聖霊さまを求めましょう

その後の創世記の記述を見ていくと、人間が増え広がっていく中で、農業、畜産、手工業などの産業が生み出されていくことが書いてあります。また音楽が作られました。祈りや礼拝が生まれたことも書かれています。
 これは考古学的な発見で、おそらく聖書に書かれている最初の文明が現れたぐらいの時代の遺物であります。左の上は亀甲文字という中国の文字で、これで占いをしたであろうと言われています。右側は楔形文字です。メソポタミアのシュメールの文字で、これは数学の計算ノートで、二次方程式が書かれているんじゃないかと言われています。古代にも高度な計算をしていたんだとちょっとびっくりしました。真ん中のは、古いフルートで石器時代のものではないかと言われています。左下は、一番古い人間が描いたであろう壁画です。右下は 古代シュメールの、バベルの塔をモチーフとしたような、これも占星術を行う神殿の復元であります。こういう古いさまざまな文明が人間の歴史の中で誕生してくるわけです。
人間は神さまから造られた時に、この教会でもよく言われることですけど、もともと被造物の管理者として造られました。
その役割を担って、人間が世界を成り立たせている様々の法則を「知る」ことを通して文明が生まれ、文字や暦、絵画や音楽、あるいは数学、哲学、科学みたいな学問、そういったものが発展していくのを見ることができます。
このように歴史の中でなされた人間の知恵の発展、これは、本来は被造物を正しく管理し、神さまの前で祝福されたもの、主を賛美させるものとしなければならなかったのです。
仮に、罪を知らない人の手によって歴史が作り上げられていったとしたら、エデンの園から世界に向けて、その管理者としての役割が果たされていたとしたら、どうなっていたのかと思います。どんなにか輝かしい、主の栄光に満ちた世界になっていたのではないかと思います。
しかし、罪によって主への道が閉ざされてしまった。主から切り離されてしまった。それゆえに、人間の知恵も呪われたものとなってしまい、今の世界は、主の再臨によって再び主の栄光に満ちた世界が現れることを待ち望んで呻いているわけです。
人間の知恵は祝福を失って、土地は呪われて、人は汗水たらして働いても、そこに生み出されるものには、いばらやあざみも一緒に生えたと聖書の中で書かれているわけです。それを回復させるのが今の私たちの使命だということです。

少し話が逸れてしまったんですけど、神さまが造られた世界を人間が「知る」ということを通して、人間の歴史が世界に紡ぎ出されているわけです。世界を解き明かしていくための新しい知恵・知識を求めていく、「知る」ということを突き詰めるための営みが、「生きる」という事だと思います。

もう一つ、聖書の中からお話ししますと、ヨブ記の中で、ヨブは大きな試練を受けました。周りにいた友達たちから「おまえ、隠れた罪があるんだろ。それがこのような結果をもたらしたんだろう。」と責められた時に、ヨブは「いや、自分は潔白だ!」と主張しました。自らの潔白を証明するために、彼は「できることなら神を自分の前に引っ張り出して、神と討論したい、そうすれば神に私の正しさがわかるだろう。」と豪語したわけです。
しかし最後に、神さまご自身がヨブに現れて、神まご自身が自ら創造された世界をいかにすべ治めておられるのか。圧倒的な神さまの知恵をヨブに示されたわけです。「あなたは被造物のこのような営みを私が創造し、また支えていることを知っているのか?」と。「水の源がどこにあるのか。カラスに餌をあげるのは誰か。」主はヨブにとうとうと話されました。
ヨブはその言葉に打ちのめされ、「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし私は今あなたをこの目で見ました。それで私は灰の中で悔い改めます。」(ヨブ記四十二章)といいました。
ヨブの人生はこの後に、神さまから二倍の祝福を受けた。幸せに満ちたものとなったと書かれています。このみことばから教えられることは、私たちが神さまを「知る」ということについて、単に「人間的な教養としての『知識』を得る」というレベルにとどまっていては不十分だということです。人間として道徳を養おうとか、もっと視野を広げようとか、自分の欠点をなくしてより優れたものとなるとか、そういう思いで教会に来て神さまを求めているのであれば、それは不十分であります。
逆なのです。神さまの価値観・世界観を、私たちの価値観・世界観に照らして私たち自身を正していくことです。それが、私たちが教会に集って神さまを信じていく上で必要なことであります。
言い換えると私たちの人生の王座に神さまについていただくということです。自分の生き方に調味料をプラスアルファ、自分が得するためのパワーを与えてもらう、自分の人生がメインで神さまが付け合わせのよう、神さまを通して自分の人生がより豪華なものになる、そういうものではありません。
自分の生き方に聖書の言葉を合わせるというのものではなくて、神さまの知恵を私たちの人生に照らし合わせ、私たちを神さまに近づけていく。神さまご自身によって人生を導いていただく。神さまに私たちの人生をおささげして歩んでいくということが、信仰の歩みの秘訣ですね。

そして、第一コリントの手紙の一章の三十節を見ますと、

『しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。』

これまで「神からの知恵」ということをお話ししましたけど、ここにイエスさまが神からの知恵だと書いてあります。その知恵とは、義と聖と贖いであると。このみことばを言い換えると、十字架の福音であると、言うことができると思います。同じ章の少し前を見ますと、十八節に、「十字架のことばは、滅びる人にとっては愚かであっても、私たち、救いを受け取ったものにとっては「神の力」です。」とあります。そして、「福音は地上の知恵を愚かにさせる神の知恵です。」と言っています。
人間が犯した罪によって神さまに至る道が閉ざされてしまったわけですけど、イエスさまが現れて、イエスさまの十字架によってこの神さまに至る道が再び開かれ、神さまとの交わりが回復された。これが神の知恵だと、ここでは記されているわけです。
詩篇に、「愚か者は心の中で『神などいない』という」と書いてありますが、私たちは神さまを信じることができて、それもそこら辺にいる神々ではなくて、主イエスさまが私たちの救い主であると信じている。これこそ神からの知恵だというわけです。
そして、イエスさまご自身が神からの知恵だと、ここに書かれていますけど、逆に言うとイエスさまによらなければ知恵もない。冒頭に読んだエペソ人への手紙一章十七節の「聖霊による知恵と啓示」もイエスさまによらなければありません。
なぜかというと、知恵と啓示を与えられる御霊は、父なる神さまがイエスさまの名によってお遣わしになると書いてあるからです。

ヨハネの福音書十四章二十六節に、こう書いてあります。

『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』

イエスさまが、弟子たちに最後の晩餐の中で言われたことばであります。「あなたがたに助け主を、聖霊を遣わすよ!」と弟子たちに約束をされたわけですが、イエスさまと共に歩んだ弟子たちにとって、本当の意味で目が開かれて、そして神さまを知った時は、イエスさまと共に歩んだ三年半の期間ではありませんでした。
彼らは直にイエスさまを見ていたのですが、イエスさまが囚われた時、彼らはイエスさまを見捨てて逃げてしまいましたし、イエスさまが十字架からよみがえられた時も、彼らはユダヤ人に対する恐れから隠れ家で怯えていたり、イエスさまと出会ってもよみがえりを疑ったり、見当違いな質問をしたり、そういうことが書かれてあるわけです。
彼らが本当にイエスさまの弟子になったのは、イエスさまが約束された聖霊が下された時であります。ペンテコステの日であります。五旬節の日になって、弟子たちが一つ所に集まっている時に聖霊が激しく臨んで、彼らが聖霊に満たされて異言を語って、その瞬間から彼らは大胆にされて、イエスさまに命がけでしたがって行くことになっていったわけであります
彼らが本当の意味でイエスさまを「知って」十字架の意味を「知って」命がけでイエスさまを証しする者と変えられた。彼らの言葉とか態度とか全て変えられてしまったのです。それまでの彼らは、イエスさまと直に一緒に歩んでいのですが、自分の成功のために、自分が世で名誉を得るために、イエスさまの弟子となっていたが分かります。
その弟子たちが聖霊を受けた時に、イエスさまのために生きる弟子になった。そして彼らを通して、イエスさまの福音が全世界に広げられていくことになったわけです。

聖霊さまの訪れというのは、人生を劇的に変えてしまいます。皆さんお一人お一人の人生の目的がはっきりします。神さまの事を考えて聖書に親しんだり、祈ったり、賛美したり、伝道したり、そういったことが好きになるのです。そして物事に対する見方とか考え方が変わって、イエスさまが見られたように見ようと、そういうことができるようになるのです。
皆さんが勉強に打ち込んだり、また仕事に打ち込んだり、そういったことに対しても新しい気持ちが出て励むことができるようになります。クリスチャンとして生きていくということに誇りを持って生きることができるようになります。聖霊様が来られる時に、神さまが人生の中心になるわけです。
私たち一人ひとりがそういう者へと変えられたら素晴らしいと思います。聖霊さまに触れられるということは、そういう素晴らしい変化を私たちにもたらします。だから、私たちは聖霊さまを求めなくてはいけない。

そして、お読みしたように、聖霊さまは、父なる神さまがイエスさまの名によって遣わされると書かれていました。
だから聖霊さまを求めるのです。最初に知恵と啓示の御霊が与えられると申し上げましたけれど、この聖霊さまによって人生の大変化を受け取るのには、三位一体なる神さまの働きと助けによらなければならないということです。
父なる神さまがイエスさまの名によって聖霊さまを遣わされる。だから私たちは他の何者でもなくて、この神さまを求めなくてはいけない。四元雅也の名前でもなく、他の何者でもない、ゴータマ・ブッダの名前ではなく、マホメッドの名でもなく、他のいかなる名前、手法、知恵によっても、人間的なものによってこの聖霊さまを受け取るということはできないのです。

そして最後に、この節の後に続くみことばですが、エペソ人への手紙一章二十二・二十三節、

『また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。』

信仰生活において、教会生活が長くなってくると私たちは信仰について「もう知っている」という気持ちになってしまって、神さまを求める思いが下火になってしまうことがあるかもしれません。信仰のマンネリ化です。
本当は教会の営みにおいても、一人ひとりの個人の信仰においても、神さまについて「私たちは知っている」と言い切る事は出来ないものであります。でもなんとなく下火になってしまう。「まぁこんなもんかなぁ。」と。祈りも、賛美も、礼拝も、リバイバルも、「こういうものだ」と私たちは決めつけてしまって、神さまをあえてもっと求めようという気持ちが湧いてこない。
しかし「神さまを知る」ことは、一生において完全に到達し得ることはできません。だから人生が続く限り求め続けることが必要なのです。皆わかっていることでありますよね。

だからこそ、私たちは今日も神さまと出会うために教会を愛して、教会に集わなければならないのです。二十三節に、「教会とはキリストのからだ。すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところだ。」と書いてあります。父・子・聖霊、この神さまについて私たちは教会に集ってみことばから深く知って、そしてこの信仰を立て上げていく。さらに聖霊の力をいただいて主を求めていく。そのために建てられた場所が「教会」であります。