〜この地に植えられ70年〜
未来のために、天に宝を蓄えよう!

その経験以来、彼は真剣に主に献げるようになりました。その強烈な体験から、彼は天に宝を積むことを真剣に実行するようになりました。それで甲子園ミッションや、東京ミッションの為にも、多く献げて下さったのです。リバイバルミッションの恩人の一人です。

現実の問題として、地上の富も必要ですが、天国に財を蓄えることを常に意識しないといけないのです。

 

二人の主人に同時に仕えることはできないのです。神の聖なる奴隷として生きるのか、それともマモンという、経済神の奴隷となるのか、この二者択一は私たちが考える以上に、大きな選択だと思われます。なぜなら、マモンは神に対抗しうる存在だからです(もちろん、そこには人間の富に対する弱さが強く関わっているのですが)。マモンは、最も強い悪霊でもあるのです。

「いや〜、私はマモンの奴隷なんかにはなっていないよ!」と、誰でも言うのですが、この世のシステムは、自然にマモンの奴隷となるようなシステムです。ゆえに、知らないうちに「俺はマモンの奴隷なんかじゃない!」と言っていても、奴隷になっていることが多いのです。なぜなら、この世の経済システム自体が、マモンを主人とする設定がなされているからです。

 

以前、NHKスペシャルで、「人はなぜ金の奴隷となるのか」という特集をやっていました。前にも紹介したのですが、一般の経済学者の意見ですが、するどい指摘がなされていました。

 例えば、三百万円を資金として車を買うとします。その場合、三百万円は車を買うための「手段」に過ぎません。金はあくまで、いつまでたっても、目的を達成する為の手段に過ぎないのです。しかし人が金の奴隷となる瞬間とは、「手段と目的が入れ替わる時」だと言うのです。

 「手段と目的が入れ替わる」とは、何でしょうか?その最たるものが仕事です。仕事を何のためにされていますか?もしも、給料(金)を得る手段として仕事があるのなら、金を得るのが目的となり、手段と目的が入れ替わるのです。

 日々の仕事の中で、常に、「神の栄光のために、私は仕事をしている!」という意識を持たなければいけません。様々な職業に就いておられますけれど、それは決して金を得るための手段ではないのです。神が私を任命し、この仕事に就かせて下さった!と宣言して下さい。仕事を通して得られた金を遣わして、神の国の拡大に用いるんだ!と宣言して下さい。その決意が、私たちを富(マモン)の奴隷から守ります。それは神の支配に生きるために、たいへん重要です。

チェコの経済学者が「金が道具ではなく目的になってしまうんだ」と語っていましたが、金はあくまでも道具であり、手段です。それを見失うと、いつのまにか貯め込むことが喜びとなってしまいます。貯め込むことが喜びになっていたら、すでに富の奴隷です。

その番組は、「人は貯蓄によって金の奴隷となる」と結論づけていました。日本は特に、戦後のGHQの政策によって、「貯金」が奨励されました。アメリカは日本国民から集めた金を国際社会に投資して、戦後、莫大な利益を得ていたのです。

私の子どもの頃、学校では「子ども貯金」がありました。修学旅行のためとか言って、毎月、貯金をさせられました。当時、私の家は貧乏で、子ども貯金日が一番嫌な日でした。みんな百円ぐらい持ってきていたのに、私の母は私に十円しかくれませんでした。子ども貯金に十円とは、当時としてもたいへん恥ずかしかったです。

でも今考えたら、十円で良かったと思います。知らないうちに金の奴隷とするシステムがあり、特に、日本はその力が強いからです。

去年から、日本でもやっと「金を遣わす」投資について勉強するようになりました。日本人は貯金が善で、投資は危ない「悪」と考えています。しかしそこには、大きな策略があるのです。

 

『だれも二人の主人に仕えることはできません。』・・・クリスチャンは、神に仕え、同時に、「富を支配」しなければいけないのです。富に支配されるのではなく、富を支配するとき、結果として、天に宝を積むことができます。

 

では天に宝を積む方法とは何でしょうか。金の奴隷から解放され、天国銀行に送金する秘訣は何でしょうか。

マラキ書三章八節〜十節をご存知でしょうか。

 

『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』

 

マラキ書は旧約聖書ですから、時々、「十分の一献金は旧約聖書の教えだから、それを強調するのは問題です」と話す牧師もいますが、これは決して旧約聖書だけの教えではありません。

 

“十一献金は旧約聖書の律法の教えであって新約聖書の教えではない、と言われることがある。しかし、主イエスは、マタイ二十三章二十三節、ルカ十一章四十二節で十分の一に言及しており、これが旧新約聖書を一貫した教えであることは明らかである。

むしろ新約聖書は十分の一どころか、「十分の十」の献身を迫っている。”

 

と解説されていました。十分の一献金は、旧約聖書から新約聖書を貫く、神が教える、富の奴隷ではなく神の支配に生きる秘訣です。試しに、収入の十分の一を神に献げてみてください!という勧めです。

 

十分の一を献げていますか?百円から十円を献げるのは楽です。千円のうち百円を献げるのも楽です。一万円で千円を献げるのは、ちょっとテンションがあります。では、一千万円の収入で百万円、献げられるかというと、なかなか難しいですね。

クリスチャンホームにおいて、小さい頃からしっかりと十分の一について教えておく必要があると思います。私はそのことを教えてもらって、自然に十分の一を献げることが出来て感謝しています。

新約聖書では、あなたの体を、聖い生きた供え物として献げなさい、全身全霊を献げなさいと勧めています。旧約聖書は十分の一だけれど、新約聖書では十分の十だというのです。

人生のすべてを主に献げる精神で生きることが大切です。それは、祝福の約束を伴っているのです。

 

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』

 

神さまをためしてもいいと言うのです。それは十分の一を献げることによって、ためしてみてくださいと言うのです。そうしたら神が生きていることがはっきり分かり、天国銀行に宝を積むことになるのです。素晴らしいじゃないですか。「献金」をネガティブに捉えないでください。

 

ある教会のホームページを見たら、こんなふうに書いてありました。

 

“給料全体の十分の一か。手取りの十分の一か。それを「十一献金」にして、他の「集会献金」「特別献金」はさらに加えて献金するのか。それとも、十分の一を各献金に分散するのか。妻のみがクリスチャンの時、何の十分の一にするのか。さらに細かくなると、教会に行く交通費は、必要経費として献金から差し引いてもよいのか。”

 

なんか確定申告みたいですね。ちょっと混乱しますね。皆さんはどう考えますか。しかし新約聖書では、

 

『一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。』(コリント人への手紙第二 九章七節)

 

心で決めたとおりにしたら良いのです。いやいやではなく、喜んで献げられる額を決めたら良いのです。

いつも話すのですが、一万円献金する際、一万円札をまじまじと見て、「諭吉さん、短いお付き合いでしたね。また帰ってきてくださいね!」と言って献金するのと、「諭吉を主の為に遣わす!」という意識で献金するのでは、全然違うでしょう。「諭吉よ、神の国を広げるために行け!」と富を奴隷として、遣わさなければいけないですね。

それはただ教会が支えられるとかの問題ではなくて、神の栄光の為、天に宝を積む行為です。やがてその結果を、私たちは見ることになるのです。あぁ、よかった!と、「あの時のメッセージで、十分の一献金を実行するようになった。本当に、私の永遠が変わっていた!天国銀行って本当にあった!」と気づく日が来ると信じます。

私たちは日々、準備しながら過ごしています。最も準備しなければならないのは、老後の資金も必要ですが、永遠への準備です。信弘先生の先日のメッセージで「老後は二千万円ぐらい必要だ」と語っていましたけれど、他の見方もあるようですが、最も関心を持たなければいけないのは老後の、「その後」です。永遠の世界を考えなければいけないのです。

 

ある人が、こんな証しをホームページに載せていました。

 

「十分の一献金」の祝福!

・献げる「喜び」が予想以上に大きかった!

・思いもよらない満足を得た!

・神の愛がどんなに深いものかわかった!

・なぜもっと早く実行しなかったのかと悔いた!

 

献げることに躊躇しないでいただきたいです。これは自分自身のためであり、天の銀行に貯蓄することです。

十分の一献金を実行したら、神さまの愛がどんなに深いのか分かった!って本当かな?と思うかもしれませんが、試してみて下さい。神さまが私たちに祝福を与えてくださるはずです。

 

新城教会の七十年の歴史の中で、初期はたいへん貧しかったけれど、一生懸命献げて下さった聖徒の方々に、私は、心からの感謝をしています。その犠牲によって、今の会堂が建っていることを忘れてはいけません。

これからどれだけこの世が続くのか分かりませんけれど、神の宮のために献げることをも躊躇してはいけないのです。これは自分自身の祝福のためでもあります。神さまはちゃんと覚えていてくださいます。それは天に宝を積むことになり、永遠の国に入った時に結果を見ることでしょう。

現在社会は物価高で、経済的に大変ですから、心配は尽きません。しかしイエスさまはこう言われます。

 

『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。』(マタイの福音書六章二十六節)

 

マタイの同じ六章の中『天に宝を積みなさい。』という、流れの中で結論として、天に宝を積んだら、あなたを支えます!と約束してくださっています。

 

 今日は午後から雁峰山に行って、祈りがあります。行ける方は是非行ってください。楽器も持ち上げて賛美します。ここに行きますと様々な種類の鳥たちがさえずっています。また動物たちも多くいます。彼らは明日のことを心配していないみたいです。なぜならば神さまが彼らを養っているからです。人間よりも野にいる鳥とか動物のほうが、信仰があるのかもしれません。彼らは毎日悩まずに生きているように見えます。

空の鳥を見ながら、私たちはその鳥よりも優れたものだから、必ず、主は私たちを祝福してくださる、支えてくださると、信仰を持とうではありませんか。

 

続いてマタイの福音書六章三十三〜三十四節、

 

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。』

 

これは有名な言葉です。神の国に宝を積むことを第一にしなさい!、このことが実行できるならば、神の国と神の義の中に生き、明日の為の心配は無用なのです。