「主に感謝するのは良いことです」

 

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

 

という有名なみことばです。「心を騒がしてはならない。」「神を信じなさい。」と聖書に書いてある。そうだ!私はイエスさまを信じてたんだ!当たり前のことですが、その時に再確認しました。そしたら私は、死んでも天国じゃないか。大丈夫だ。イエスさまに任せよう。本当に不思議ですけど、その思い出したみことばで本当に救われました。普通だったら「これが最後です!」と言われ、悪性腫瘍の検査だと知り、その時は放射線の検査でMRIだったと思うのですが、骨の中までの癌が分かるようにという検査で、造影剤を打って、一時間以上待たされて、その後に造影剤が回ったところでMRIにかかりました。普通でしたら私は気が小さい者ですから、待つ時間も、検査中も怖くて怖くてたまらない状況ですが、不思議と至って平安で過ごすことができました。そして検査が終わり、自分の病院に戻ったことを覚えています。

その後、主治医が検査結果の報告を私にしてくれました。何んと主治医が言うには、「何の病気か結局わかりませんでした。」と。「癌もありませんでした。」だから「現時点でもう調べる検査はありません。」と言いました。私は「検査や治療がなかったら、今から退院していいですか?」と聞いて、夕方でしたが退院したことを思い出します。病院から家に帰って来て、大豆の肉じゃなく、本物の豚肉や鶏肉、牛肉を実家の母親にお願いして、作ってもらい食べたことを思い出します。そして実家の二階の和室でしたが、その部屋で休ませてもらう中でも、めいっぱい感謝しました。「今日生きていることを感謝します。」痛みが出たら「痛みがあることを感謝します。痛みを感じられることを感謝します。」熱が出たらそれも感謝して、感謝しまくりました。当時をご存じの方は本当にお分かりだと思うのですが、退院してきた時にはすごく痩せていましたが、でも本当に不思議にその後完全に癒やされました。

何か月か後に病院に受診しました。その時は主治医がお休みで他の医師でしたが「上條さんですか?まだ生きておられたんですね。」と言われるほどでした。結局何の病気か分かりませんでした。しかし確かに言えることは「感謝」という「薬」で私は癒やされました。感謝ってすごい力があるということを知りました。

 

でもそんな中で、私も本当にすばらしい、感謝というのは力があるということを教えられたのですが、しかし今回の私の手術の時、正直言って、感謝という事を全く思い出すことはありませんでした。お医者さんが言われたことを鵜呑みにして、「上行大動脈という血管は成人男性は三センチくらいの血管なのですが、あなたの場合は六センチに肥大している。このままいったらいつ破裂したり乖離してもおかしくない。突然死ですよ。早く手術して直した方が良いですよ」と言った時に、私は先生の言われた事に「アーメン。手術します。」そんな気持ちで手術をしたことを思います。

本当に苦しくて、あの時、今から考えると手術をする一ヶ月間前から牧師でありながら聖書を開くのが嫌でした。読む気がありませんでした。現実を見て落ち込み、不平不満だらけでした。なんで自分はこんな状況になってしまったんだろう。なんでこんな病気で、こんな苦しい手術を受けなければいけないのだろう。また家内も病気があり、看病もできないし、自分までもが看病される身となり、辛い。また主任牧師夫人は、主の奇跡を体験している。しかし自分は手術しなくてはいけない。辛くてたまりませんでした。そんな中主の憐れみと、皆さんが熱く祈っていただいた事で、無事手術が終わり、月日が経ち、自分にほんの少し余裕が出て来て、聖書を読めるようになりました。そしてこの詩篇九十二篇に私は出会って変わりました。

 

皆さん、あなたは毎日何を告白していますか?何をおしゃべりしていますか?今回とっても教えられたことは、主は「告白」をとても大事にしているという事です。告白で人生は変わると言っても過言ではないと思います。

 

ローマ書十章十節に、

 

『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 

私たちはイエスさまを心で信じて、口で「イエスさまは主です」と告白したら救われるとあります。口で告白した時に救われるのです。

 

また第一ヨハネ四章十五節、

 

『だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。』

 

とあります。イエスさまが神のみ子だと告白するなら、私たちの全能なる神、力強い神は私と共にいてくださる。そしてわたしもその中にいると、あります。

 

ヘブル人への手紙十三章八節、有名なみことばで、覚えやすいみことばですが、

 

『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』

 

私は本当に鈍い者で、「三十数年前、感謝したことで私は癒やされた。」そのことを思い出しました。しかし今回全く感謝が足りない。感謝がなかった。感謝を回復しないといけない。と思わされました。しかしいざ感謝しようと思うと、現実を見てしまいます。家内の現状とか、私の身体の調子とかをみて、イライラし、感謝ができないのです。気がつくと不信仰なことばかりを私は告白していました。

三十数年前に病気が癒されましたが、一九九二年新城教会に霊的戦いが始まりました。霊的戦いが始まってただ感謝するだけじゃなくて、やはり暗闇の力に対して対抗しなければいけないということに目が開かれました。エペソ六章十七節、

 

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

 

感謝をさせないようにして来る、暗闇の支配者を知り、悪魔・悪霊に対して戦う武器である神のことば、みことばを「みことばの剣」として受け取り、霊的戦いの祈り、みことばを戦いの武器である剣として宣言する。霊的な武器、剣であるみことばを宣言していく時、圧倒的な勝利をいただくことができる。みことばを告白することは、とても大きな力があることを教えられました。ヘブル四章十二節、

 

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』

 

これはどういう意味かというと、「関節と骨髄の分かれ目さえも」ということですが、今まで絶対に刺し通すことのできない、入り込むことのできない状況の中にあってもみことばは入り込むことができる。刺し通すことができる。そして勝利に導いて下さるという約束のことばです。

ですから私たちはただ感謝するだけでなく、悪魔は私たちが感謝できないようにし向けてきます。目の前に問題や私たちが一番落ち込むことを置いて、感謝できなくさせてきます。ヘブル十一章一節

 

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 

信仰を持つことができないように、問題等を見せて確信を持たせないようにしてきます。しかし私たちはみことばの剣を持って、感謝をできなくさせている暗闇の力に対して戦い、打ち破り、感謝と賛美をささげていくことが大事だということを今日覚えていきたいと思います。

 

今朝の礼拝では素晴らしい賛美をささげました。とても恵まれた時を持つことができました。また映像でしたが、素晴らしいゴスペルクワイヤーの賛美を伺いました。賛美は私たちの口で主を誉め歌い、主を賛美するものです。主を賛美することは否定的な言葉は全くありません。賛美が「この病気は死で終わる。」とか「問題で苦しみます」など賛美することはありません。神を主と認めて賛美するとこと、これこそ信仰です。

ですから、

 

『 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 

望んで感謝するとき、賛美するとき、目に見えない出来事が現実の世界で確実に起こるのです。

 

またみことばを信じて告白する。行うという事には大きな力があります。ルカによる福音書六章四十七〜四十九節、

 

『わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」』

 

岩の上に家を建てるか、砂の上に家を建てるかでは大きな違いがあります。みことばを聞いて実行したら、その人は岩の上にしっかりと土台を置いて、家を建てる人だと言っています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしないとあります。しかし砂の上で、土台なしの家を建てた人は洪水が来ると一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりましたとあります。

みことばを聞いてみことばを行う人とみことばを行わない人は、同じ間取りの家を建てたとして、洪水が来て、川の水が押し寄せて来た時、大変な違いがあります。

 

私たちは感謝すること、賛美することは本当に大きな力であります。暗闇の力に対してみことばで私たちが戦っていく時に圧倒的な勝利を持つことができることを覚えましょう。

 

先ほども言いましたように今回の手術では、私はあまり祈れなかったし、感謝もできませんでした。感謝するという事すら思い浮かびませんでした。

主治医の先生がどんな手術を行うかという事を、一時間ほど説明してくれた時がありました。今の私の上行大動脈がどういう状況か、そのまま行くとどうなるか、どんな手術を行うかなど、分かりやすく私に語ってくれました。医師はどんな手術か、どんなリスクがあるのかしっかり伝えなければならない義務があるため説明してくれました。その時、この手術で亡くなる人は何パーセントありますとか、もしかすると輸血しなければならないなど最悪の場合を話してくれました。私はそれを聞いて非常に暗くなりました。

主は不可能なことは一つもないと知っていながら、医師が語ったことばをそのまま受け入れ、落ち込んだことを覚えています。

 

医師のことばを聖書のことばよりも権威ある言葉として受け入れてしまいました。しかしわたしたちは聖書のことばを土台としなくてはいけません。

 

九十二篇のタイトルは、「讃歌 安息日のための歌」と書かれています。安息日のための歌。これは礼拝するための歌だと書いてあります。主を賛美し感謝する詩ということです。

 

特にこの九十二篇十二〜十四節、

 

『正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。』

 

この『正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。』と書いてありますが、私は今回なつめやしとレバノンの杉を調べてみました。

なつめやしとはこんな木です。なつめやしの特徴は200年以上という長い樹齢にあると言われています。長寿は神様の祝福の象徴です。なつめやしは優美と勝利、祝福の象徴とされている。私たちもなつめやしのように主の庭に力強く立って豊かな実を実らせたい。とありました。

 

 

 

 

そしてレバノンの杉は写真の通り大きな大木です。レバノン杉は古代エジプトでも王宮や館などに使われており、真っ直ぐで通気性も良く、船の材料として使われる。レバノン杉はやしの木に比べ成長が遅く、ゆっくりと幹を張っていきます。成長したレバノン杉の枝には鳥たちが集まり、その影で憩います。これらの木を正しいものの成長の比に使い、レバノン杉のように多くの枝や幹を張り、動物が憩う様子が思い浮かびます。とありました。