『完全な』主の勇士

2022年3月20(日)新城教会副牧師 鈴木陽介

ローマ人への手紙12章2節
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

ハレルヤ。おはようございます。心から主のみ名を賛美します。今日もこうして皆さんの前に立たせていただいて日曜日の礼拝のメッセージを取り次がせていただけることを心から感謝します。
二〇二二年に入り、もう三月も後半です、日本においては三月・四月は年度末・年度始めということで、私たちの生活にも実際的に変化があるような時期です。

教会の働きとして、ヘブンズアイスクリーム&コーヒーにおいても、この春は「スプリングアフタヌーンティープラン」という働きをしています。
 昨年の12月にクリスマスパーティープランをさせていただきましたけども、それを踏襲するような形で行います。春らしくデコレーションされた個室を皆さんに提供して、そちらでアフタヌーンティーを楽しんでいただきます。
また、せっかく教会に足を踏み入れてくださるわけですから、同時に福音に触れる機会を提供させていただいています。Hiraku&Norikoのお二人が賛美とみことばを取り次いでくださいます。
先週、この地域に教会ニュースが折込され、また戸別に配布もしました。その後それを見た一般の方々から電話での問い合わせがたくさんあり、用意した日程の中で予約可能な枠はあと一組となりました。
昨年から教会の会堂と並び、表に立って新しく始められたヘブンズアイスクリーム&コーヒーの働きに対して、主が持っておられる計画をもう一度心して受け取らなければならないと感じさせられているところです。是非祈り支えていただけたら感謝です。

 

それではみことばを学んでいきたいと思います。今日、主題のみことばとして取り上げさせていただくのは、ローマ人への手紙十二章二節です。お読みします。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』

よく引用される箇所で、私自身もよく引用する箇所であります。今日はこのみことばから、結論を先に端的に申し上げますと、「完全であれ」、「勇士であれ」、「完全な勇士であれ」ということを学んでいきたいと思います。
完全とはどういうことか、完全であるなんて無理じゃないか。完全になるためにはどうしたらいいだろうか。という点についてみことばから見ていきたいと思います。

まずはじめに考えたいのは、①として、『この世と調子を合わせてはいけません。』という冒頭の部分です。
今の私たちが生かされているこの世は悪魔の支配下にあるということを知っています。悪魔の誘惑により、初めの人間アダムとエバが罪を犯しました。それによって悪魔にこの地の支配権が渡ってしまいました。
もう一度イエスさまが来られて、新しい地、新しい天に造り変えられるまで、この世に完全なる神の支配は訪れません。ですから私たちもこの世で生きるうえで、そのことを理解していなければなりません。
特に現代は、経済活動が全ての中心にあり、また様々な情報、偽り、悪が溢れかえった混沌の時代です。コロナウイルスの問題も長く続いております、またロシアとウクライナの戦争も続いています。今まさに私たちがこのような時代の中において生きるうえで、この世と調子を合わせていてはいけないわけです。
実はこの『この世と調子を合わせてはいけません。』という日本語の訳、表現自体が実に曖昧ではないかと感じます。ともするとこの訳自体が、ある意味でこの世と調子を合わせているというふうにも思えます。
日本語において、「調子を合わせる」とか、「調子」という言葉、すごく含みをたくさん持った表現ではないでしょうか。「調子」とは何でしょうか。「調子」という言葉を端的に一言で説明できる人はもしかしたらいないのではないでしょうか。いろいろな場面で使える言葉です。「調子がいい」とか、体調のことも言いますし、「あいつお調子者だな」という風にも使いますし、また音楽の分野でも「調子」と使います。つまりこの「調子」という言葉自体がすでに、実に日本的ないろんな含みを持たす事のできる言葉だなと、今回このみことばと向き合う中で私は感じました。「調子」、「調子をあわせる」とはどういうことでしょうか。
この箇所を原語でそのまま形式的に訳すならば、「この世の型に合わせてはいけない」という風に訳せます。英語ですと「pattern」、という言葉が使われています。日本語で言うと「パターン」です。「pattern of this world」、「この世の型」に合わせてはいけないという風に訳されています。
原語では、ギリシャ語の「スケーマ」という言葉の派生語が使われています。動詞の形、さらに言うと受け身の形で書かれています。この言葉は、「外形、形、型」という意味があります。見た目の形だけ、型、パターンですね。これに合わせてはいけないということになります。
私たちはこの世で、特に日本のような国で生活するうえで世にある型、周りの形、パターンに合わせて生きること求められます。ともすると教会においても、それが第一優先事項であるかのように求められてしまう世の中に生きているかもしれません。
しかしこのみことばにある通り、まず私たちはこの世の型に合わせてはいけない。常に神の国の価値観を中心にする。これがクリスチャンの存在の根本です。そのようなことをさらにみことばから見ていきたいと思います。

先ほども触れましたけども、今私たちの生活の中ですぐに思い浮かべる大きな二つの事があります。一つ目はロシアとウクライナの戦争です。もうひとつはコロナウイルスの件です。
ところで皆さんロシアの場所お分かりでしょか。子どもたち、ロシアどこでしょうか?
 この中のほとんどの方がロシアと言うと、この場所のこの形・大きさの国と思うでしょう。しかし実はこの画像、私たちが目にする世界地図、これ、「大嘘」であると知っていますか?どういうことでしょうか。お分かりになる方いらっしゃいますか。実は私たち、みんな知っているはずなのです。でも私たちはこれを当たり前にロシアの形・大きさとして受け取っています。しかし、実はロシアの本当の大きさ・形というのは、こちらになります。
これはどういうことでしょう。地球というのはそもそも球体です。完全な球ではないですが球体です。この世界地図は球体である地球を便宜上平面に表しているわけです。これを視覚的に捉えるためにすごく分かりやすい画像がありました。
 このように人間の顔で考えるとすごく分かりやすいです。私たちが目にしているこの世界地図は、16世紀に考えられたメルカトル図法というものが用いられています。この図法においては緯度が高くなれば、(北緯であろうが南緯であろうが)高くなるほど実際よりも横に引き延ばされることになります。その結果、ロシアのような緯度の高い国土を表す時には、このように北に行けば行くほど実際より膨らんでいるわけです。赤道直下がこの図法の影響を受けない位置なので、赤道直下までそのまま南に降ろしたものが実際の大きさなのです。

これを踏まえて、今のロシアとウクライナの戦争がどうだということは直接関係ありません。けれども、私たちの一番の関心事についても、少し視点を変えてみるだけで、これだけ事実と異なっていることがあり得るのだという視点を与えられるのではないでしょうか。このように私たちが当たり前と思っていることがいかに当たり前でないか。そこからスタートしていきたいと思います。

そして、次に新型コロナウイルスの件についても触れさせていただきます。
この件は非常にセンシティブで、礼拝においては扱いづらい内容です。誤解の無いように聞いていただきたいと思います。
「コロナ禍」と言われる今の状況、二年以上が経過しました。私たちクリスチャンは、今その現実をどう捉えているでしょうか。
日本の感染者数と死亡者数のこれまでの累計です。五百九十七万という感染者数、そして死亡者は二万六千七百九十六です。この数字をどう捉えるのかということです。私たちはこのような数の理論において報道を受けておりますし、またそれによって政府・自治体の政策や対策が打ち出され、私たちの行動も制限されています。数の理論の元、一定の情報が発せられているわけです。ならばその数の理論を正しく読み取る必要があります。
今からその様な観点でお話をさせていただきますが、それは決してお一人お一人の重傷者や死亡者の命、数字を軽んじるということでは決してありません。その点を前置きさせていただきます。
まず五百九十七万という数字、二年間の累計です。この地上の続く限り、検査してこのウイルスに関して数字を出していけば、ずっと積み上がっていくものです。まずそのことを知っておかなければなりません。
また日頃の報道から、こんなにも感染が拡大してしまったという価値観だけを受けておりますけども、日本の人口比で考えれば、この二年間以上で感染した人すべて合わせた数字が四・七四パーセントです。残り九十五パーセントの日本人は、感染すらしていません。そして死亡者にいたっては、〇・〇二一三パーセントです。
これを見てこれが本当に重篤な病・感染が非常に拡大して対策が必要なウイルスと考えるべきでしょうか。生活も変えて対応しなければならない非常に重大な病・ウイルスなのでしょうか。この数字だけが全てでないことも当然わかっております。統計に現れない数字もあるでしょう。しかし、この数の理論から、私たちがこれまで当然受け入れてきた考え方の逆の視点からも「コロナ禍」を見つめなければならないと思います。
二年以上経過したこの問題は、今は実際の健康被害よりも、私たちが今の状況を受け入れてしまっていることに本質的な問題点が移っているのではないかと感じています。特に信仰者であるはずの私たちが、「こうしなければならない」という社会の体制に疑いなく合わせてしまっているとしたらどうでしょう。

ある一人の医師のインタビュー記事をご紹介したいと思います。お読みします。質問としては、全体として「周囲の雰囲気にのまれずに、自分で冷静に判断することが必要ですね。」これに対して、「若い人はコロナにかかっても死なないという話をしましたが、では高齢者の場合どうなのか。高齢者が年を取って免疫力が低下して認知症やがん、さまざまな病気の可能性がある中で新型コロナだけを怖いと思うのか、運命と思って受け入れるのかは個人の判断であるべきです。」この辺の表現はクリスチャンであれば適正に変換して受け取るべき表現です。 「肺炎で日本ではお年寄りが毎年十二万人死んでいる。」コロナウイルスの数字はどうだったでしょうか。累計で二万六千くらい。一年に直せば一万三千ぐらい。単純にコロナの一年の死者が一万二〜三千と考えるならば十倍です。「新型コロナも肺炎の一つです。肺炎の原因が少し上乗せされた。これまでは肺炎で死ぬことを過度に恐れて外出を制限されることもなかったのに、今回の新型コロナだけは、出かけるな、動くなと言われ、家族も会いに来るなと言われる。遊びにも行けず、おいしいものを食べに行くこともできません。コロナ一神教でかごの中に閉じ込められて、免疫力がつくわけがありません。」
もちろんこの様な視点が全てではないですし、もっと大きな包括的な問題があると思うのですが、私はこの意見に大部分賛同します。少なくとも一番最後の文は、クリスチャンこそ受け取らないといけないのではないでしょうか。コロナ一神教のような状況に、日本が、世界が、なってしまっている。コロナの健康被害よりも、「コロナ教」になってしまった社会の考え方のほうが問題ではないかということです。私たちクリスチャンの考え方はどうでしょうか。主にあって立つべきところに立ち続けることができているでしょうか。あえて今日はこの講壇の場、礼拝の場で、誤解のリスクも多い中、また責任も重い中、視点の転換としてお話しさせていただきます。「この世と調子を合わせてはいけません。」