廃墟を建て直すために

廃墟を建て直すために、これも先程お読みした五十八章六節と七節ですが、五十八章の一節から最初にお読みした所には、「あなたは断食と言いながら、わたしのみ心を祈っていないではないか。」そのようなことが語られていました。「自分の好むことをし、自分の願っている祈りをしているだけではないか。」これが一から五節の所で語られていました。
そして六節に、「わたしの好む断食はこれではないか。」と、「わたしがあなたに祈ってほしい祈りはこれではないか。」と、そのように語っています。
この廃墟を目の前にして、あなたに祈ってほしい祈りがある。その祈りはまず前半は、

『悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。』

とあります。廃墟を建て直すために、まず私たちがすべきこと、それは霊的な破れを祈りによって対応していくということです。私たちの目の前の大きな破れや、大きな廃墟を見て、「私たちはできない。」そう思ってしまうかもしれません。でもその時に、「私たちにできなくても神さま、あなたにはおできになります。」と、信仰を持って祈っていくこと。神さまを見て、とりなして祈っていくこと。悪の絆を解き、くびきを解き、虐げられた者たちを自由にしてください!そしてくびきを砕いてください!そのように私たちはまず祈っていくことが必要だと書かれています。

そしてみことばの後半ですが、

『飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。』

祈りと同時に、具体的な必要、社会の破れに対して、私たちが一歩、手を差し伸べていく。できることをしていくこと。これが「わたしの好む断食だ」と神さまは言ってくださっています。祈ること、そして具体的に手を差し伸べていくこと、これが私たちに求められていることではないでしょうか。

『そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。』

私たちが自分の計画、自分の思いを祈っている時は、こうなりません。でも神さまの好まれる祈り、断食をしていく時に、そのとき、暁のように主の光がさしいで、私たちの傷はすみやかにいやされるとあります。そしてそのとき、私たちが呼ぶと、主が答えてくださる。「わたしはここにいるよ」と祈りに答えてくださる。これが私たちの希望です。
詩篇一二七篇には、『主が家を建てるのでなければ建てる者の働きは虚しい。主が街を守るのでなければ守る者の見張りは虚しい。』と書かれています。その通りです。
私たちがいくら努力しても、知恵を使っても、主が家を建てるのでなければ虚しい働きになる。主が廃墟を建て直すのでなければ、主が動かれるのでなければ、私たちの働きは虚しい。でも主が願われる方法に立って、主の声を聞いて、私たちがそれをとりなし祈り、そして実行していく時に、その働きは虚しくない働きになる。これが私たちの希望です。

今度は少し違う所、ゼカリヤ書から一箇所開きました。ゼカリヤ、先ほどのイザヤ書はバビロン捕囚の百年ほど前に、バビロンによってエルサレムが崩壊して、その後の廃棄を建て直すことを預言したところです。そして、ここでは、実際にバビロン捕囚が起こって、七十年の捕囚が終わって、エルサレムに戻ってくる第一帰還組の中にいた預言者・ゼカリヤに主が語られたことばです。

『エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったか。』(ゼカリヤ7:7)

神さまはゼカリヤに、エルサレムやその周りの町々に人が住み平和であった。つまり「バビロン捕囚のずっと前から、先の預言者たちを通して告げたことは、今わたしが告げることと全く一緒じゃないか」と言ってくださっています。「バビロン捕囚のずっと前から、バビロン捕囚の間も、そしてバビロン捕囚が終わったこのゼカリヤの時代も、同じことを、わたしは言っていますよ。」

『万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。』(9-10)

先ほどイザヤ書にも、『飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、あなたの肉親の世話をすることではないか。わたしの願いはそうではないか。』と、神さまはイザヤに語られて、今度ゼカリヤには、『やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。』同じことを言われるわけです。
私たちはこの主の願いが変わらないことを、そして今の二十一世紀の日本にも同じ思いを持っておられることを受け取っていきたいと思います。

やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい人たちが、今の社会で虐げられていないでしょうか。神さまはあわれみ深い方なので、怒るのに遅い方なので、今そのような事についても、この世に対し忍耐して待ってくださっているのではないかと思います。
でも私自身、この点に関して「急がなきゃいけない」という思いに強く迫られています。神さまが憐れんでくださっている間に、待ってくださっている間に、語っておられることを聞いて、私たちクリスチャンが立って前に進んでいくべきではないか。その事を強い迫りとして受け取っています。
今の時代で言えば、独居の高齢者の方々、擁護が必要な子どもたち、在留異国人、セーフティネットから外れる人たち、このような人たちに対して、教会はどうしていますか。そのような人たちを見て、教会、神の民は、廃墟を建て直す、そのような一歩を踏み出していますかと、神さまから迫られている、そうではないかと思うのです。
このような働きは今、社会で非常に大きな問題になっています。国に「何とかしてください」と言っても、国だって予算が限られていますから難しい。人手だって限られていますから、とても手が回らない。では誰か自分で頑張ってと言っても、自分ではどうしようもない。その中で共助、コミュニティが、そのような人たちを支える。教会がアガペの愛を持っている、そしてその愛を現すことのできる教会に、今大きなチャレンジもあり、そして可能性もあると私は思います。教会こそが、そのような社会の破れ口に立って、廃棄を建て直すことのできる使命が、神さまから与えられているからです。

『馬の門から上のほうは、祭司たちがそれぞれ、自分の家に面する所を修理した。そのあとに、イメルの子ツァドクが、自分の家に面する所を修理した。』(ネヘミヤ3:28-29)

とあります。この時代、エルサレムの城壁は全部崩れていました。それを建て直せと言ったって、「もう無理です。あんまり大きすぎて、私たちの手には負えません。」と民が言った時に、神さまが与えてくださった知恵は、「自分の家に面している所を修理しなさい。私たちが置かれている所を建て直しなさい。」これが私たちに語られていることです。
エルサレムの城壁の再建の様子。これは今の私たちの日本の教会が、日本の社会を再建していく時と同じビジョンです。同じビジョンを持って、それぞれの地域教会が連携をしていって、それぞれの持ち場で、置かれた所で、城壁を建て直していくこと。「この教会はここ。隣の教会はここ。」そうして教会が同じビジョンを持って城壁を建て直し、破れを繕っていく時に、それが繋がっていって、町全体、国全体の破れを繕っていくことができるのではないでしょうか。
そのために教会が拠点となって、教育や福祉の分野で草の根の働き、自分の家の前でいいのです。自分が置かれた所で、主から与えられたビジョンにチャレンジしていく、取り組んでいく。そしてそれを応援していく必要があるのではないか。そのように私は思わされています。
そのためには、教会を拠点として、この草の根の働きを連携していく、情報を共有していく。例えば子ども食堂をやりたいという教会が、みんな一から子ども食堂のノウハウを調べる必要はないですよね。どこかがやってうまくいったら、それを隣の教会に伝えたら、他の教会はもっと早く働きに進めるじゃないですか。私たちが持っているノウハウを惜しみなく、横でつながっていけば、「私こういう働きがしたいです!私こういうことをしたいです!」そういうことを思った日本中の教会が横に連なって、「私の町でもこの働きをします!私の置かれた町で主の働きを、破れ口に立ちます!」そのようなことが繋がっていくことが、教会が地域で貢献して、そして日本の社会、今の二十一世紀の私たちのこの国を回復していく、破れ口を塞いでいく、そのような働きになっていくと思います。

「畑に隠された宝」という言葉があります。先ほど望先生の家に少しお邪魔しておしゃべりした時に、望先生からもこのみことばを祈られてドキッとしたのですが、『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。』とあります。
そして『人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』(マタイ13:44)とあります。

この「畑」とは、教会のことだと私は理解します。また一人ひとりのクリスチャンの事だと私は理解しています。私たちの教会には、私たちの一人ひとりの家には、この宝が隠された宝として置かれている。私たちの人生でイエスさまと一緒に歩んだ一つ一つの経験が宝となって、そこに植わっているわけです。
私も知らないうちにたくさんの宝をいただいたと感謝しています。外交官として歩んだ人生は、辞めたら関係ないと私は思っていました。二度とそんな話をすることはないだろうと思っていました。けれども、今こんな事になってしまって、神さまがその時与えられた経験が生かされるんだということを、今初めて知りました。
神さまは私たちと共に歩む人生の中で、たくさんの宝を埋めてくださっています。私たちに与えてくださっている。それは、アガペの愛が土台になった宝です。でも、その宝が隠されたままだったらどうですか。ただの畑です。その宝を発揮しなければ、何の役にも立たないわけです。隠されたまま、そのまま終わってしまったら、もったいないじゃないですか。それが開かれて、周りの方々、地域の方々に流れていったら、きっと多くの方々が喜んでくださる。「私もこういうものが、イエスさまの愛が欲しかったんです。私はこれが必要だったんです。」そのようなことを知っていただくことが、できるのではないでしょうか。
私たちはこの宝を隠されたままにしないで、明らかにしていく、人生で得た宝を発揮していく決心をしていきたいと思います。アガペの愛を実践すること、これは勇気がいることかもしれません。一歩踏み出すことは確かに抵抗があるかもしれません。でも、教会として、また一人ひとりクリスチャンとして、そのようなことを互いに応援しながら、励ましながら、一歩小さな働きを踏み出していくことができればと思います。

私自身、今回参議院全国比例区支部長として活動することになった大きな願いというのは、教会を応援したい、クリスチャンを応援したい。自分の目の前の破れ口を回復しようとする、そのような教会に、ノウハウや様々な支援をしていきたい、そのようなことをする議員がいてもいいのではないか。それが今回の決心の大きな理由です。
私も自分の教会で、アガペの愛を実践して教育や福祉をしてきました。本当は子ども達に、ご年配の人に、障害のある人たちに、どんどん時間を使いたいのです。交わりたい、この人たちと関わりたい。
私の振り返った人生、半分以上は行政との戦いでした。たくさんの労力を、時間を、地域の理解を得るために使わざるを得なかった。非常に残念と言うか、私は教育がしたい、福祉がしたいのに、これは何なんですか、と思うような経験をたくさんしました。
社会福祉法人を二〇一〇年に建て上げることができました。本当に主の恵みです。でも二〇〇九年に申請を兵庫県庁に出して、全部整っていたはずなのに一年間塩漬けになってしまいました。全く動きませんでした。
その時、当時国会議員だった土井隆一先生が繋がってくださって、電話をかけることができました。土井先生から聞かれました。「あなたは何をしたいんですか?」私は「教会を拠点としてキリストの愛を持って地域に福祉の働きをしたいんです。」と、そのようにお答えしました。先生は言われました。「教会の働きだね。分かった。」と言って、ガチャンと切られました。どうなるのかなと思ったら、すぐに兵庫県庁に電話してくださって、一年間塩漬けだったのが一ヶ月で取れてしまいました。びっくりしました。情けなかったです。私たちの福祉の働きのこと、全然見てなかったのかなぁと思いました。
でも、同時に感動しました。あの時、土井先生が「教会の働きだったら応援する」と、見ず知らずの単立の教会の、牧師の話を真剣に受け取ってくださって、み国の拡大のためだったら何でもする、そのような姿を示してくださった。このことに感動して、私もそのようなことをいつかしたい、そのような思いを持たせていただきました。
この社会はアガペの愛を受けることに慣れていません。だからアガペの愛を流そうとしたら、「なんか裏があるんじゃないですか?」と、怪しまれてしまうぐらいです。ここの教会は違うかもしれませんが、私たちの教会はそうでした。でも、そのアガペの愛をひとたび流して、それが伝わっていけば、こんな素晴らしいものはない、こんな素晴らしい愛はないと受け取ってくださるようになります。
私たちはこのような実際的な働きと、そして福音を伝えていく、その二つの働き、福音を見える形で伝えていく、そのような教会でありたいと思っています。