イエスの死による勝利を受け取ろう

2022年5月8(日)新城教会牧師 四元雅也

ヨハネの福音書11章25・26節
『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日はゴールデンウィーク最終日です。今年はコロナの行動制限が二年ぶりに解かれたということで、日本各地で多くの人出があったようで、人の心も少し解放されて、もちろん感染対策を心がけながらなのですが、帰省したり旅行に出かけたり、お休みを自由に楽しむことができた人が多かったようです。明日から現実の世界に引き戻されて生活が始まっていくわけですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

この連休、教会でもさまざまな活動があって、リバイバルミッションの集会もありましたし、先週はこの教会に来ておられるブラジル人カップルの結婚式もありました。また子ども会でも、一日スーパーホサナクラブで、楽しくて素晴らしい集会が持たれていました。
また、皆さんにもお祈りしていただいたのですが、昨日、ヘブンズカフェ&アイスクリームがCBCのテレビ番組で取り上げられまして、早速、昨日の午後からお客さんが多くお店に来られて、アイスクリームを喜んで食べておられたようです。
こういった神さまの祝福が見られて、この教会も、世間とは違う意味でゴールデンウィークだったのではないかなと思って、主に心から感謝します。

そして、私事で恐縮なのですが、この礼拝の後、私の長男が婚約式をあげます。お相手は先月の十日にバプテスマを受けられたS姉妹です。今日は姉妹のご両親をはじめ、お兄さん、おばさん、そしておばあさんが礼拝に参加してくださっています。ぜひ皆さん、この礼拝の後、歓迎していただけたらと思います。
私たちは神さまにあって兄妹姉妹と互いに呼び合っております。神の家族だと聖書に書かれております。神の家族が増えるという事は嬉しいことですね。今後の祝福のためにもお祈りをいただけますと感謝です。
そして今日、たまたま私がメッセージの当番だったのですが、このような祝福の中でお話しする機会も与えられて、本当に嬉しく思っています。ちょっと緊張もしていますが。

ところで、最近の礼拝では、「イエスさまの死」というものに焦点を当てて、お話がされております。先週の礼拝は順牧師がメッセージをされましたけれども、「十字架の死による大勝利」というタイトルでした。
今日の僕のメッセージタイトルは、「イエスの死による勝利を受け取ろう」ということで、タイトルを見るとあまり代わり映えがしないなということになります。先週のメッセージのパートⅡみたいな話になるかもしれません。
先週のメッセージでは、私たちの信仰生活に生かすことができたら素晴らしいことが語られていました。ぜひ、皆さん家に帰ったら、もう一度先週のメッセージをホームページ等で確認されると良いと思います。今日もその一部を振り返りつつ、お話ししたいと思っております。

話が変わるのですが、先週ご報告がありましたように、H兄弟が四月二十五日に、九十八歳で亡くなられて、そして二十七日に昇天式が行われました。
そして二十九日には、報道もされてご存じかと思いますが、小坂忠さんも召されて、また先月は十四日の日だったと思いますけど、ロン・ブラウンさんも天に帰られて行きました。

そして三週間前の四月十七日、この日に復活祭の特別な礼拝がありました。この日はイエスさまの死と復活に光が当てられ、イエスさまが約二千年前、十字架の上で死なれて、そして死の力を打ち破って、三日目によみがえったことを記念して、私たちもイエスさまと同じように復活する者である。そしてイエスさまによって永遠の希望が与えられたことを主に感謝する、そういう特別な日でありました。世界中のクリスチャンによってお祝いされている日であります。キリスト教の信仰において最も大切な教理がイエスさまの復活であると聖書の中に記されています。
新約聖書の第一コリント十五章三節〜八節をお読みしたいと思います。ここにはパウロが宣べ伝えていた「福音の奥義」が記されています。こう書いてあります。

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。』

この箇所では、十字架の死からよみがえられたイエスさまが、よみがえられて後、多くの弟子たちの前に姿を現されたという証言が書き記されています。
この聖書記事を書いたのは使徒パウロでありますけど、イエスさまは彼の前にも復活の主として現れました。この復活は私たち全人類が死の恐怖から解放され、新しい命を受けるために成し遂げられた「現実の出来事」だということがここで述べられており、それを証言する証人がこの時代にたくさんいたということです。

ヘブル人への手紙二章十四節・十五節を見ますと、このように書かれています。

『そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。』

そして、ローマ人への手紙八章十一節、

『イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。』

ここにも、イエスさまが成し遂げられた死と復活について述べられており、そして、これを信じる者が何を受け取ることができるのか。この死と復活が何をもたらしたのかということについて書いてあります。それは信じた者にとっては、死というものは永遠のいのちへの通過点だというわけです。そしてもはや恐怖をもたらすものではなくなった。そしてイエスさまを信じて先に天に召された方、先ほども何人かの方の名前をあげましたけども、そういった方たちは、今はもうやすらぎの中にある。そしてもう一度再会することができる。私たちもイエスさまと同じように復活をする。そういう望みについて書いてあるわけです。ですから私たちは死を悲しむ必要がない。これは本当に素晴らしい恵みであります。

先ほど少し触れました復活祭の日には、毎年、「召天者記念会」といって、天に召された方の記念集会が持たれています。この集会では、この教会で先に天国に帰って行かれた兄妹姉妹の写真がスライドで紹介されます。新城教会は七十二年の歴史があるのですが、その中で百三十人ぐらい天に帰って行かれました。
近頃では毎年何人かの兄妹姉妹が地上の歩みを終えて天に帰られます。私の信仰生活も四十年ぐらいになりますので、知っている方も結構多くて、写真を見ると思い出がよみがえってきます。
一年ほど前に、皆さんご存知だと思うのですが、M兄弟が天に召されました。その召天式の折に、いろいろ生前の様子とか、写真が紹介されたりする時間があったのですが、一つの動画が紹介されていました。たぶんMさんが召される数日前に撮られたものだと思うのですが、その中でMさんは床について、苦しい状態であったかと思うのですが、娘さんが看病されていまして、スマホを向けながら、こんなふうに言いました。
「お父さん、何か英語で喋ってみて。」Mさんは英語を習うのが好きだったようで、そうするとMさんはニコッとしてちょっと戸惑って、「英語で?」と、はにかみながら話された言葉を忘れることができません。それは、「アイムベリーハッピー!」(私はとっても幸せです)という言葉でした。それが動画で紹介されて、本当に感動的だったのを思い出します。
一般的なお葬式では、明るいことを言うとか、みんなで歓声を上げるとか、そういった行為はあまり良くない、むしろみんなで一緒に悲しみましょうというのがある意味美徳のような所があるかもしれないです。でもMさんの召天式はみんなで救いを喜んで、主に歓声をあげるというような時もありました。本当に印象深い召天式でありました。

召天者記念会のスライドの中では、いろいろな方たちの写真が出ていたのですが、滝元明先生や、清子先生の写真も出ていました。明先生は二〇一五年に召され、清子先生は二〇一六年に召されていきました。
また、清子先生のお母さん、斉藤栄子姉妹の写真も出ていました。姉妹が召されたのは一九九二年でありました。姉妹が、たぶん九十代で召されたと思うのですが、彼女が召された時の最期の言葉も忘れることができません。
彼女が息を引き取る前に語った最期の言葉は、「勝利は我がもの。ハレルヤ!」で、語ってすぐに意識がなくなって天に帰って行かれました。クリスチャンというのは、やはり死ぬ時にも神さまの素晴らしさを感じながら、平安のうちに最期を迎えることができる。すごいなぁと思うわけです。
教会ではお葬式も素晴らしいものです。先日のH兄弟の召天式も神さまの恵みに満ちたものでありました。

私の祖母は、私が小学生の時に病気で亡くなりました。彼女はその時、死の準備ができていなかったようです。彼女の最期は、ベッドの上で死の恐怖におののいて、「助けて!」と救いを求めて泣き叫んでいました。彼女の宗教は日本人の一般的なものでありました。周りにいた家族みんな、私も含めて、何とかしてあげたくて、「大丈夫だよ!私たちがいるよ!」とか、声をかけて、手を握ったりして、本当に何とかしてあげたいと思ったのですが、おばあちゃんを前に、誰も何もしてあげることができなかった。彼女の恐れを和らげてあげたかったのですが、それができませんでした。
私も、当時その場所にいた周りの者も皆、クリスチャンではなかったので、ただ無力さを感じながら寄り添ってあげる事しかできなかったのを今でも覚えています。だから私はクリスチャンのあっぱれな最期にいつも心動かされるわけです。

死はその霊が地上の肉体を離れて、霊の親である神、イエス・キリストの所に召されることであります。そしてイエス・キリストの再臨によって復活するための準備だというわけです。
そのお別れは、天国で再会するまでの一時の別れ。残された遺族とか、関係者の方には寂しい別れでありますけども、しかし死そのものは悲しいことではない。そのように私たちは信じることができる。本当にこれは素晴らしいことだと思います。

イエス・キリストは、二千年前に実在した方で、そして神が人を救うために世に来てくださった方だと言うわけです。イエスさまがこのように語りました。冒頭にお読みしたヨハネの福音書十一章二十五節・二十六節です。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』

死んだらどうなるのかということについて、多くの人はあまり真面目に考えようとしないのではないでしょうか。若くて元気な内に、そんなことについて思いを巡らすと気を病んでしまう、ナンセンスだと。それも無理もないことかと思います。死について真面目に考えると、多くの人は混乱してしまって元気をなくしてしまいます。若い内は生きる力が強いから、死ぬのはまだまだ先だと思って強いて忘れて、生きることのみ見つめようとするのではないかと思います。
なぜ死について真面目に考えることをしないのか。それは「生きる」ことと「死ぬ」ことをどう理解するのかという点で、私たち日本人の一般的な価値観は曖昧で、結論など到底出てこないからではないかと思います。
日本人は矛盾をそのままにして良しとするような国民性があるのではないかと思います。「和を尊ぶ」という言葉もありますけれども、日本人の精神性をとてもよく表している言葉ではないでしょうか。
「和」の精神の中には、「個人においては正義でなくても、全体の和が保たれるなら、それは善である。」という哲学があると思います。そこにあるのは、「正義」と「善」とが相反する矛盾です。個人においては正義ではない。でもそれで全体が丸く収まるならば、「正義」ではないけれども「良し」とするという、曖昧な考え方です。
生と死についても同じではないかと思います。多くの日本人は、死んだら全て消えてなくなってしまうのか、別の生き物に生まれ変わるのか、浮き世を漂う霊になるのか、それとも墓や仏壇の中にいるのか、はたまた地獄や極楽にいるのか、はっきりと分からないです。
「先祖の霊になる」という考え方がありますけれど、場合によってある時は守護霊、またある時は祟りの霊というふうに、どちらが本物なのかよく分からない。
さらに、「供養すれば浮かばれる」と言われたりしますけが、その仕方とか態度とか、人それぞれでどれが正しくて、いつ浮かばれるのか、はっきりしない。
そしてこういうたくさんある観念が、その中のどれか一つを取って、「これを信じます!」と決めてやっていくのではなく、複数、あるいは全部混同されて、漠然と受け入れられてしまっているというのが、日本人の死後の世界の理解ではないかと思います。相反する観念というか、互いに矛盾して両立し得ない、そういうものでも、例え「なんかおかしいなぁ、なんか矛盾しているんじゃない?」と思ったとしても、考え出したら整理がつかなくて混乱してしまうわけです。
だから元気なうちは、「死んだら全て消えてなくなる」と考えて片付けたりするのですが、さあ自分が死に臨むという順番が来た時、本当にそう信じきれる人がどのくらいいるのでしょうか。
私たち人間は、「生きる」という事に意味を持つことを必要としています。何のために生きているのか、という問題の結論を私たち人間は探し求めて生きています。同じように、死ぬことについても意味を持つことを必要としているのではないでしょうか。
私たちは何事においても、「無意味を良し」として受け入れることはできない、そういう生き物でないかと思います。だから、「死んだら全て消えてなくなって終わり!」という観念には、本能的に違和感があるのではないかと思います。
こういう思考の中をぐるぐる回って行き来しても、真実に至る道にはたどり着けず、答えは出ないのです。そして、そういう人は「死を恐れる」のだと思います。