戦いそのものであるということを強く意味する言葉でもあるということを受け取れるかと思います。

そしてその中で弱い者もすべて、全軍を集めて来い!と敵に言うのです。そして「鋤を溶かして剣に、かまを槍に打ち直して立ち向かってみよ。」と、そんな挑戦的な主の言葉が敵にかけられているのです。
この鋤を剣、かまを槍にというキーワードに注目したいと思います。終わりの日にイエスさまが帰られて、神の国、神の平和が完全に訪れる時の様子が、イザヤ書二章四節とミカ書四章三節には次のように書かれています。

『主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』

『主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』

剣を鋤に変える、槍をかまに変える。そしてもう戦いのことを習わない。終わりの日に対して、主の平和を象徴するために、剣を鋤に、槍を鎌にという言葉を使って表現しています。しかし、このヨエル書では逆なのです。鋤を剣、かまを槍。激しい激しい戦いというものを表しているような言葉として捉えることができるかと思います。

そして十一節にはすごい言葉があります。リビングバイブルでは、

『諸国民よ。束になってかかって来い。』

神さまご自身が敵に対してこのような宣戦布告のような、挑戦的な言葉を語っておられるわけです。ある意味、本当に主を恐れるような思いになりました。
しかし同時に、主ご自身が私たちの味方となって、敵に対して裁きを与え、勝利を与えてくださる。敵に対して、「束になってかかってこい!私が裁く!私が勝利を与えるんだ!」というように語っておられるというのは、本当に大きな励ましの言葉であると覚えさせられました。
昨年、私の心の中にこのみことばがずっと巡っていたのは、私自身弱い者でで、様々なことに対して恐れおののいてしまうような者であり、そのような弱い者に対して、神さまご自身が「私が戦うから。私が敵に対してこのような力強い言葉を発している。だから勇気を持って私のために戦ってくれないか。」そのような励ましの言葉であったのだと確信しています。
神さまは私たちの味方です。天地万物を造られた、命を与える方、いやし主、救い主、本当に素晴らしいお方である神さまご自身が、私たちの味方です。そしてその主が勝利を約束しておられるということを覚えていきたいと思います。私たちの最強の味方です。父なる神さまです。

皆さんにとって、いろいろなヒーロー像があるかもしれないですが、これは子どもたちにサービス画像ということで、お年寄りの方も懐かしい映像もあるかもしれませんけが、皆さんにとってヒーローというのは、どんな方でしょうか。
 月光仮面、鉄腕アトム、ウルトラマン、仮面ライダー、アンパンマン。世代によって思い出のヒーローがいると思いますけども、「これらのヒーローが味方だったら心強いなぁ」なんて思いますよね。しかし、このようなヒーローとは比べものにならないほどの、素晴らしい主が私たちの味方であって、「わたしが戦うよ!」と語っておられます。そのことを今朝、皆さんとともに覚えていきたいと思います。

そして主の敵に対する言葉が語られる中で、続いてヨエル書三章十一節で、ヨエルは何と言っているかと言うと、

『‐‐主よ。あなたの勇士たちを下してください‐‐』

リビングバイブルでは、

『神様、今こそ、神様の勇士たちを遣わしてください。』

ヨエルはこのように叫び求めています。主の刈り入れの熟すこの年、私たちはさらに勇気をもって、大胆に主の勇士として、主のみ前に出て行く。主の軍隊としてこの教会に集っていく。私自身がそのように覚えさせられております。

そしてその裁きというのはどこで行われるかと言うと、ヨシャパテの谷という所で行われるということです。敵の軍隊と神の軍隊との戦いが、ヨシャパテの谷という所で行われるわけですが、この「ヨシャパテ」というのは、「主は裁かれる」という意味があります。
この「ヨシャパテ」という言葉を聞いて思い出す箇所が、第二歴代誌のヨシャパテ王様の話であります。
このヨシャパテ王様のことについても、みことばを神さまから与えられておりますので、皆様とともに分かち合っていきたいと思います。
第二歴代誌二十章では、アモン人、モアブ人のおびただしい大軍が南ユダに攻め寄せてきました。その事によって、ヨシャパテ王、またユダの民は非常な恐れを抱きました。自分の力ではどうすることもできない状況に陥りました。そんな中でヨシャパテ王は何をしたかというと、第二歴代誌二十章三節、

『ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。』

この断食をするというのは、どのような意味があるかと言うと、主へのまったき献身です。主にすべてをおささげしたということです。
この年、様々な戦いがありますが、私たち自身をもう一度主におささげする、献身をするようにと、神さまが求めておられるように感じます。

そして第二歴代誌二十章四節、

『ユダの人々は集まって来て、主の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、主を求めた。』

十三節、

『ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。』

このおびただしい大軍に対して、ユダの民は恐れて、断食をして、主に身をささげて、そして主の前に出て行ったわけです。それも幼子から子どもたちから、すべての町々からすべての人々が主の前に出て行ったわけです。
私たち、この年、幼子から、子どもたちから、青年から、壮年から、お年寄りまで、すべての世代が主のみ前に出て行くように!と、主ご自身が求めておられるように感じます。それもすべてをささげて出て行く。全き献身というものを求めておられることを覚えさせられます。イエスさまについて行くということは、大きなチャレンジがあると思います。私たち自身が大切にするものが多くあると思いますが、今一度、私たちは全き献身、すべての物を投げ捨てて、主に私たち自身をささげて欲しい!そのように神さまは願っておられるのではないということを、昨年から覚えさせられています。

マタイの福音書四十九節から二十節で、イエスさまがペテロとアンデレを弟子とする時に、このように語っています。

『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。』

という言葉があります。ペテロとアンデレは漁師でしたので、網は魚を取るための彼らの糧ですよね。生きていくためにどうしても必要なものであったはずですけれども、「わたしがあなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエスさまの言葉が語られた時に、イエスさまについて行くために、彼らは網をすぐに投げ捨てて、そしてイエスさまに従ったということを見ることができます。
本当にすべてを彼らは差し出した。本当に彼らが大切にしているものさえも、自らの命を支えてくれていると思っているものさえも彼らは捨て置いて、イエスさまに従ったのです。イエスさまに従うことを選んだということです。その行動は、とても真似できるようなことではないと私自身思うのですが、しかしイエスさまについて行くということは、本当にそのような姿勢が大切であるということを教えられ、私自身もそのような者になりたいと願わされ、教えられておりますので、今日は皆さんとともに、このチャレンジも受け取っていきたいと思っております。