神の家族として一つとなる祝福

また、皆さんが知っているダビデ王様には、多くの息子がいましたが、誰一人として仲の良かった兄弟はいませんでした。

このように、単に兄弟だからといって一つになれる訳ではありません。人間の力だけで「一つになって幸せに暮らす」ことは、簡単にはできないのです。

 

私の母に最初に与えられたのは、ダウン症の子どもでした。私よりも十歳年上の兄で、もう天に召されましたが、その兄がいたことにより母が神さまに出会い、救われ、家族全員がクリスチャンになることができました。この兄にも私は心から感謝しています。

私は、五人兄弟の四番目に生まれました。私からすると、四番目はどうでもいいというか、あまり気にされていない存在だったように思いますが、兄姉に助けられてきました。

今のプレイズを立ち上げるきっかけを作ってくれたのは、二番目の兄でした。私は、幼い時から教会献身を志していましたが、兄の経営するスーパーで魚を売りたいからと言われ、私は数日修行に行って魚屋を始めました。そのことを話すと時間がないので飛ばしますが、とても忙しく、店を辞めることなどできないと思っていた四十年前、それでも私が「献身したい」と言った時、兄は快く送り出してくれました。それからもずっとサポートをしてくれています。

三十二年前には、明先生のビジョンを受け取ってプレイズを始めることになったのですが、献身前、スーパーマルイチで店のチラシを小さな印刷機で刷っていたことがあります。考えてみると、そのことも今の働きにつながっている、役に立っていると思い、感謝しています。

また姉も、私の出来が悪いのを心配してくれ、プレイズのこともいつも気に掛けてくれています。三年前、プレイズの新社屋の土地購入の際にも、この姉が一役買ってくれました。

このように、いざという時に支え合うことができる兄弟がいる、ということがまず感謝です。それは、その中心にいつもまことの神さまであるイエスさまの存在があり、同じ神さまを信じる信仰のゆえに、兄弟で支え合えるという恵みを頂いたのだと思います。

 

使徒の働き十六章三十一節に

『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』

と、家族が救われるという約束があります。家族が救われることは本当に重要です。早く家族が主を信じ、共に主をあがめる者になることを覚えて祈ってまいりましょう。

 

しかし、時には家族が一つになることが難しい場合があります。一緒に住んでいる中には様々な問題が起きたり、行き違いが起こったりします。それなら一人でいるほうが気楽でよいと考える人もいると思いますが、人は一人では生きていけないのです。皆さんもそのことはご存じだと思います。

また私たちクリスチャンには、霊的な家族があります。あなたのことを心配し、とりなし祈ってくださる多くの兄弟姉妹がいます。

そのことも忘れてはなりません。

 

『私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。』(エペソ人への手紙二章十八〜十九節)

 

教会では、男性を兄弟、女性を姉妹と呼んでいます。今日、この会堂には多くの兄姉が集まっていますが、お互いは、新城教会に属する霊的な神の家族です。霊的戦いを知っているこの教会は、ある意味最強の家族です。神さまは、私たちが主によって新しくされ、神の家族として生きるようにと願っておられます。

神さまは、教会に神によって生まれた家族をつくり、その間に住んでくださり、その家族の愛によって霊的成長をさせてくださる仕組みを構築してくださいました。

 

『この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』(ヨハネの福音書一章十三〜十四節)

 

霊的つながりは、時に血のつながりに勝るものであり、あなたに大きな力を与えてくれます。本来、社会において神さまが与えてくれた肉の家族。しかし今、幸せなくつろぎの空間であるべき家庭が、家族が崩壊しているような時代だからこそ、私たちは健全な神の教会の中で生きていくということが、すごく重要であるかと思います。

もちろん、完璧な教会はどこにもありません。私たち牧師やスタッフも人間ですから、もちろん完璧ではありません。意図せず私たちの言動によって、皆さんに不愉快な思いをさせたり、怒らせたりすることがあるかもしれません。それは本当に申し訳ないことで、お詫びしたいと思います。スタッフは新城教会に属しておられる皆さんのサポート役をしているわけですが、一方で、神さまはクリスチャンお一人おひとりが所属する教会の中で、神の家族の一員として生き、成長していくことを望んでおられるのです。そして、教会には、あなたを必要としている方がおられるということも忘れてはなりません。

 

聖書は、私たちが互いに果たすべき責任があると教えています。

 

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』(ヨハネの福音書十三章三十四〜三十五節)

 

「互いに」という言葉は、新約聖書の中に五十回以上出てきます。「互いに愛し合うこと」、「互いに祈り合うこと」、「互いに仕え合うこと」、「互いに励まし合うこと」、「互いに尊敬し合うこと」、「互いに重荷を負い合うこと」など、これが聖書の教える、神の家族のメンバーシップです。

 

なぜ、私たちには、「教会」という家族が必要なのでしょう。その理由の一つは、お互いの信仰を守るためです。

サタンは、神の家族から離れて遠ざかっている孤立した信者が大好きです。その人は、サタンの策略に対して無防備であり、無力であることをサタンは知っているからです。

第一ペテロの手紙五章八節にこうあります。

 

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

 

ではなぜ、教会がサタンに狙われるのでしょうか。私たちが神の家族として生きていく時に必要なものが教会にすべて備わっているからです。サタンはそれを知っています。

クリスチャンでない人は放っておいてもサタンの味方のようなものです。しかし神の民はそうではありません。だからこそサタンは常に隙をうかがい、神の民であるクリスチャンに攻撃をしかけ自分の領域に引き込もうとするのです。

サタンは、皆さんを神の教会から切り離して孤立させること、魂を神さまから離れさせること、そのためにどうしたらいいかといつも考えています。ですから、サタンに隙を与えないようにしていきましょう。

教会生活においてなすべきことがあります。それが、共に集まり主を賛美し、主を礼拝するということです。このコロナの影響下、皆が教会に集まることができなかった時がありました。そのような時にも、教会ではインターネットという文明の利器を駆使して、礼拝や様々な集会を配信してきました。これは体調を崩している方とか、遠方で来ることのできないような方にとっては、素晴らしい助けとなりました。しかし、人々が教会に集まれなかったこの期間、サタンはすごく喜んでいたのではないかと思います。

ネット礼拝に慣れてしまって、ネットでも礼拝を見られるし、メッセージも聞ける。同じじゃないですか、と思うかもしれません。しかし、共に集まって主を礼拝し、主を賛美する恵みは大きいのです。

先週は、久しぶりにこの場所で聖さん式が行われました。皆さんも家で聖さん式をしていると思いますが、皆が一つになって行うというそのことは、より素晴らしいのです。

そしてこの六月から、昼食時にカレーの提供が再開されました。「今日のカレーはちょっと甘かったよね」とか、「ちょっと辛かったよね」とか言う人もいますが、美味しさはどうでもいいのです(美味しいほうがもちろんいいですが…(笑))。教会に来て共に食事をし、交わりをすることによってお互いの必要を知り、共に励まし合い、共に祈り合うことができます。この「交わり」というのは、教会では特有の意味のある言葉だと思いますが、すごく大切なことです。

様々な事情で来られなかったり、体調のことで制限があったりする方はインターネットで礼拝に参加なさってください。しかし、来られる状況にある方は、是非教会にお出かけください。よりいっそうの祝福を頂くことができます。

 

先週、とても嬉しいことがありました。教会カレーを食べている時に兄が、「おい、あの人知ってるだろう」と一人の年配のご婦人を指さしました。私は「あっ、知ってる。久しぶりだなぁ」と思ってその方に近づき、「こんにちは! 〇〇さん!」と名前を呼びました。すると開口一番、「えっ! 私のことを覚えていてくれたの!」と言われたので、「覚えていますよ~」と言うと、「いや〜嬉しい!」と満面の笑みで喜んでくださいました。二十分ほど話をしている間にも十回ほど、「私のことを覚えていてくれるんなんて。そんな人がいたんだ~」と、すごく感謝されました。

その方はこの地域の方なのですが、三十年ぶりくらいにお会いしました。その方が、「主人がいる頃には来たいと思ってもなかなか来られなかったし、私なんかが来る場所じゃないと思っていたけど、今は一人になったし、○○さんに誘われたので来たのよ」。「毎回新聞に入る教会ニュースは、隅々まで読ませてもらってるよ。あんたの活躍も聞いてるしね」と、そんなことを言ってくれました。何も活躍はしていないですけど…と思いながら、いろいろなお話ができて楽しいひと時でした。そして最後には、「これからも来させてもらってもいいかね」と言ってくれたのがすごく嬉しく、感謝でした。

これから新しい方も大勢来て、この神の家族の交わりに加えられることを願っています。

 

また、クリスチャンの交わりの中では、一人ひとりの賜物が引き出されることもあります。そして教会には賜物を生かす場所があります。午後にはセミナーや祈祷会、賛美集会など様々な集まりがあります。今日は証し会です。その中で、私たちは学び、賛美で力を得、お互いが強められ、信仰が成長していき、神のみことばを伝える伝道者として遣わされていくということが、この教会の中にある大きな力だということを、是非皆さん覚えてください。

 

ここまで、神の家族の大切さと祝福を語ってきました。

今日のみことばのヨハネの福音書一章十二節には

 

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

 

とあり、私たちがイエスさまを信じたことによって、神の子どもとされる特権が与えられ、神の子となれた。これって本当にすごいことなのです。そして十三〜十四節に書かれているのは、

 

『この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』

 

親子であっても兄弟姉妹であっても、それは人間同士の関係です。人の考え方は千差万別で様々違います。そこには多くの摩擦が起こり、争いが起こります。しかし、ここにあるように、『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた』とあるように、神さまご自身が私たちの間、それぞれの真ん中に入ってくださって、私たちを導いてくださるのです。そのことを是非心に留めておいてください。

 

最後に一カ所、ヨハネの福音書十七章二十〜二十一節をお読みします。

 

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。』