「主の導きの道を歩む」

 

イスラエルの人々は、エジプトにおいて四百三十年の奴隷生活を強いられていたわけですが、そんななかで、神さまはモーセを通してイスラエルの民に次のような約束を語っています。

 

『それゆえ、イスラエルの子らに言え。「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。」』(出エジプト記六章六〜八節)

 

イスラエルの民に対して神さまは、奴隷生活から解放し、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったカナンの地を所有させるから、信頼してわたしに従いなさい、と何度も何度も語っています。しかし、イスラエルの民は、その言葉を信じきることができませんでした。そして、エジプトから助け出されたとき、直線で行ったら二~三週間で行けるような距離を、結果的に四十年間さまよったのです。もちろん荒野で生まれた子どもたちはたくさん入ったわけですけども、エジプトから出た者でカナンの地に入ったのは、たった二人だけでした。

先週は、開先生が「カナンの地を勝ち取る。カナンの地をあなたに与える」というみことばをいただいたと語られましたが、私たちが主に信頼し、主が成し遂げてくださると信仰持って前進していくなら、約束の地、カナンの地を得ることができると信じています。

 

今、日本や世界の状況を見て、人々は、これからどうなるのだろうと心配をしています。ニュースなどで、政治家や医療従事者、さまざまな専門家がいろんなことを言っているのを聞いても、何が正しいのかわからなくなります。結果がどのようになるかというのは誰もわかりませんし、予測すらできないような状況です。ある意味では、長いトンネルの中に迷いこんで、「真っ暗でどこにも光がない。いつになったら出られるだろう、どこまでいっても出口がない」と、イスラエルの民同様、さまよっているような状態ではないかと思います。

そんなときに「この道が絶対に正しい。これを選択したら間違いない」と言ってくれる人がいたら、そのことが本当に分かっていて真実を語ってくれる人がいたらどんなに心強いか、と多くの人は思っていると思います。

 

話は少し変わりますが、私は野球が好きで、時々テレビで見たり、ラジオを聞いたり、新聞で結果を見たりもします。野球に興味のない人でも、大枠のルールはご存じなのではないかと思います。

野球は九回で争われますが、例えば、最終回、九回の裏 二アウトで、あと一アウトで試合が終わるという状況の中で、自分のチームが一点負けているとします。一人がヒットを打って二塁まで到達し、次のバッターが、センター前(二塁ランナーがいる後ろ)にヒットを打ちました。そうすると、二塁ランナーは走っていって、三塁で止まるか、それともホームまで走るべきか迷います。もしホームに到達できたら同点になりますが、失敗してアウトになれば、その時点でゲームセット、試合は負けで終わってしまうわけです。

三塁で止まるべきか、本塁まで突入すべきか、ランナーは球が今どこにあるのかわかりませんから、判断に困ります。そのときにどうするかというと、一人の助っ人がいるのです。それは三塁に立っている自分のチームのコーチです。三塁コーチが、この二塁から走って来る人を見ながら、その人の足の速さ、打球の飛んだ方向や位置、そしてそれを捕った外野手の肩の強さなどのデータを瞬時に自分の頭の中で整理して、「この状況だったらホームまで行ってもセーフになる」と思えば、「ゴー!」というサインを出すのです。でも、「いや、ちょっとスタートが遅れた」、「返球が早い」と思ったら、三塁で「ストップ」をかけるのです。この状況の中では、この三塁コーチに勝敗の責任がかかってくるということです。でも、実際には、三塁コーチが「ストップ!」と言っても、指示に従わず暴走する人が時々いて、アウトになってしまったり、反対に、セーフで同点にすることができたりすることもあります。いくら三塁コーチといえども、結果はわかりません。これは野球のゲームでのことなので、負けることも、勝つこともあります。

私たちの日常生活の中でも、迷うことが多々あるかと思います。「どうしようかな」というときに、皆さんは誰かに相談すると思います。そうすると、ある人は「右だ」と言い、ある人は「左だ」と言う。また、「進め」と言う人と、「今は止まるべきだ」と言う人がいるかもしれません。家族や友人、いろんな人がよかれと思い、自分の考えでアドバイスをしてくれます。でも、誰の指示が的確なのかということは、結果を見ないと分かりません。私たちは明日のことは誰も分からないのです。

三塁コーチとイエスさまを同格に置くのは、イエスさまに失礼だと思いますが(笑)、私たちクリスチャン生活の中では、神さまはこの三塁コーチのような方です。そして、三塁コーチよりさらに的確な指示を出してくださるのが神さまなのです。神さまは、私たちの性格や髪の毛が何本あるかさえも、全部を知っていてくださるお方です。私たちには明日のことは分かりませんが、明日のこともすべてご存じの神さまが、「ゴー!」なのか、「止まれ!」なのか、「右」なのか、「左」なのか、「これが道だ。これに歩め」と指示をしてくださいます。神さまはその時点で、私たちが「どうしたらよいのか」ということを百パーセント分かっていますから、その神さまに従うなら間違いはないということです。

このように、神さまは一人ひとりに語ってくださいますが、誰かがあなたを「○○さん!」と呼んでも、うるさい雑音がある場所では聞きにくかったり、あなたが耳をふさいでいたりしたら、いくら呼ばれても聞こえないですね。耳を澄ましているとよく聞こえるのと同じように、「いつ神さまが語ってくださるだろうか」と期待感を持っているかどうか、それが、聞き取れるかどうかの大きな分かれ目だと思います。

しかし、「今まで私は一度も神さまの声を聞いたことない」と言われる方がいるかもしれません。でも、だからと言って心配しないでください。語られる方法はそれだけではないですね。ある人にははっきりと、声として聞こえるそうですが、聖書を読んでいるときに、みことばから語られることもありますし、祈っているとき、またメッセージを聞いているときに、気づかされることもあります。人を通して教えられることもありますから、そのことを皆さん、ぜひ覚えておいてください。

そして、霊的な部分もあります。サタンはいろんな雑音を皆さんに送ってきて聞こえないようにしたり、神さまが「右を選択しなさい」と言っているのにもかかわらず、サタンは、「いや、右は危ないよ、左のほうがいいよ」とささやいてきたりするのです。霊的に整えられていないと、神さまが皆さんに語ってくださってもサタンに奪われてしまいますから、まず戦いの武具をしっかりつけることも忘れないでいていただきたいと思います。

この一月には、実際には年末から「宣教七十年の満ちた祈祷会」として、聖日の午後に祈祷会を県民の森で行い、聖餐式も行われています。私も年末から三週続けて参加させていただいています。皆さんで共に賛美し、聖餐式をすると同時に、個人祈祷のときもあります。開先生と山に登る人たちもいますが、私は年寄りですから、ゆっくりと歩きながら、神さまにみこころを求めて祈る 時を持たせていただいています。大変恵まれていますので、ぜひ皆さんもご参加いただきたいと思います。しかし、そこに参加できない方も、私たちはどこであっても祈ることができますから、静まって御声を聞いていただきたいと思います。

 

そして第三番目に、「神さまとともに歩む未来」ということを学びたいと思います。この新しい年、二〇二一年も、神さまはいつもあなたに祝福を与えようとされています。

 

イザヤ書三十章十八節には、

『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。』

 

とあり、主を待ち望むあなたに対して、『あなたを恵もうと、またあわれもうと、主が立ち上がってくださる』と書かれています。

 

また、詩篇百十九篇百五節にあるように、

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』

 

主は、私たちがつまずくことがないように、倒れることがないように、私の足もとをみことばによって照らし、いつも私たちを最善の道に導いてくださる神さまです。

主が語られているナビゲートを、しっかりと受け止めていくことこそが祝福への最大の近道です。神さまの計画が何であるのかを知り、なぜ自分が選ばれ、この場所にいるのか、そして私たち一人一人がどこまでも神さまを信頼して、神さまについていくなら、祝福された未来が開けていくわけです。

 

今日のみことばは、『あなたの耳はうしろからこれが道だ。これに歩め』(イザヤ書三十章二十一節)ですが、主は、強制的にあなたの行動を制御するのではなく、私たちが迷っているとき、岐路に立たされたとき、あなたのうしろから、優しく肩をたたくように、「今は右に行ったほうがいいよ」、「今は左を選択すべきだよ」と、私たちに語ってくださいます。さらに、私たちが主を待ち望むなら力が与えられます。

 

『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

 

(イザヤ書四十章三十一節)のです。

 

目の前が真っ暗闇のような状況であったとしても、あなたは神さまによって力が与えられ、そしてこの二〇二一年を走り続けるだけの力、霊的にも、肉体的にも、体力も与えてくださるということを信じて、進んでまいりたいと思います。

ですから、私たちは主を待ち望み、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろからこれが道だ。これに歩め』と、教えてくださった道をしっかりと受け止めて歩んでいくことができるようにと願います。これから祝福されるかどうかは、主の語られた御声に従順に従うことができるかどうかにかかっているかと思います。

 

二〇二一年、この教会においては七十一年目、順先生がイザヤ書四十三章から語っておられるように、今年は「回復と再建」の年となることを信じます。まだまだ戦いは続いていきますが、状況がどうであったとしても、神さまが導いてくださる道に従い、新しい扉を開き、主のわざを現してくださると主に信頼して、また期待して(期待のないところに結果は現されませんので)、進んでいきたいと思います。主は必ず祝福してくださる、必ず恵んでくださいます。

 

お祈りいたします。

 

愛する父なる神さま、み名をあがめます。今日こうして共に礼拝を持つことができたことを心から感謝します。会堂に来られたお一人おひとりを、またインターネットで礼拝をささげているお一人おひとりを、今日まで守り導いてくださったことを心から感謝いたします。この二〇二一年、私たちが神さまの計画を知り、そしてどこまでも主を信じ、主に信頼して従っていくことができますように。そのときに新しい扉が開かれ、回復と再建の年になることを信じます。そのために一人ひとりを使ってください。一人ひとりの賜物を用いてくださって、それぞれがそれぞれの役割を果たすことができるように導いてください。そして、主のみこころを現すために、私たちが疲れることなく、この一年、走り続ける霊的な力、体力も与えてください。大いなる恵みの年、祝福の年となりますように、すべてのことを主のみ手に委ね、感謝して、主のみ名によってお祈りいたします。アーメン。