愛され、愛する

2022年7月24(日)新城教会牧師 四元雅也

Ⅰヨハネの手紙4:19
『私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。こうして恵みの中で、今日も礼拝を守ることができることを感謝します。
夏休みに入りました。暑い日が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。最近コロナの感染が拡大していて、医療の関係の方々には大変な思いをされている、まさに試練の時となっているわけですが、皆でお祈りをしていきたいと思います。
でも、こうなることは分かっていたことで、先月からは海外からの旅行者を受け入れるようにもなっていますし、行動規制は取り去られて、普通に社会活動が行われている中にありますので、想定されていたことです。
教会では、いつもコロナの問題についてお祈りされて、状況に応じた対応が今日まで取られてきています。
一方社会の中では、二年前にとられていた対応が今も継続されていて、そしてそのために、ある意味「過度」な対応が取られ続けており、現状、そのことが一番の問題点ではないかと思うわけです。
最近メディアでも、感染者の全数把握が本当に必要かどうか、また感染症としての分類レベルを下げるべき時が来ているのではないかなど、コロナに対する対応の是非が問われております。昨日は、濃厚接触者の待機日数が最短三日に短縮されました。それでも未だ様々なしがらみの中、社会にいろんな影響が及んでいます。私たちは、この時に関係各所が適正な判断をして、この問題が一番いい形で乗り越えられていくことができるように、続けてお祈りしていきたいと思います。

ウクライナとロシアの問題では、昨日、世界中で懸念されている穀物問題に対して、国連やトルコが仲介に入り、海輸のための回廊が設けられることとなり、穀物危機から世界を守ろうという動きになっています。そのように神さまが導いてくださることを感謝しつつ、続けてお祈りができたらいいなと思います。

さて、私事で恐縮なのですが、今日はこの後、私の娘の愛恵と、浅井裕登兄弟の婚約式があります。
二ヶ月ほど前には、息子の聖徒が鈴木雅恵姉妹と婚約することができて、皆さんにお祝いしていただいたところであります。そんなわけで、今年は我が家のことで皆さんの前で露出が多くなって、特に、これから結婚式のことでも色々と皆さんにお世話になることとなりますので、少し申し訳ない気持ちもあるわけです。その分、家族として教会に一生懸命仕えて、皆さんに恩返しができればと思っているところです。
今日はそんなわけで、浅井君のご両親と二人の妹さんが礼拝に参加してくださっています。さらに、愛恵の子どもの時からの友人が何人かお祝いに礼拝に駆けつけてくださっています。この後、皆さん、ぜひ歓迎していただけますと感謝です。
そしてなぜか、聖徒の時にもそうだったのですが、今回も同様に、婚約式と私の礼拝メッセージ当番が重なっています。これまた恐縮というか、ダブル緊張というか、「イエスさま、どうしてでしょうか。」という気持ちがありますが、これも感謝かなと思っております。

そんなことで、話のついでと言っては何ですけど、丁度良い機会ですので、少しだけ、愛恵と裕登君のことについて暴露したいと思います。皆さんも興味あるのではないかなと思いますので。
二人は一昨年知り合って、お付き合いが始まったわけです。愛恵は、そのことをすぐに私たち夫婦に知らせてくれました。親としては何かと心配でしたけど、神さまが守ってくださるよう心からお祈りをしていました。その時、まだ裕登君はクリスチャンではありませんでした。数ヶ月後、初めて彼に会ったのですが、その時に私はこういう話をしました。「裕登君、ご存知のように、愛恵は生まれた時からクリスチャンです。愛恵という人間についてあなたがよく知るために、イエス・キリストという方について知ることが必要です。だからもしあなたが愛恵とお付き合いしたければ、これから礼拝に来てください。この先のことは、まだわからないですけど、もし結婚に導かれるとしたら、愛恵と同じ価値観、同じ信仰を持つことはとても重要です。だから、もし裕登君がイエスさまを信じることができたら、結婚を許してあげます。」と、彼に言いました。今思うと、我ながら随分と高飛車な要求をしたものだなぁと思います。
それで彼はどうしたかというと、もう気持ちが冷めて、「お付き合いは辞めます」とは言わなかったわけです。彼は私が言ったことを真面目に受け止めてくれました。教会から彼の住んでいる場所は車で2時間くらいかかるのですが、それから彼は努めて礼拝に来てくれるようになりました。もちろん愛恵も、裕登君がイエスさまと繋がるように祈り、努力しました。もちろん教会の皆さんにも二人を祈り支えていただいて、また良くしていただきました。さらにありがたいことに、浅井家のご家族の皆さんにご理解をいただけたこともあって、裕登君は今年三月二十七日にバプテスマを受けることができて、今日という日が実現したわけです。本当にこれも愛の力だと思います。いや、違いますね。すべてイエスさまの恵みです。本当に愛恵という名前のように「愛と恵み」です。主に賛美をおささげし、栄光をお返ししたいと思います。また裕登君にも心から感謝しております。主のみ名があがめられますように、この証しをさせていただきます。

それでは、メッセージの本題に入っていきたいと思います。今日のメッセージタイトルは、先ほど紹介されましたように、「愛され、愛する」と、なんともこの後行われる婚約式にふさわしいタイトルとなってしまったのですが、特に二人を意識したわけではなく、結果的にそういうタイトルになってしまったのです。もう一度、先ほど読んでいただきましたみことばをお読みします。第一ヨハネの手紙四章十九節、

『私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。』

キリスト教の神さまは愛の神さまだと一般的に言われます。聖書の書き始め、創世紀の一章を開くと、神さまが世界を造られて、その中で初めの人間アダムとエバが神さまによって造られたことが書かれています。創世記一章二十七節、二十八節を読みますと、こう書いてあります。

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」』

神さまの創造のみわざの最後に人が造られ、その時、神さまは人に対して「生めよ。増えよ。」と、祝福のことばをかけられたのです。さらに、続けて二章を読んでいくと、神さまのご自身のみ手によって、アダムとエバの結婚式が行われたことも書かれています。二章二十四節、

『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。』

神さまにあってアダムとエバは結び合わされ、神さまの司式のもとで結婚し、二人は両親の元を離れて新しいひとりの人となる、このことはとても深い真理を含んでいると思います。「生めよ。増えよ。」ということば、神さまの元でひとつになった家族を神さまご自身が祝福されている。ここに聖書は家庭に対して神さまが特別な祝福を与えておられることを見ることができます。

時代は下って新約聖書の時代になると、世に来られた神のみ子イエスさまも、この真理を心得ておられたことがわかります。マタイの福音書十九章三節〜六節、

『パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」』

ここではイエスさまが、先ほどお読みした創世記二章二十四節を引用されて、離婚は神が結び合わせたものを引き裂く行為だとして禁じられました。
このように、結婚とそこに誕生する新しい家族は、神によって天と地が創造されたのと同様に、神さまの創造物である。だから、人間が自分の都合で勝手に分断するようなことはしてはいけないですよと教えているわけです。

結婚は、私たちが人生を歩んでいくうえで起きる三大行事の一つだということができます。あとの二つは誕生と死です。誕生と死という二つの行事は、誰一人として経験しない人はいないわけですが、結婚については一生独身という人もおられますので、すべての人が経験するわけではありません。
誕生と死は自分の意思では決めることができません。「よし!この世に生まれてやろう!」と自分から生まれることはできないですし、自分で死ぬ時を決める、自分で自分の命を取ることは悪いことです。普通は死期を自分で決めることはできません。
しかし、結婚だけは自分の自由にできると私たちは思いがちですけど、本当は違うということが聖書を読むと知ることができます。
実は「結婚する」ことは、自分たちの意思で勝手に決められると考えてはいけないものなのです。むしろ、私たちクリスチャンは、「私の相手は既に神さまによって定められている。そして自由に選ぶことのできるものではない。」そういうふうに信じて受け止めなければいけないものであります。
もちろん、結婚相手を決めるのは自己責任で、自分が好きで結婚したいと思う人と結婚するわけなのですが、自分が自分の望むように勝手にできると考えたとしたら、これは神さまの前に高ぶった考え方です。私たちは自由に結婚できると考えがちだけど、本当にそうかというとそうではありません。
それは私たちが主イエスさまを個人的な自分の主、神さまと信じてクリスチャンになろうと決意した時と同じです。
ヨハネの福音書十五章十六節にはこう書いてあります。イエスさまが言われたことばです。

『あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。・・・』

皆さんがイエスさまを信じられた時、自分の意思で「よし。イエスさまを私の神さまとして信じよう。」と決断されたと思うのですが、しかし、神さまにあっては「私が選んだから、あなたはわたしの元に来たんですよ。」と仰せられるのです。不思議なことだなぁ、人間の頭ではなかなか理解しがたいことだなと思います。
今は私も神さまが私を選んでくださった!と受け止め、それを理解することができます。一人ひとり、私自身、生きてきたその歩みのなかで、クリスチャンになる前は、自分の力や自分の知恵によって生きていると思っていました。しかし、クリスチャンになってみると、そうではないんだとわかるようになります。
まず、神さまが私に命を与えられました。母から私が生まれて、この地上を歩むことを良しとされました。その時私はまだ神さまのことを知らなかったわけですが、それでも神さまのみ手の中にあって、神さまは私を育んでくださって、鍛えてくださって、成長させてくださいました。
私の両親をはじめ、多くの先輩たちや友達によって色々な助けを受けて、知恵を得て、歩んで来れたことも確かでありますけど、私が十五歳の時にイエスさまを信じてクリスチャンになったわけですが、救われてクリスチャンになって今日まで来られたというのは、自分の力ではないですし、究極的には私たちが生きてきた歩みそのものは、ただ神さまの恵みであって、そういう中で私はこうして教会に導かれて、ありがたいことにクリスチャンになることができたのです。
同様に人が誰かを一生の伴侶として選ぶ場合にも、主によって選ばれ引き合わされたことが、受け取られなければならないことです。神さまが人間を、男か女かにして世にお送りになりました。神さまが人間を結婚するものとしてお造りになったのです。もちろん、独身のまま一生を過ごしてはいけないということではないので心配しないでいただきたいと思いますけど、このことは何を意味しているのかというと、結婚というものについては神が定められ、私たち人間はそれをいい加減に考えてはならないということだと思います。
結婚をいい加減に考えるとはどういうことかというと、この世の中によく見られることです。好きなもの同士がすぐに同棲をし始めたりとか、結婚の前であろうがお構いなしに性生活を始めたりする。婚前性交とか、婚外性交とか、聖書は私たちが、そういう“ルーズな結婚観”を持ってはならないと教えているのです。結婚とは、神さまの前での約束です。結婚は神によって定められた男女ふたりが一体となること。三人や四人ではなく、神の前に二人が一体となる、それを神の前で誓約するのが結婚であります。生涯を共にしていこうという意思の表明に他ならないわけであります。
また、そのように神さまの前で約束しさえすれば、それで完成して、自動的に一体となれるのかというと決してそうではありません。私たちはそのように神さまに約束をしたら生涯一体であり続けようと努力することが、神さまからの使命として求められていることであります。
結婚式をあげて家庭ができたら完成で後はどうでもいいよ、後はいいかげんでも一体として生きていける、ということではないことは、先に結婚しておられる皆さんが家庭生活の中で体験しておられることだと思います。結婚した者たちが家庭において、一生をかけて追い求めていくのが一体として愛の関係を保ち続けることであるわけです。
そのことがパウロの手紙の中で、キリストと教会の関係性と関連付けて語られています。エペソ人への手紙五章二十二節・二十三節、二十五節、