「天のみ座を賛美で満たそう!」


<勝利・感謝・主に栄光ビデオ>

アーメン。感謝します。もう一度、主に拍手の賛美を!本当に主に心からの感謝を、私たちは忘れることなく戦い続けていく者でありたいと心から願います。このように日本のこの地球の裏側から、また再び、こうして、このタイミングでこのように私たちに励ましのメッセージを届けてくださった主に心から感謝します。「歌い続けてください」とこの先生も言っておられました。私たち信じて、主への賛美をささげ続けていく者でありたいと心から願います。

今日のメッセージのタイトルは「天のみ座を賛美で満たそう!」というタイトルをつけさせていただきました。天のみ座、神さまご自身のみ座が、神さまの賛美で満ちる場所、満ちていますけど、さらに満たすそんな者でありたいと心から願います。しかも今、今日こうして皆さんと共に、この新城教会の会堂に集まっていただき、またインターネットを通して同じこの空間の中で主への賛美をささげています。そこに主のご臨在があると私たちは言いますし、また「神の国がここに訪れる」と私たちはよく言いますけども、神のみ国というのはどこにあるか。
そんな質問をパリサイ人がイエスさまに聞いたことがあるんですね。「神の国はどこにあるんだ。」彼らとしたら、「いつローマ帝国の重圧から解放されるんだ。」とイエスさまに「どのスケジュールでいつ頃に来るのかな。」という、そういう人間的な質問だったように思うのですが、しかしイエスさまはそれに対して、彼らに何と言ったかと言うと、ルカの福音書十七章二十一節に、

『『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」』

とイエスさまはおっしゃいました。神の国はどこにあるか。私たちのただ中。ただ中というのは、私たちの心の中でもありますけども、新共同訳聖書にはこのように書かれています。

『神の国はあなたがたの間にあるのだ。』

と、そのように書かれております。ですから私たちはこの「間」というのは、つまり信じるクリスチャン同士の関係性の中にあったり、そしてまたその集まり。だから集まるということはすごく大きなことで、この集まるこのただ中に神の国が来るのです。
ですから私たち今日もこうして賛美しているという中に、すでに神の国があるんですね。そして、そこにおられる方はどなたかと言うと、天の父なる神さまと、その右の座に座される子羊主イエスさまなんですね。

私たち、黙示録を見ると、そのことが深く書かれています。先日のセミナーの中でも学びの時を待たせていただきましたが、今日の主題のみことばがその黙示録のみことばでした。少し読みしたいと思います。ヨハネの黙示録五章十一~十二節、

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』

み座のみ前に、そこに四つの生き物、ケルビムと言われる四つの生き物。そして二十四人の長老たちと、そして贖われた数え切れない人たちと、万の幾万倍、千の幾万倍の天の大軍勢がいて、そして主を賛美していたという、この場景あたかも遠い所の天の彼方のお話のようですけど、それが今このただ中にあるということは、私たちのこの賛美を受け取ってくださっておられるお方のみ前で賛美しているという、そんな思いで賛美しなかったらいけないなということを、最近強く感じています。
父なる神さまのみ前に私たちが礼拝をささげるということは、ここにおられるその聖なる聖なる聖なるお方、イザヤも神さまを見ました。でもその時は「聖なる聖なる聖なるお方」という、その主の栄光を見て、「もう私はダメだ!」とイザヤは言ったんですけど、その時に見たものは、神さまの栄光の衣の裾だったんですよ。裾だけ見て、もう駄目だ!と言ったのですが、この黙示録ではヨハネが見た時は、もうその現実を目の当たりにしているんですね。そしてその天の大群衆の賛美がそこでささげられていました。
私たちが毎日おささげするこの礼拝というのが、その天の大群衆の中での賛美の礼拝だと、そんな思いで賛美をしていく必要があるのではないかなと思います。私たち、ある意味本当に聖なるお方、そして天の父なるお方、そしてその隣には屠られた屠られた子羊イエスさま、屠られたということは私たちのために命をささげてくださって、でも屠られて惨たらしくなったイエスさまではなくて、よみがえられた勝利のイエスさまご自身がそこで立っておられる、そのみ前で神さまに礼拝をささげていると、そんな思いで賛美をささげていかなかったらいけないなと、本当にそのようにすごく強く感じるものであります。

さらに黙示録五章十三節もお読みします。

『また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』

ここでは全被造物も共に歌っていると書かれています。パウロも言っています。ピリピ人への手紙の中で、二章十~十一節、

『それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』

パウロも言っていますが、私たち一人ひとりが、その天の大群衆での賛美と共に、ここで賛美をする。そしてそれと共にすべての被造物、命ある天にあるものも、地にあるすべてのものも主を賛美して、よみがえってくださったイエス・キリストは主である!と賛美するという、その終わりの時代の賛美を私たち、ささげ続けていく者でありたいと、心から願います。

いろんな時代に、それぞれの賛美がささげられてきましたが、最高の賛美、そして最高のささげものを私たちはささげなかったらいけないんですね。最初の人アダムとエバ、そしてその子どもがカインとアベルでした。カインとアベルは神さまの前に礼拝のためにささげ物をしました。カインは自分の穀物を持ってきて、そしてアベルは自分の羊、その中でも最も貴重な羊を主のみもとに持ってきて、そしておささげしました。創世記四章三~五節、

『ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』

私たちのささげ物、主へのささげ物である礼拝が最高のささげ物であり続けていきたいなと、心から思っています。それも主に最上の物を持ってきたアベルのように、最上の物を持ち続けていきたいと思います。

イザヤ書のみことばをお読みしたいと思います。イザヤ書六十六章一~二節、

『主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。--主の御告げ--わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』

と書かれています。天も地もすべてを造られて、そこに満ちておられるお方がいらっしゃいますが、そこで私たち最高のものを持って行かなかったらいけないです。その中で主はどこに目を留めてくださるかと言ったら、なんとへりくだって心砕かれた者、イエスさまの十字架を仰ぐ者に主は目を注いでくださいますので、そこに目を留め続けていきたいと思います。もう一箇所読みます。詩篇十五篇一~二節、

『主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。』

私たちがその聖なる宮、主の幕屋に宿り、聖なる礼拝をささげるためには、正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る。リバイバルがこれからもっともっと進んで行って、神さまの新しいみわざがこれから始まろうとしていると思います。
そんな中で神さまが私たち一人ひとりに「霊とまことをもって賛美をささげなさい」ということと、「もう一度、わたしのみもとに来てへりくだってわたしに賛美をささげなさい。」そして心の真実を語る人の所に主は事をなしてくださると、それが主からのみことばですので、私たちはそのような者とならせていただいて、そして天でささげられている賛美の中に私たちも共に入り、そこを賛美で満たす、その時に神さまの大いなるご栄光が現されると信じています。

最後にもう一箇所だけ聖書をお読みして終わりにしたいと思います。イエスさまがこの地上に来られて、様々な癒しをなされ、奇跡をなさいましたが、その中の一つは死人を生き返らせるという奇跡です。イエスさまには命を与えて、そして命を育むお方なのでできないことではないのですが、でも表面的に、私たち人間的に見て、わぁすごいな!と、大群衆がすごいなぁ!と思った奇跡は死人をよみがえらせる、そんな奇跡でした。
ラザロがよみがえった出来事で、その時イエスさまは、ラザロが重い病気にかかったことを聞いて、彼の街ベタニアに行きました。しかし、ラザロはすでに亡くなった後でした。彼の姉妹マリアとマルタが、「どうしてイエスさま、もっと早く来てくださらなかったのですか。あなたが来てくださったらこんなことは起こらなかったのに。」と言いました。イエスさまは、「必ずよみがえる。」と、そう言うんですけども、その言葉に彼女たちが何と言ったかと言えば、「やがて私たちはよみがえることは知っています。」でも現実に彼がよみがえるとは彼女たちは捉えることができなかったんです。イエスさまはよみがえりの力を現しました。ヨハネの福音書十一章四十一~四十四節、

『そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」』

素晴らしい神さまのご栄光が、イエスさまのご栄光が、ここに現された記事が書かれています。イエスさまは「ラザロよ。出て来なさい。」とおっしゃる前、何をしたかと言うと、天の父なる神さまに賛美をささげているんですね。この四十一節のカギ括弧の中に、「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」神さまに、「あなたは全ての事ができます。あなたは私たちの願いを聞いてくださることを感謝します!」という賛美の後になさったのが、「ラザロよ。出て来い。」という主の大きなみわざでした。

私たち、これからリバイバルという大きな主の戦いの、ある意味新たな幕が開こうとしていると信じています。その中でもう一度、私たちが心から霊とまことを持って主を賛美して、主を礼拝していく時に、神さまがご栄光を現してくださると信じています。
是非皆さんの日々の歩みの生活の真っ只中に、さらに賛美をささげていただきたいと思います。それぞれの場所に神の国の訪れ、そしてそれぞれの場所に、天のみ国が現される。神の国が来るという事は、主のみ座の到来なのです。それぞれのご家庭に神の国が来た!それぞれの地域に神の国が来た!というのは、そこに王の王である主がお立ちになって、そしてほふられた子羊主イエスさまも共にいて賛美を受け取ってくださる。ですから私たちは賛美で満たす、そんな歩みを日々の歩みの中でさせていただきたいと、心から願う者であります。一言お祈りさせていただきます。