「70年が満ちた2021 回復と再建の年!〜聖霊に満たされて歩もう〜」

2021年9月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順

コリント人への手紙 第一 12章2節〜3節

『ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!

ヘブンリーキングダムの素晴らしい賛美を聞きました。「進め!進め!信仰によって進め!」と励まされました。なかなか前進することが困難な今日この頃ですが、主によって、聖霊によって、前進したいと心から願っています。

 

まずは家内のために、熱いお祈りをいただき、高い所からですけれども、心からの感謝を申し上げます。インターネットで礼拝に出席されておられますお一人お一人にも、心からの感謝を申し上げます。手術の後、順調に回復しています。これといった感染症や、合併症も起こらずに、ここまで来られたことを、本当に感謝します。消化器を切っておりますので、毎日、マイナーな事はいろいろあるのですが、守られていますことを感謝しています。本当に祈りの力を強く感じています。

うまくいけば今週末、退院になるのではとのことです。膵臓に埋めてある管の糸が溶けないと、管が抜けないということで、それが溶けるのに三週間以上かかるそうです。

今後、再発もないように、是非とも、続けて熱いお祈りを、よろしくお願い致します。

またこの癒やしが、キリストのからだ全体の癒やしと解放に繋がりますよう、祈っています。今年は「回復と再建の年」として、そのために用いられますよう、心から願っています。祈りが集結すると、神の奇跡が呼び起こされます。

 

しかし一方、祈りに関して、「神さまは全能だから、祈らなくたって、すべてを知っておられる。祈るほうが不信仰だ。」みたいな極論もあるわけです。なぜ私たちは祈らなければならないのでしょうか。

ある人が、「祈りはなぜ必要か」ということについてまとめていました。うまく説明していると思います。

 

“神は人に、この世の所有権は与えなかったが、人に「統治の責任」を任せられた。神は全能の支配者でありながら、自らを制限されたのだ。それはこの世に関しては、「人を通して働かれる」よう、ご自分を制限されたからである。”

 

なかなか的を射ています。なぜ祈らなければいけないのか。それは、神は人類にこの世の「統治権」を与えたからだというわけです。地上を統治、管理する存在として人類を置かれているのです。

神は、ご自分の全能性を制限して、人に権限を与えられたのです。ゆえに神は、地上に関することは、人のリクエストなしに働かれないというのです。

管理人は、この世の不具合を見つけ出して、神に報告しなければならない責任があります。管理人には、主人に対しての報告義務があるわけです。

クリスチャンがその権限を持っていますから、この地にある不具合を祈りという形で、神に報告する義務があるのです。

病があったら、「神さま、ここに病があります。いやしのために働いてください。」と祈る役割です。

社会において、教会がどのように動くかで、あまり気づいていないかも知れませんが、社会は変わるのです。日本では教会は小さいですから、日本の教会が祈ったって、大勢にあまり影響はないと思うかもしれません。しかし決してそうではないのです。私たちに統治権が与えられているがゆえに、その祈りは、社会を、世界を変えるのです。

 

現在、世界の教会は苦しんでいます。なぜなら、集まって礼拝ができないからです。新城教会の礼拝も、三分割されています。一部、二部、そしてインターネット配信という形で行われています。昔のように、皆で集まって礼拝することが困難になっています。世界中の教会も同様です。キリスト教会の未来を考えると、暗くなる感じです。明日は東三河の牧師会があるのですが、きっと皆、同じ苦悩を告白すると思います。

 

しかし、インターネット礼拝になって、新しい礼拝スタイルが確立している事も確かです。今日も多くの方がインターネットを通して礼拝に参加されていますが、普段ではできない礼拝ができるはずです。

「礼拝」という言葉は、そもそも「ひれ伏す」という言葉と同義です。旧約聖書においても、新約聖書においても、「礼拝」と訳されている言葉は、同時に「ひれ伏す」という言葉に置き換えることができます。

今日、どうでしょうか。礼拝堂に集まって、皆が、ここでひれ伏していたら、後から入って来た人たちは、「あれ?ここはイスラム寺院か?」みたいに思うかもしれません。

しかし本来、礼拝とは、主の前に全てを投げ出して、ひれ伏して、祈り、賛美する事です。

午後からセミナーがあって、そのようなテーマを開先生が扱ってくれると思います。是非ともご参加下さい。

案外、重要な礼拝の鍵を、イスラムとか、祖先崇拝に奪い取られています。韓国に行きますと、チェサと言いまして、先祖の霊と称する悪霊の前に、皆がひれ伏して礼拝しています。真の礼拝を悪魔に奪い取られています。

今、インターネットを通して礼拝しているのならば、是非とも、賛美する時、一度はひれ伏して賛美し、祈ってみてください。家ならば本物の礼拝が体験出来ます。主は、様々な状況を使って、ご自分の民を鍛えておられます。

 

しかし一方、会堂に集まることができないことも、悪魔の策略の一つです。

時々、「教会は建物じゃありませんよ。私たち自身が教会なんです。」と言われます。もちろんそうです。新約の時代においては、そうなのですが、旧約時代を見ますと、神は礼拝を受け取り、人と出会うための場を定められました。

神は特殊な空間を用意して、定められた時に人々がその空間に集まるならば、天が降りてきて地に接するという法則でした。それが神殿でした。現代において、その法則は教会に受け継がれています。ゆえに教会堂とは、神が地上に設置された特殊空間です。定められた時に集まるならば、天が地に接してくるのです。
 新城教会の会堂は、献堂されて四十年以上が経ちます。この場所に教会が移ってきては、六十年以上になります。何のためにこの建物はあるのでしょうか。それは主と出会うため「のみに」特化して用いられています。他のためには使用していません。主を礼拝し、主と出会うためのみに、会堂は使用されています。この会堂がなかったらイエスさまと出会わなかった人は多くおられます。

それはこの空間が、神が人と出会う「特殊空間」だからです。ということは、教会に集まることをやめてはいけないということです。

 

もうしばらくしたら、二部制礼拝ではなくて、一部に戻せたらと思い祈っています。感染もだんだん収まっていますし、ワクチンとか、新型コロナに対抗する様々なアイテムも、社会に出揃ってきましたから、できれば、二部制ではなくて、一回の礼拝とインターネット礼拝に戻せたらうれしいです。主を信じる者たちが、一緒に集い、礼拝を捧げる時、聖霊さまが会衆に訪れてくださるのです。このような状況の中で、主は礼拝のスタイルを、見直すようにと語られているように思います。

 

インターネット上には、様々な情報が氾濫しています。吟味しないと結構危険です。聖霊によって、選球眼を磨いて、様々な情報にあたっていただきたいです。

先日、YouTubeを見ていましたら、ユダヤ教のラビのような人が、流暢な日本語で聖書を解説していました。彼らは旧約聖書を聖典としていて、民族的な背景もありますから、私たちが知らない、旧約聖書の理解を紹介していました。なかなか深く、あまり気づかないところをついていて、感心しました。

しかしその中で、視聴者からの質問コーナーがありました。どんな質問が寄せられていたのかと言うと、「あなたはイエスのことをどのように理解し、考えていますか?」という質問でした。

 

私たちクリスチャンは、イエスはキリスト、救い主と信じています。しかし、「ユダヤ教では、イエス・キリストをどのように評価していますか?」という問いでした。すると彼は、「これはキリスト教徒たちを傷つける為の意見ではありません。」と前置きをしながら、「ユダヤ教徒たちの共通の認識として、知っていただきたい。」言いました。

 

私たちは「イエス・キリスト」と呼びますが、「キリスト」とは「メシア、救い主」なので、彼は、「我々はイエスをキリストだとは信じていない。」とはっきり語っていました。そして、「イエスが歴史上、実在した人物であることは疑わしい。」と語っていました。「新約聖書を見て下さい。イエスの死後に書かれた書物です。キリスト教徒たちがでっち上げた可能性がある。考古学的にも、イエスが実在したという証拠はない。」と言うのです。

そして、「万が一、イエスが実在したとしても、ユダヤ教の旧約聖書理解から見れば、彼はメシアではない。異端者だ。ユダヤ教徒たちは決して、イエスを受け入れる事はありません。」と語っていました。

 

このような情報に接するならばどうでしょうか。信仰が弱っているクリスチャンは、「もしかしたらそうかもしれないな・・。考えてみれば、イエスは、二千年以上の前の人物だ。日本に置き換えたら、縄文時代の人物を神とするようなもので、人生を棒に振るぞ。」みたいに考えるかも知れません。

さて皆さん、どう思いますか。イエスさまは、この地上に実在したのか否か。彼がキリストであるのか否か。これは大きなテーマです。

 

しかし私はそれを聞いて、ユダヤ教徒の彼はかわいそうだと思いました。なぜならば、「イエスは主である」と告白するために必要なのは、聖霊さまによらなければ、告白できないからです。今日イエスさまを「主である」と告白できるとしたら、聖霊さまが来ておられる証拠です。私は、ユダヤ教の意見を聞いても、全く揺るぎません。イエスさまを心から愛していますし、イエスさまが救い主だということを、みじんも疑ってはいません。なぜですか?聖霊さまが、イエスさまが主であることを教えてくださるからです。

イエスさまはこの世を去る前に、このように語られました。

ヨハネ十四章十六節、十七節、

 

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』

 

イエスさまは十字架にかかり、よみがえり、天に帰って行かれました。しかしその代わりに、助け主、聖霊さまが来て下さったのです。

今の時代は三位一体なる神の中で、聖霊さまの時代です。もしも、聖霊さまを受け入れ歓迎しないのならば、聖書の世界はただの歴史的記録にしかなりません。二千年前、イエスさまは多くの奇跡をなし、癒やしをなし、不思議としるしをなされました。旧約聖書にも、多くの神のわざが記録されています。それらはどのように現代に適応出来るのでしょうか。それは、聖霊さまの働きによるしかないのです。

 

イエスさまが天に帰られた後、弟子たちはエルサレムの二階座敷に集まって真剣に祈っていました。するとペンテコステの日に、聖霊が注がれました。そこで彼らは新しい言葉を語り、預言をし、そして、世界宣教に出ていきました。

それと同じ現象が、今の時代にも起こっています。キリスト教の歴史は、聖霊さまの歴史です。

「聖霊降臨」は、ペンテコステの日に終わったのではありません。それ以後も、繰り返し、求める者たちに訪れて、教会を励ましておられます。

聖霊体験は、イエスさまの弟子たちと同じ体験です。聖霊さまは、二千年前の聖書の世界を、現代に引き寄せるのです。

ゆえに、私たちは高らかに、「イエスは主です!」と告白できるのです。今日、「イエスは主です!」と大胆に告白できるとしたら、二千年前に弟子たちの所に来られた同じ聖霊さまが今もなお、働いてくださっている証拠です。