「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」

2021年11月14日(日)新城教会牧師 四元雅也

詩篇103篇1-5節<ダビデによる。>

『わがたましいよ【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やしあなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせあなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。』

ハレルヤ!おはようございます。今、伊藤先生のすばらしい証しを伺うことができて、心から感謝します。また先ほどは中北姉妹の演奏も本当に恵まれて感謝します。確か前回中北姉妹が演奏してくださった時も私がメッセージをさせていただいたなぁと思い出しました。本当に素晴らしい賜物を持った兄妹姉妹がこの教会にいらっしゃることを心から感謝したいと思います。

 

今日は、詩篇一〇三篇一節から五節のみことばから、お話をさせていただきたいと思います。このみことばは、実は昨年末、二〇二〇年十二月三十一日、カウントダウンワーシップの時に、私が二〇二一年のために受け取ったとして皆さんにご紹介させていただいたみことばであります。

 

早いもので、今年も残るところあと二ヶ月足らず、終盤になってきているわけですが、今日に至るまでの日々を思う時に、個人的にも、また教会としてもたくさんの恵みを与えられながら歩んで来ました。その一方で、多くの苦しみ、うめき、大変な出来事の中をも歩んできて、気が付いたら一年の大半が過ぎていた、というところもあるのではないかと思います。

このみことばを通して、私が昨年末にお話ししたメインのテーマは、「感謝」でした。今回、もう一度このみことばを読み返して、皆さんの前で語らせていただくことを主にあって受け取り、改めて思うのは、今年のテーマが私にとって「感謝」だったと思っています。

今日は皆でここからもう一度学んで、ここに書かれています神さまからの祝福を受け取って、恵まれて、そして主に感謝をささげる時となればいいなと願っております。

このみことばをもう一度確認できる事を嬉しく思い、主がこのみことばを与えてくださったのだと信じております。

 

さて、皆さんは、人にお世話になった時、親切にしてもらった時に、感謝の気持ちをきちんと表現できているでしょうか。第一テサロニケ人への手紙の五章十八節には、

 

『すべてのことにおいて感謝しなさい。』

 

と書いてあります。感謝の気持ちを忘れてしまうと、人というのは傲慢になっていってしまうのではないかと思います。「やってくれて当たり前」とか、「恩恵を受けて当たり前」とまではいかないまでも、人の恩を覚えて感謝することができない人は、やはり不幸に向かっていってしまうのではないかと思います。

身近な人や関わりを持った人への感謝の気持ちを忘れないということが、私たちが幸せに人生を歩んでいくには欠かせない要素じゃないかと思います。

 

少し前にインターネットを調べていて、「感謝の気持ちがもたらす良い効果」というのがあって、なるほどなと思ったので、少し紹介したいと思います。

 

感謝の気持ちがもたらす良い効果が五つあります。

一番目、「心と体を元気にする。」これは、感謝の気持ちが病気にかかりにくくするらしいです。

二番、「不安や心配を和らげる。」感謝するとが、気持ちを前向きにさせ、日々を充実させていきます。

三番、「幸せを実感させる。」同じ物事に対しても感謝の気持ちを持つと幸福度の差となって表れます。周りに対して感謝している人というのは、自分が置かれた状況に対し、前向きに捉えることができ、幸せを感じやすいらしいです。一方感謝の気持ちを持てない人は幸せを感じづらいどころか、同じ出来事でも否定的にとらえ、それを周囲のせいにしがちだと言います。それで、都合の悪いことは人のせい、社会のせいというふうに思い込み、だんだんと孤独になっていってしまうわけです。

四番目は、「互いの心をつなげる。」感謝の心があるとお互いに信じ信じられる関係が形成されていきます。

そして最後、五番目、これら一から四番を通して、「物事がうまくいく。」良好な協力関係の中にあって、必要な助言をいただけたり、あらゆることに前向きにモチベーションを持って望んでいくことができ、それが生産性を向上させ、自分が掲げた目標の達成に繋がりやすいそうです。読んでいて「なるほどなぁ」と思わされました。

 

では、こういった感謝の気持ちを保つために、私たちはどうしたらいいのでしょうか。三つあります。まず、「感謝の気持ちを即座に伝えるように心がける」感謝の気持ちを、気付いた時にすぐにはっきりと笑顔で「ありがとう」と言う。それが大事なことです。先延ばしにしていくと、伝える機会を逸してしまうということです。

二番目、「日頃から肯定的に物事を受け取るクセをつける」例え、がっかりするような事柄であっても、それを変換してポジティブに変える癖をつけることです。何でも悪い方向に考えてしまうと、せっかくの人の親切も素直に受け取れなかったり、悪意をもって逆に受け止めてしまったり、そういうことがあるみたいです。

そして三つ目、「形だけでも感謝の言葉を発する。」なかなか気持ちがついていかないような時も私たちの生活の中にはありますよね。「こんなこと感謝できるか!」と思ってしまいがちなことも、少し強引にでもその中から感謝できる事を探して感謝してみることも、時には有益です。

 

話が変わりますけども、新城教会ではコロナの影響で、人が集まると密になるということで、それを避けるために日曜日の礼拝を二部制にして持っておりました。それが一年以上続いていたわけですが、先月の二十四日から以前のように一部の礼拝に戻したわけです。

その日の礼拝は、皆さんの心にも残っておられるのではないかと思うのですが、大変恵まれました。本当にみんなで感謝を主にささげる、そんな時であったと思います。

礼拝の中で、この一年半の間、コロナ問題に対して、いろいろな対処を迫られ、なかなか自分たちの思うような働きができない、伝道もできなかったり、一つに集まるということができなかったりしました。以前は、礼拝の後は昼食の時に、交わりと伝道の時が持たれていましたけれども、できなくなって、インターネット中心の礼拝がしばらく続いてきました。

社会の中でコロナの問題は、今もって引き続き影響をもたらしているわけなのですが、信仰によって勝利を宣言し立ち上がって、一部の礼拝形態にシフトされました。

兄妹姉妹におかれましても、この一年半は我慢を強いられるようなことがたくさんあったのではないかと思いますが、一部礼拝に戻り、今日で四回目の礼拝が持たれています。この間、毎週久しぶりに顔を見ることができた兄弟姉妹が多くあって、本当に嬉しい限りです。再開する喜びを感じる四回の礼拝であったわけですが、一年半の間、兄妹姉妹の信仰の歩みを、それぞれの生活が主の守りの中で歩まれてきたことも覚えつつ、主に栄光をお返しする時をお互いに持つことができました。本当に感慨深い礼拝の時でありました。

 

その中で、順先生が語られたメッセージも本当に感動しました。この二年間、新城教会においては、コロナの問題と同じく、大きな試練として享子先生の膵臓癌との戦いがあったわけですが、十月二十四日の礼拝では、これも未だ戦いの中にありながら、余命三ヶ月と言われていた享子先生が、二年の間、命が守られ、それだけではなくて、日常の生活も送ることができる。そして手術をうけられ主の勝利が現された、そのことが信仰によって証しされていました。

そういう意味で、十月二十四日は大きな記念の礼拝となったわけです。そこでは、黙示録の十二章十節・十一節のみことばが引用されていました。

 

『そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

 

この箇所から、私たちクリスチャンを天の法廷において訴えようとしている存在である悪魔の訴えを取り下げるためにはどうしたらよいのか、ということが語られていました。

第一にそれは「子羊の血」であると。イエスさまの十字架と復活の勝利が大前提としてあって、もう一つは「自分たちの証しの言葉だ」と話されました。神さまが私たちに行ってくださったみわざ、奇跡を、人に証しする時に、告発者が天から落とされるのだと。

順先生はメッセージの中で、「この二年間大変厳しい戦いではあったけれど、ここまで漕ぎつけることができて主をあがめます、まだまだ戦いは続きますけれども、今後もきっと主が更なる奇跡を見せてくださることを信じています」と、会衆の前で証しされました。

また、そこで話されたことに、享子先生の祈りの中で、主が「過去を見たら未来がわかるじゃないか」と語られたと、お話しされました。「この二年間を振り返るならば未来も見えてくる」と、証しされていました。二年間に及ぶ病との闘いの中で、いかに主に頼って、主もまた先生ご家族を導かれてきたかということが証しされていました。順先生のお孫さんの上に主が現れて「ばぁばの病気を治してあげるよ!」とか、「ばぁばに薬をあげたよ!」と、小さな子どもを通して語られて、とても励まされたと、証しを語っておられました。本当に恵まれました。

また先週七日のメッセージの中でも、その続編とも言えるような証しが語られて、本当に恵まれました。

 

私たちが、このようなことを覚えて主に感謝をささげることは、私たちが神さまを礼拝する上で、とても重要な要素だと思います。

 

先々週、開先生が語られたメッセージは、「み座に届く感謝と賛美」というテーマでした。先ほど、第一テサロニケ五章十八節のみことばをお読みしましたが、『すべてのことにおいて感謝しなさい。これが神がキリストイエスにおいて私たちに望んでおられることだ』と書かれています。

感謝の気持ちというのは、私たちクリスチャンにとって、「神さまのおかげで今の私があります!」という信仰の理解と、それを体験しているという事の現れです。それが、私たちが主を礼拝することの動機となっています。

私たちの心にイエスさまが成し遂げてくださった恵みのゆえの感謝が、いつも満ち溢れて、それゆえに、私たちは毎週、神さまの前に来て礼拝をささげているわけです。

 

冒頭にお読みした、詩篇一〇三篇、これはダビデが書いたと言われていますが、二節では、

 

『わがたましいよ【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。』

 

これは言い換えると、「私の存在すべてにおいて主がほめたたえられますように!」とダビデが願っていたことを見ることができます。

 

話は変わりますが、神さまは、私たち一人ひとりが幸いな生活を送るのに必要な一切の良いものを与えてくださる、俗的な言い方ですが、ご利益を与えてくださる神さまであります。でもそれがご利益宗教になってしまってはダメです。神さまからのご利益を受けることが目的となっている人にとっては、例え神さまがご利益を与えられても、それに満足することはできないのではないかと思います。与えられても、「もっと欲しい!もっとくれ!」と、神さまに言い始めてしまうのではないかと思います。

神さまの恵みが私たちの信仰の目的になっているとすれば、まるで神さまが願いを叶えてくれる霊感パワーグッズ、またはドラえもんのような存在になってしまうのではないでしょうか。そうなっていたら、私たちの信仰はダメです。

「主の良くしてくださったことを忘れるな」と書かれていますが、そういう人は心の底から神さまをほめたたえ感謝するという事ができない人間になってしまうと思います。