「いやしの翼に」

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいる。」と言うのです。今、本当に患難な時代の中にありますけど、この今の環境をも喜ぶ。そこから主は何をしてくださるかと言うと、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性、そして品性から希望、そしてこの希望は失望に終わることがなく、なぜなら神さまの愛が私たちの心に注がれている、それゆえだということで、この患難な時代の中でも患難をも喜ぶ。「主を喜ぶことはあなたがたの力だ。」とみことばにありますので、喜びを持って進んでいただければと思います。

先週は、コロナが始まった後、初めて、一つの教会からお招きいただいて、ザワメキで奉仕をさせていただくことになりました。実は一度お電話をいただいた時にお断りしました。「私たち、このような状況なので、行くことが難しいのでお断りします。」というふうにお伝えしました。そのようにお伝えしたので、きっともう再びそのようなお電話はないかなと思ったら、また再びお電話を何ヶ月後に頂いて、ちょうどコロナが少しおさまった時に、「どうしても来てください。」とおっしゃってくださったので、意を決してお伺いすることになりました。
その教会は全日本リバイバル甲子園ミッションの時から参加してくださって、以来ずっと月に一度、PPHというのをしてくださっているんですね。「PPHと言ったら甲子園ミッション」という感じだったんですけど、甲子園ミッションの時に、その準備の時から始まった賛美と祈りの時間ということで、PPHが日本中で行われていましたけど、その教会まだ今も一生懸命、月に一回、リバイバルを求めて、日本と世界がリバイバルされて、そして私たちもリバイバルされて宣教に遣わされていきましょう!という、そういったテーマでの集会でした。
朝と夜の集会だったんですけど本当に祝福されて、それぞれ朝はご婦人たち、そして夜は若者たち。入れ替わる感じだったんですけど、すごく大きな恵みでした。その教会、ちょうど、このコロナの中で何が起こっているかということを、いろんなお証しをしてくださったんですけど、なんと新会堂を今、建てているんですね。こんな立派な新会堂が建てられていました。
その教会、行くたびに何か新しい建物が広がっているんですけども、今この新会堂がまもなく完成して、この八月末には受け渡しがなされるというふうにおっしゃっていました。いや~、本当に神さまがこの困難な、患難の中にあっても働いてくださるという、そんな証しを見させていただいて感謝でした。

 この会堂には五百名入ることができると仰っていました。今礼拝何名くらい集われていますか?と聞くと、「四百名集まっている。」とおっしゃっていたので、もういっぱいじゃないかと、そんな思いがありましたけども、でもすごく若者からお年寄りまで、熱心なんですね。一生懸命祈っていました。
早天祈祷会、この新城教会も今、土曜日にさせて頂いていますけど、その教会も土曜日の早天祈祷会、毎週四十人くらい来ていたと言うんですよ。いや、すごいな、四十人の人たちが来て。でも新城教会も今、三十人ぐらい来てくださっていますけど、四十人来ていて、でもその後どうなったかと言ったら、今は八十人来ている!と、そうおっしゃっていました。主に燃えて、この時、主に期待するという、そのような想いを持ってきてくださっている人たちなんだなぁというふうに見えました。
また、その教会、昨年の五月に、その教会から一つの開拓伝道のための教会を派遣したと言うんですね。その教会から十キロほどの所にある場所に教会を建てて開拓伝道。普通、開拓伝道と言うと、使命を持った夫婦が教会を建てる!と言って、遣わされて行くというのが常でしたけど、そこの教会の牧師先生が夫婦で教会を始めることは本当に大変で、何年も何年もゼロで、誰も来てくれなくて、やっと一人来てくれて、そしてだんだん積み上げて、かと思うと問題が起こってという繰り返しであれは本当に大変だから、そこの開拓の教会に三十名遣わそう!という、そういったビジョンが与えられたというのです。だから、「そこに重荷を持つ人!」と言ったら、三十名が集められて、そこで礼拝が始まって、すごく祝福されて、その地域が本当に変えられているということを聞くことができて、とても喜びでした。
そしてその後どうなっていますか?と聞いたら、なんと三十名で行ったのが、今礼拝は五十名で行っていると、そうおっしゃっていました。神さまの恵み、素晴らしいですね。

 そして、PPH、朝と夜だったんですけども、彼らは本当に熱く一生懸命賛美してくれるんですね。賛美チームがこんな感じで助けてくださいました。今回、娘の暁起も一緒に行って、暁起も証しするようにと依頼をいただき、どういうわけか暁起も一緒に行ったんですね。「こんな親からでもこんな素晴らしい娘ができるという証しになるじゃないですか」と、私の友人のスタッフの先生がそうおっしゃっていたんですけども、私たち二人で、ザワメキでこういったスタイルで行くのですが、そこの教会の賛美チームの人たちが一緒に手伝ってくれました。彼ら本当に忠実にザワメキを一生懸命再現して一緒に歌ってくれるんですね。ちょこっとだけ、リハーサルの映像があるでお聴きいただきたいと思います。

これだけですけども、ザワメキ十三の一曲目、「ときの声をあげよ」なんですけれども、それを完璧にコピーしてくださって、そして準備してくださいました。本当に感動しました。その熱さというか、忠実さ、私たちにもそういった部分、欠けている部分はもう一度、燃え立たせていただかなかったらいけないなと、そのように感じた、そんな素晴らしい奉仕の時で、また皆さんにお祈りいただいて支えられて、することができて、本当に心から感謝します。

それでは今日の本題のみことばに入っていきたいと思います。先ほどお読みしたマラキ書四章二節のみことばでしたが、実はこのマラキ書の三章と四章というのは、本当は一つに繋がっていたと言うのです。新改訳はどういうわけか、三章から四章に二つに分かれているという、ある聖書学者がそのように言っておりましたが、三章からこの四章の少しの部分を続けて読みたいと思います。三章十七節~四章二節、

『「彼らは、わたしのものとなる。--万軍の主は仰せられる--わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。--万軍の主は仰せられる--しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』

この十七節の所に、「わたしが事を行う日に、」これは終末の預言的なみことばの一つであるわけですけれども、神さまが事を行われるという、そのような日が来るというのです。それがこの四章一節の、「わたしが事を行う日が来るぞ!」と言って、続けて語られたのが、「見よ。その日が来る。」そのように書かれています。
そしてこの中で、もう一度、四章一節を見ると、途中にこのように書かれています。『その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。』神さまご自身の訪れというのは、素晴らしい祝福と共に、神さまのみ声に従わないと逆に焼き尽くされてしまう、滅びの時となってしまうという、ある意味、恐ろしいことが書かれています。だから私たち本当に主を恐れて歩まなかったらいけないなというふうに思います。すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなってしまう。私たちが焼き尽くされてしまうような者となってしまうことがないようにと、心から本当に願わされます。

明牧師がよく開いていたみことばに、歴代誌第二の七章十四節、ある意味リバイバルの条件、リバイバルの第一条件みたいなことが書かれているみことばかと思うんですけども、お読みします。

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。』

そのように書かれています。『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、』と書かれています。私たち、本当にへりくだりというのが、リバイバルのための第一条件だという事をもう一度、心に刻んでいきたいと思います。
明日は八月九日ですけども、何の日かご存知ですか。私の母、滝元清子が天に帰ったその日です。丸五年になります。そして八月一日が明牧師が天に帰って丸六年という日を、先日迎えましたけども、二人の働きというのは、やっぱりこの新城教会にとって、この七十年間を振り返る時に、本当に一歩一歩、大きな働きをして、ここまで導かれたなぁと思うんですけど、でもやっぱり本当に絶えず祈って、いつもへりくだって主の前に身を屈めていたなと、そんな思いがあります。二人でよくこの会堂の前に来て、跪いて祈っていた、そんな姿を思い出しますけども、やっぱり本当にへりくだって祈り続ける。それが私たちから消え去ってしまったら、やっぱり大変なことになってしまうので、私たちは本当にへりくだりをもって、主に仕える、そのような者でありたいと心から願う者であります。

そして、さらにみことばを学んでいきたいと思いますけども、マラキ書四章二節に戻っていきたいと思います。

『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。』

今日の一番のテーマですけども、私たちが主を恐れるというのは、ある意味、この『わたしの名を恐れるあなたがたには、』これは原文を見ると、「私の名を信じるあなたがたには、」という、そういった意味もあるそうですので、私たち一人ひとり、神さまを信じる人には義の太陽である主イエスさま、メシアであるイエスさまご自身を私たちが迎えることができるんですね。
そしてその義の太陽が上り、その翼にいやしがある。その翼というのは神さまの守りを表したみことばであるわけですが、「翼」というキーワードで聖書を開くとたくさん出てきます。出エジプト記十九章四節、

『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。』

イスラエルの民が出エジプトした時は、二百万人以上という、その多くの人たちもその翼に載せて運ぶほどの守りというのが、神さまの翼にはあるということを見ることができます。

また詩篇五十七篇一節には、

『神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。』

滅びが過ぎ去るまで、私たちはそのみ翼の陰に身を避けます。先ほど読んだ詩篇九十一篇四節にも、

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。』

私たちはこの主のみ翼の陰にもう一度隠していただいて、これからの歩み、どのような戦いになっていくのか分かりませんが、そのみ翼の陰で歩み続けてへりくだって歩んでいきたいと思います。

義の太陽が私たちの上に上るという、その祝福が、これから上り出て行くわけですけども、この「義の太陽」という言葉は、この聖書の中ではたったこの一箇所だと言うんですね。それはメシアなるイエスさまご自身であるということなんですけども、この四章二節にまた戻りますけども、

『わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。』

と書かれています。神さまご自身のその翼のもとに行く時に、私たちはそのいやしを体験することができる。またこの「いやし」という言葉は、原語を見ると、いやしだけじゃなくて、「救い」と、また「解放」、それも含んでいると言うのです。神さまのいやしの翼、その翼のもとに行く時に、私たちは霊肉魂のいやしと共に、また救いが与えられ、そしてあらゆる悪しき者の束縛からの解放を受け取ることができる。ですからその翼の下に私たちは身を避ける、そのような者でありたいと心から願います。