「70年の満ちた2021 回復と再建の年 〜永遠のいのちを得るために〜」

2021年7月18日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ルカの福音書10章25節〜28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!

今も、石塚さんの迫力ある賛美を聴くことができて、心から感謝します。

大変暑くなって参りましたけれども、お元気にお過ごしでしょうか。「ヘブンズ・アイスクリーム&コーヒー」がオープンしまして、暑い日が続いていますので、感謝なことに地域の方々が多く来てくださっています。ヘブンズはリバイバルです。これから教会にもリバイバルが及ぶように心から願っています。

 

今日は伝道礼拝です。始めて来られた方にもわかりやすくお話をさせていただきたいと願っています。

 

まずは、家内のために、私のために、祈ってくださり、本当に感謝致します。祈りにおいて、実際的にも、支えていただき、ここまで守られていることを、心から感謝致します。主が生きておられる証拠です。

三ヶ月・四ヶ月という、命の宣告をされたのにも関わらず、一年九ヶ月近く経ちました。最近、家内は五キロぐらい太りました。これ以上太ってはいけないと思うのですが、元気にしております。まだまだ治療は続いておりますので、お祈りのほどをよろしくお願い致します。

 

教会という場所は、日本において、なかなか認知度が低いというのか、警戒されている感じがあります。なぜなら、かつて日本においてキリシタン大迫害があって、大勢の人たちが殉教したから、イメージが悪いのかも知れません。

しかし案外、中身を知らない人が多いのではないかと思います。

 

先日、こんな話を聞いたのですが、山の中に父親と息子の二人が、ひっそりと暮らしていたそうです。ある日、息子が、「お父さん、僕は都会に行く。」と言って出て行きました。お父さんは息子のことが心配で、夜も寝られないくらいでした。

「息子はちゃんとご飯を食べているか、、。いじめられたりしていないか、、。仕事はできているか、、。」などと、毎日心配して悶々としていたそうです。昔のことですから、通信手段があるわけではなく、出て行ったきりで、連絡も来なかったと言うのです。

しかしある日のこと、息子から待望の手紙が届きました。すぐに手紙を開封しましたが、お父さんには一つの弱点がありました。昔のことで、お父さんは、文字が読めなかったのです。何が書いてあるのか、さっぱり分かりません。それで意を決して、外に出て行って、字が読めそうな人を探しました。すると、しっかりした身なりの紳士が歩いて来ました。

「あっ!この人なら、字が読めるにちかいない!」と思い、「すいません。息子からの手紙を読んで下さいますか?」と、その手紙を手渡しました。紳士は、手紙を受け取って、じっと手紙を見つめていたそうです。

しばらくしたら、紳士の目から大粒の涙が落ち始めたというのです。やがて紳士は両肩を震わせて、泣き始めたのです。その姿を見て、お父さんはパニック。「息子によからぬことが起きていたんだ!」お父さんも紳士と一緒になって、泣き始めました。すると村人が通りかかって、一緒に泣いてくれたと言うのです。

しかし、しばらく泣いたお父さんは、「泣くのはいいけれど、どういう理由で泣いているのか、聞いたほうがいい」と思い、紳士に聞いたそうです。「すいません。手紙はどんな内容ですか?あなたはどんな理由で泣いてるのですか?」と聞いたら、紳士はこう答えました。

「なぜ俺は、若い頃、文字を読む勉強をしなかったんだろう。そのことを思うと悔しくて、悔しくて、泣いていた。」と答えました。実はその紳士も。文字が読めなかったのです。

通りがかりの村人に、「あなたはなぜ、泣いているのですか?」と聞くと、「二人が泣いているから、私も泣かずに通り過ぎるのは申し訳ないと思って、一緒に泣いていた。」と言うわけです。誰も、手紙の内容を理解している人はいなかったのです。

 

案外、日本人にとって、キリスト教も同じではないかと思います。中身を知らないで批判したり、食わず嫌いというところがあるかも知れません。先週も、ギデオン協会のための献金をさせて頂きましたが、キリスト教の基礎となっている「聖書」は、世界中で読まれています。毎年のベストセラーです。この書物の中身を知らずして、標準的な人生を歩むことは不可能であると私は信じています。

聖書は、「神から人類史全体に宛てられた手紙」と表現できます。時々、聖書は、「神から人に宛てられたラブレター」などと表現されますが、それはあまりにも聖書の内容を矮小化した表現だと思われます。

聖書の内容は一口で言えば、「人類救済計画書」と呼ぶことができます。聖書のストーリーの中に、人類を救うための神の計画が込められています。その内容を知ったら、人生は大きく変化します。ですから中身を是非とも知っていただきたいと願っています。

今日は聖書全体から、神がどのように人類を救済しようとされているのかについて、お話ししたいと思います。

 

聖書の前提は、「創造主なる神がおられる」ということです。私たちは創造主によって創造されました。そして神は、「ただひとり」であるという前提です。

人には深いものがあります。どうして人類が存在しているのか。体の構造にしても、それを機能させるシステムにしても、完璧なものがあります。

しかし、創造主の存在を認めるにしても、神が人を創造する際、もう少し丈夫に造っても良かったんじゃないか?と思いませんか?私は毎週のように、家内の病院通いです。藤田医科大学病院まで行くのですが、「もう少し人間を造る時点で、丈夫に造ってくれていたらよかったのに。細胞がガン化するように造らなくても良かったんじゃないか?」と思います。また人類は他の生物と違って、よく喧嘩します。戦争があったり、殺し合ったり、苦しみがあったり、悲しみがあったり、これは人間の不徳の至りではありますけれど、同時に原点において、神さまがもう少し人間をしっかりと造っていてくれたら、こういう悲しいこともなかったのにと思います。人間は出来損ないというのか、失敗作かもしれないなんて考えてしまうことがあります。

 

しかし、この聖書を読みますと、そうではないことが分かります。初めの人類は完璧に造られていました。死もなく、永遠に生きる存在として造られました。また、自分を造った神が誰かについても、ちゃんと認識していました。神とのコミュニケーションもばっちりで、何の不自由もない生活をしていたのです。

しかしその後、完璧な人類の真ん中に、罪と死がもたらされたのです。誰がもたらしたのかと言うと、悪魔が人を誘惑したことによって、もたらされました。

その結果、神から分離されて、人類は全世界に散らされ、迷い出たのが人類史です。

初め人類は同じ言語で、一つの地域で暮らしていたのですが、神から離れた結果、散らされ、多くの国々、多くの民族と言語が発生しました。また、人類の歴史は、言い換えれば「宗教史」であると言われます。人類と宗教は切り離すことができない関係です。どのような宗教史を刻んで来たのかと言うと、「多神教の世界」を作り上げたと言われます。

日本はどうでしょうか。日本の神々は多神教、「八百万の神々」です。八百万以上の神々が存在するわけです。

なぜこのような多神教の世界になったのか、それは唯一の神から離れ、断絶したゆえに、自分勝手に神を求めるしかなくなったからです。ゆえに人は、霊感を感じる存在をみな、神にしてしまったわけです。下手な鉄砲数うちゃ当たるという感じです。人が神と断絶した後、神の位置を横取りしたのが悪魔・悪霊どもでした。ゆえに、神のふりをした悪霊どもを背景とする、偶像で満ちた世界ができあがったわけです。

 

しかし真の神は、そんな人類を放っておかれないで、「人類救済計画」を実行されました。どのように実行されたのかと言うと、当時、最も多神教がはびこっていた、古代バビロニア帝国のウルという街に目をとめられて、多神教文化にどっぷり浸かっていた一人の男に声をかけられました。神の声を聞いたのは誰かと言うと、「アブラム」という人物でした。

創世記十二章一〜二節、

 

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』

 

現代の日本においても同じことが起こっています。ここにはクリスチャンの方々がおられますが、日本も多神教の世界ですが、ある時、アブラムと同じように神の声を聞いたはずです。それは、「あなたの父の家を出なさい。」という声でした。これは何を意味するのかと言うと、「多神教の世界から出なさい」という真の神からのメッセージです。

 

現実的にアブラムは、ウルから脱出しました。神は彼を、今のイスラエル、カナンの地に導かれ、そこで、長く途絶えていた人と唯一の神との交流が再開しました。聖書には壮大なストーリーがありますが、短く圧縮してお話ししますと、その末裔に、モーセという人物が出ました。神はモーセを通して、人類が神と和解する「和解案」を提示されました。それが有名な「モーセの十戒」です。

「もしもこの命令を守ることができたら、神から迷い出た人類を、もう一度楽園に戻してあげます。」という、神からの和解案でした。

十の戒め、ご存知の方も多いと思います。これを守ったら、神との関係が回復すると言うのです。元々、人間は、永遠のいのちの中に生きていました。何の欠陥もない生物でした。その時代に戻してくれると言うのですから、守ったほうがいいですよね。

どうですか。見たところ、そんなに難しそうではないです。一番目は、「神が唯一であること」。二番目は、「偶像を作ってはならないこと」。神々を作らなければいいわけです。三番目「神の名をみだりに唱えてはならないこと」

当時、神の名を使って魔術をやっていました。そういうことをするな、という警告です。四番目、「安息日を守ること」。六日間働いたら七日目は休むように、神は安息日を設定されました。皆さんは、本日、礼拝に来ておられます。でも、日曜日は安息日とは違います。日曜日の礼拝制度は、ローマ帝国とローマカトリックが決めたものです。

しかし、今日は太陰暦による、聖書暦で追っていきますと、安息日と重なります。ですから聖書の律法をふまえていることになります。

「両親を大切にすること」は当然です。また「殺人」や「姦淫」はいけません。「盗み」も「嘘」も「むさぼり」もいけません。これらは難しい事柄ではなく、人が生きる上での当然のルールです。神は、難しい条件を告げているわけではないのです。

しかし十戒を受け取ったイスラエルは、守ることに疲れ果てました。「律法を守るのは無理!」と、諦めてしまったのです。

こんな単純なことを、なぜ守れなかったのか?と、不思議に思うかもしれません。

それには理由があるのです。今日読んでいただいた箇所は、律法の専門家が、イエスさまに質問したところから始まっています。「律法」とは「十戒」を意味します。「律法の中で、どれが一番大切ですか?」という質問でした。

 

実はイスラエルに十戒が与えられた後、「律法の専門家」と呼ばれる連中が出てきました。そして十戒を小分けしたのです。「この戒めは、こういう意味だ。ああいう意味だ。」と、細則をいっぱい付け加えたのです。それを「口伝律法」と呼びます。それが当時、いくつあったのかと言ったら、「六百十三」ありました。「口伝律法も守らなかったら、神との交わりは回復しない!」と、律法の専門家と呼ばれる人たちは人々に教えました。