〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
主の書物を調べて読め「新しい契約」

2022年7月17日(日)新城教会主任牧師 滝元順

イザヤ書34章16節
『主の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。』

エレミヤ書 31章29~31節
『その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。』

ハレルヤ!
先週は参議院選挙がありましたが、金子先生、無事に当選しました。良かったです。牧師として国政に入っていかれますので、ぜひ続けて祈ってください。

また私にとって嬉しいことが先週の日曜日にありました。それは、約三年ぶりに外部での奉仕をさせていただいたからです。コロナの感染拡大と、家内の病気もあって、外部での奉仕は一切できなかったのですが、先週は愛知県の西の端に小牧市がありますが、そこに「クリスチャン・ウェイ」という、大変恵まれた教会があります。そちらからお招きをいただき、礼拝と午後のセミナーで奉仕をさせていただきました。それも私だけでなく、家内も一緒に奉仕をさせていただきました。こんな日が来るなんて、まるで夢のようでした。
その教会にお邪魔する少し前に、不思議な体験がありました。実はこの教会には三年ほど前に一度お邪魔したことがあるのですが、和田先生という、私よりも年上の先生が主任牧師をされていました。しかし昨年、先生は病で亡くなられました。
今年の初め、亡くなったはずの和田先生から私に電話がかかってきたのです。びっくりしました。夢ですけれども。
夢の中で、「なぜ先生から電話がかかってくるの?亡くなられたんじゃないのか?」と思いました。先生と深い付き合いがあったわけではないのですが、そんな夢を見ました。夢の中で私は、電話を取るか取らまいか考えているうちに、目が覚めました。不思議な夢だなぁと思いました。
時々、不思議な夢を見る事があります。思いもよらない夢を見た時には、祈らないといけないと思います。私は「なぜ、こんな夢を見たのでしょうか?」と祈りました。
すると夢を見た翌日だったでしょうか。その先生の息子さんから電話がかかってきました。「七月に奉仕に来てくれますか?」という依頼でした。これは主が「行きなさい。」と言われていると信じてお受けしました。私の家内の癒やしの証しをしてください、ということでした。今回、家内も講壇に立ち、証しさせていただきました。私たちの神さまは生きておられます。感謝します!

今朝も十時から、バイブル・リーディングの時間がありました。一般的に言ったら、新約聖書は二千年前の古文書です。さらに旧約聖書は何千年も前の話です。そんな情報を現代に適応できるのかと思います。しかし聖書は神のことばです。今も主はみことばを通して、私たちの中に働いてくださいます。
先ほど読んでいただいた聖書箇所は、イザヤ書三十四章でした。

『主の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。』

聖書は、主の霊が集められたと言うのです。皆さんがお持ちの聖書は、神自らが語られ、集められたことばなのです。神が人を使って記録させたのです。ですからその情報は確かです。

しかし一つ注意しなければならないことがあります。『主の書物を調べて読め。』とあります。「調べて読め」とは、「内容を細部まで、明らかにする」とか、「詳細を明示する」という意味があります。聖書は、単に読むだけでも素晴らしいですが、同時に、内容を細部まで明らかにする努力が必要だと言うのです。
それには理由があります。旧約聖書は何千年も前に書かれた書物です。最初の原本はすでに失われています。どうして、私たちの手元にあるのかと言いますと、「写本」と言って、誰かが原本を書き写して保存したからです。昔はコピー機や印刷技術はありませんでした。誰かが羊皮紙とか、パピルスに書き写したからです。それが古くなったら、次の人が書き写して保存しました。それがあって、聖書は現在、私たちの手元にあるわけです。
それに加えて、旧約聖書ならばヘブル語、新約聖書ならばギリシャ語を、誰かが日本語に翻訳したわけです。誰かが、訳してくれて手元に聖書があるのです。
ということは、聖書は原典では間違いのない神の言葉で、神の息吹で集められたものですが、写本であったり、訳されると、原典の概念が少し変わったりします。ですから、よく調べて、真の意味を捉えないといけないわけです。すでに聖書は原典の時点で「調べて読め。」と告げています。今の時代は、さらによく調べる努力が必要なわけです。

今年、私たちはイザヤ書三十四章から導かれています。先ほど引用した「調べて読め。」も、イザヤ書三十四章のみことばです。
今年は「それは主の復讐の年」というテーマをいただいています。失ったものを取り返してくださるばかりか、敵に対して復讐してくださると期待しています。皆さん信じますか?
イザヤ書三十四章八節に、

『それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。』

「復讐」とは、人に対する復讐ではありません。目に見えない敵である悪魔に対する復讐です。家に帰ってから、イザヤ書三十四章全体をよく読んでみて下さい。その内容はエドムという国に対する復讐の宣告である事がわかります。読んでも、霊的側面はあまりくみ取れません。エドム人たち対する裁きの宣告です。
しかし、よく調べて読むと、霊的世界が浮かび上がってきます。例を挙げますと、まずは新改訳2017のイザヤ書三十四章十四節。

『荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこには夜の鳥も憩い、自分の休み場を見つける。』

この言葉から連想する風景は、どんな感じでしょうか。たぶんこんな感じかと思います。

砂漠の廃墟に山犬、野やぎ、夜の鳥たちが寄って来て、なんとなく、不気味な感じがします。ここから読み取れるのは、動物たちが廃墟に集まってきた情景です。これは新改訳2017の翻訳です。しかし現在、日本語に翻訳されている他の翻訳を突き合わせると、違った風景が浮かび上がってきます。

【口語訳】『野の獣はハイエナと出会い、鬼神はその友を呼び、夜の魔女もそこに降りてきて、休み所を得る。』

新改訳2017とはかなり違います。

【新共同訳】『荒野の獣はジャッカルに出会い/山羊の魔神はその友を呼び/夜の魔女は、そこに休息を求め/休む所を見つける。』

山犬、ハイエナ、ジャッカルとどうして変わったのでしょうか。また、聖書協会共同訳は似た訳です。

【聖書協会共同訳】『ハイエナはジャッカルに会い/山羊の魔神はその友を呼び/夜の魔女はそこで休息し/自分の憩う場を見つける。』

旧約聖書中、現存している最も古い写本と翻訳は、紀元前二世紀~三世紀ごろ、ヘブル語からギリシャ語に訳された「七十人訳聖書」と呼ばれるものです。エジプトのアレキサンドリアで訳されたと言われます。当時の世界はギリシャ語が公用語で、ヘブル語を読める人が少なかったので、旧約聖書をギリシャ語に翻訳したと言われます。それは二千年以上前の世界観を、最も反映した訳であると言われます。七十人訳聖書でイザヤ書三十四章十四節を見ますと、次のようになっています。

『悪霊たち(ダイモニア)はオノケンタウルスどもに遭遇する。彼らは互いに相手に向かって鳴き声を上げる。そこにオノケンタウロスどもが憩う。自分たちの憩い(の場所)を見つけたからである。』

全く違った側面が浮かび上がっています。イザヤ書三十四章は、ただ、エドムに対する裁きではなく、悪魔の国に対する復讐と裁きを告げる霊的戦いの描写を含んでいるのです。
オノケンタウルスとは何か?それは上半分が人で下半分が獣のような、ギリシャ神話に出てくる神々の原型です。写本や翻訳が重なると、ただの動物になってしまって残念です。当時の人たちは、その動物は悪霊を表すことを知っていたのです。ということは、聖書は注意深く読む必要があることがわかります。
現代は聖書研究のツールがそろっています。訳を比較して学んでいただきたいと思います。

さらにイザヤ書三十四章四節を見ますと、2017では、

『天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から実がしぼんで落ちるように。』

これを読んだらどうでしょうか。やがて天と地は滅びるんだろうな…と、世の終わりを連想します。
しかし、他の訳を突き合わせますと、ここでも違った意味が浮かび上がります。新共同訳では

『天の全軍は衰え天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれいちじくの葉がしおれるようにその全軍は力を失う。』

これは天の戦いを現しています。天にいる諸々の悪霊の勢力が打ち破られるという意味になります。エドムが悪魔の王国の支配とシンクロしている事が分かります。悪魔の王国が打ち破られると、地上の王国も消え去るという、目に見えない構図が見えてきます。
霊的な目と知識によって読み進めるときに、真理を見つけることができるのです。

プレイズ・ブックスには、いろいろな訳の聖書が並んでいます。訳を突き合わせて勉強すると興味深いです。もしも「この訳しか駄目です。他の訳は間違っており、聖書ではありません」と言ったら、おかしくなります。
歴史を学んで見ますと、十七世紀初頭にイギリスで、ジェームス一世王が訳させた、「キング・ジェームス訳聖書」が完成しました。その英語訳聖書はたいへんよくできていて、他の文学にも大きな影響を与えたと言われます。今日に至るまで多くの人に親しまれ、読まれています。
しかし一部の人たちが、キング・ジェームス訳以外、それも1611年に出版されたキングジェームス訳聖書以外は、聖書ではない、と言い始めました。彼らは「これこそが霊感された唯一の神のことばだ!」と主張しました。

“彼らは、KJV自体が神からの霊感を受けたと信じており、翻訳は「神の言葉そのものを英語で保存した」ものであり、その基礎となるテキストに見られる元のギリシャ語とヘブライ語の写本と同じぐらい正確であると考えている。”と主張したのです。

しかし歴史を見ると、その運動から、大きな問題が起こっています。エホバの証人は、元々、セブンスデイ・アドベンチストという教団から、KJVを背景に生み出されました。エホバの証人は彼ら独自の聖書を作り、「新世界訳聖書以外、読んではいけない。他の聖書は悪魔の翻訳だ!」と読む事を禁じています。モルモン教も同根です。
翻訳は、翻訳者によって少しずつ違いますし、注意深く、読んでいく必要があります。それがいかに大切かを、歴史を学ぶと分かります。真理を知るためには、正しく聖書を学ぶ態度が必要なのです。

聖書全体が伝える、幸せに生きる秘訣とは何か。それは「天地宇宙を造られた神を信じ、偶像を拝まない。」ことが基本です。日本で偶像を拝まないと言うと、抵抗があるのですが、なぜ、神は偶像を拝むなと告げているのかというと、それには理由があります。
今日はあまり詳しく話すことはできませんが、出エジプト記二十章五節を読んでみますと、次のようになっています。

『それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父のとがを子に報い、三代、四代にまで及ぼし、』

偶像礼拝は、真の神に対する最も大きな罪です。親不孝の中で最も大きな親不孝は何か。私の父がよく語っていたのですが、それは親の悪口を言うことでも何でもないと。「本物の親を親として認めないことだ。」と、彼がよく語っていました。神に対する罪の中で一番大きな罪は、天地宇宙を造られ、人類を造られた神を認めないで、石や木や金属の神々を自ら作り、神として礼拝する行為です。それほど大きな罪はないはずです。ということは、日本人は、天地宇宙を造られた神に対して罪深い民となります。
人々は、良かれと思って偶像礼拝を行っています。しかし、その結果は決して良いものではないのです。その行為に対して、神は、『わたしを憎む者には父のとがを子に報い、三代、四代にまで及ぼし、』と告げています。
平和に暮らしていたら、ある日突然、警察がやって来て、「あなたを逮捕します。」と言うので、「なぜ私は逮捕されるんですか?」と聞くと、「あなたのひいじいさんが罪を犯したので、あなたを逮捕します。」なんてことは、ありません。本人の罪に対しては結果が伴いますが、三代、四代も前の先祖が犯した罪の結果が子孫に報われるはずはありません。
しかし、偶像礼拝の結果としては、そういうことが起こり得るわけです。
人類の不幸の原因は、どこにあるのか、それは偶像礼拝によって家系に持ち込まれた罪にあると思われます。家系を振り返って、「うちの家系には何の問題もない。」と言える人は少ないと思います。私の家系にも様々な問題がありますし、家内の家系も同様です。なぜこんなことが起こるのだろう?と、様々な問題に苦しむのが人生かもしれません。そして、その原因が偶像礼拝にあると聖書は告げています。それは三代、四代にも影響を及ぼすのです。
英語でこの箇所を見ますと、『to the third and fourth generation』となっています。初代から、三代から四代に向かって呪いのようなものが流れるイメージです。この箇所を読むと、偶像礼拝の影響は、三代、四代ぐらいまで続き、やがて軽減されるイメージがあります。家系の中で、誰かがクリスチャンになって、偶像礼拝をやめたら、一代目、二代目、三代目、四代目と、悪い影響が徐々に収束するだろうと考えます。