「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」

だからと言って、「神さまからの恵み・祝福など必要ない!」というふうに逆の極端になってしまったらそれもダメです。それは傲慢です。「神さまの恵みは必要ありません!」そのような姿勢は正しい態度ではないです。

 

正しい姿勢とは何かと言うと、一言で言うと「感謝」だと思います。「私たちには神さまの恵みが必要です!一生懸命歩んで努力して、なお足りないところを神さまは満たしてくださる。恵みを与えてくださる。その神さまの恵みを必要として生きているからこそ、神さまが与えてくださった恵みに対して感謝する。神さまがいらっしゃらなければ私はない。主の恵み・祝福そのものがなくてはならないものである事を心底から認めて、主への感謝と共に神さまに頼って生きていくことが、クリスチャン生活だと思います。「自分の存在全てが主をほめたたえるように」と。

 

そして「感謝する」「喜ぶ」こと、神さまが成してくださった恵みのゆえに主をほめたたえる態度、これは聖霊さまの助けによって私たちに与えられるものです。

聖霊さまの働きの最も根源的なものは何かと言うと「喜び」です。『神の力は飲み食いではなく義と平和と聖霊による喜び』だと書いてありますが、これを知らない人は、本当の意味で主の恵みを知って感謝することができないのではないかと思います。

一年を顧み、一週間を、一日を顧みて、私たちは神さまが共にあって恵みを注いでくださっていることを覚え、感謝をささげなければならないわけですが、それは聖霊さまの働きによって行うことができるのです。

皆さんが今与えられている命のゆえ、それぞれのご家族や周りの環境、自分がいる立場、そしてあなたの健康のゆえに、また、もしも病のただ中にあったならば、その辛さの中にあっても、なお少しでも感謝できる事を探して感謝してみていただきたいと思います。みことばにあるように『全てのことにおいて感謝』してください。それはあなたの信仰の告白、証しの言葉でもあるということです。

 

さらに、詩篇一〇三篇三節から五節を見ると、主が私たちに与えてくださる数々の恵みについて書かれています。

 

『主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。』

 

この三節からのみことばでは、私たち人間にとって最も大きな不幸をもたらす三つのものがあげられています。それは『罪』『病』そして『死』であります。

罪がある時に、病がある時に、そして死を目の前にする時、人間は恐れます。神さまは「すべての咎をゆるし、すべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖われる。」と仰ってくださいます。

これらは、この歌を歌ったダビデ自身が抱いていた恐れでもあったと思います。ダビデの人生については、ご存知の方も多いと思いますが、サムエル記とか歴代誌に書かれています。実に彼の人生には、罪ゆえの多くの苦難があり、死への恐怖があり、そして、聖書には書かれていませんが、恐らく、病にもかかったんだと思います。しかし、神さまはそこで彼を守ってくださり、これらの恐れから彼を救い出されたわけです。聖書に書かれている通りです。

そして、詩篇一〇三篇に書かれている言葉は、神さまが神を愛する者をこれまで導いてくだり、それゆえ、これからも導いてくださるに違いないという、過去に対する感謝であり、将来への信仰の告白であることを見ることができます。

五節に、『あなたの一生を良いもので満たされる。』と書いてあるように、過去に対する感謝とは、将来へと繋がっていくわけです。

私たちは人生の中でいろんな不安を覚えたり、『すべて良くしてくださる』と言われても、到底そのようには思えないような辛い事もあると思います。

また今現在、その辛さの中にある方、未来に対して大きな課題を持っているという方もいらっしゃるでしょうし、また心に痛みを持っておられるという方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、覚えていただきたいことは、繰り返しになりますけれども「今あなたがここにいることは神さまの恵みである」ということです。

そして、今日まで導いてくださった神さまが明日からも必ず導いてくださると「告白していく」ことが大変重要なことです。

 

私たちは、とかく不足なものに目が奪われがちで、心が苦しみによって覆われてしまう弱さがある、そういった者です。祈っていても、「主に感謝せよ!主をほめたたえよ!」というよりも、主への嘆きの方が出てきてしまう、そういう者です。

もっとも、それは決して悪いことではありません。神さまの前では嘆きをぶちまけてもいいのです。むしろ神さまの前だったら、近しい人にも言えないような、隠すことのできない心底からの嘆きを打ち明けるということは、結構な事です。神さまもそれを受け止めてくださるし、それを望んでくださっていると思います。

 

新城教会におけるこの二年間もある意味で、私たちの心の底にある嘆き・うめきを神さまの前に絞り出すような、そういう時だったかもしれません。これも神さまとの親しい関係があるからこそできるわけです。

考えてみれば、神さまというお方は、王の王なるお方です。我ら全人類ばかりか、全被造物の君なるお方、聖なる畏れ多いお方であるわけです。そんな高貴なお方だったら、本来だったら声をかけるどころか、顔をあげて仰ぎ見ることさえも畏れ多いことかもしれないです。

そんな神さまに対して、ましてや私たちは罪人ですから、普通だったら声をかけるどころか、イザヤ書でイザヤが主のみ座の前に立った時に、あまりにも畏れ多くて「ああ!私はもうだめだ!」と思わず叫んで、神さまの圧倒的な臨在の前で打ちのめされて死んだようになった、そんな者であるわけです。

それでも私たちがはばかられずに、神さまの前に、聖書に書かれているように、「アバ父よ!」と、「私のお父さん!」と自分の肉親に対して叫ぶのと全く同じように叫んで、包み隠さず自分の心のままに、神さまの前に出ることができる、これは大きな恵みであります。私たちは天の王様に対して、いつでも直訴できるわけです。

これはひとえに、神のみ子イエスさまが十字架の上で成し遂げられた私たち全人類のための罪の贖いのみわざゆえです。

先週もお話しされていました、聖書が告げる愛は四種類あって、その中で神の愛として書かれているのはアガペーだと。イエスさまが十字架の上で私たち全人類のために現してくださった愛は、何の取り柄もメリットもない、罪を犯して迷い出てしまった人類と、人類の罪のために呪われてしまった被造物を贖うため、神の子が命をかけて救い出してくださった、無条件の愛、これがアガペーです。イエスさまの十字架があったから、神の前で罪深い私たちでさえ、イエスさまを信じるだけで、天の王の前に受け入れられ、イエスさまと同じように、「神の子」という新しい立場を与えられて、その証しとして聖霊さまを受け、聖霊さまによって「アバ父よ!」と呼びかけることができる。父なる神さまと親しい関係を持つことができるようになる。こんなすばらしい恵みは、世界にただ一つなんです。これに勝るいい話は世界中どこに行ってもないのです。

使徒の働きの四章十二節、

 

『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。』

 

クリスチャンになることは、このような素晴らしい神さまの愛について知って、これが私のために与えられているのだということを、事実として受け入れることです。

神さまは目には見えません。しかし確かに存在しておられます。そして祈りに応え、私たちの命を守って育んで、良いもので満たしてくださる、そういうお方であります。

「良いもので満たす」というふうに書かれていますけど、この「良いもの」とは何かと言うと、クリスチャンになった途端に、常に当たりくじを引き続け、やることなすこと自分の周りが全部自分の都合のいいように回りだす、人生お花畑のような状態になる、ということではありません。

神さまに信頼し、全ての事のうちに神さまの計画を認める、ということです。神さまは天地を造られて、私たちが生きるすべての環境、この世界を整えられました。すべてが神さまによって始められて、私たちの命も神さまが創造してくださいました。そのような神さまは、天と地を無造作に造ったわけではなく、ちゃんと調和のとれた素晴らしいものとして造られたと書いてあります。神さまは無計画な神さまではなくて計画を持っておられる神さまだと聖書を見ると知ることができます。

そんな神さまが私たち一人一人に望んでおられる道を探し求め、日々歩いて行くことがクリスチャンの人生です。神さまが全部お膳立てして、全部当たりくじ、全部自分が得をする、というのではなくて、私たちが日常に起きてくる様々な出来事、良いことも悪いと思われることもある、嬉しいことばかりじゃない、労苦や苦痛、困難、そういったものもある。

しかしそこに意味を見出してあなたという人間を作り上げるパーツに、そのような苦しみさえも主の計画を求め、それを掴んでいくときに、あなたの人生を組み立てるパーツになっていく。

そういった主のみこころを求めて小さな積み重ねを続けていくことを通して、後に豊かな実が結ばれていく。あなたに起きた全ての事が意味を持ち有益なものとされていく。これがクリスチャンの人生であります。

神さまは世界を造られて歴史を始められた方です。神さまにあって存在している世界そのものが、存在する意味を持ち価値を持っているわけです。そして私たち一人ひとりも神さまの前に価値ある者、大切な存在だと言われているわけです。私たち一人ひとりの人生には意味があって、神さまの計画があるという事を今日改めて覚えていきたいと思います。

 

そして、私たちが神さまの前で、自分に起きている全ての事柄について包み隠さず打ち明け、時には嘆いて、うめいて、神さまに全部明け渡し、導きを求めていく、そういう態度は大切であり神さまが受け入れてくださるということをお話ししましたけども、それは私たちが神さまを信じる信仰の片方の面です。

もう一方は何かと言うと、そのような様々な困難に遭遇したとき、目の前にある現状に対して信仰を働かせて前に進んでいくということです。神さまが全て良いもので満たしてくださるという告白は、この信仰の表れであります。

 

この十月から十一月にかけて、新城教会では一つの区切りがあって、新たな一歩が踏み出されました。このような時、詩篇一〇三篇をもう一度読んで、その意味するところをもう一度深く学ばせていただきました。

 

これでメッセージを終わりにさせていただきたいと思います。

これからの新城教会は、これまでに起きた困難とか試練が栄養になって、そして平安な義の実が結ばれる時が迎えられていくということを信じていきたいと思います。

ヘブル人への手紙の十二章には、様々な訓練はその時は喜ばしいことではないけれども、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実が結ばれる、という事が書いてあります。私たち一人ひとりが、この時、神さまの前で感謝をささげると共に、神さまへの新たな信仰、そして神さまに従っていこう!そういった思いを新たに受け取って、それぞれの歩みの中で、主のみこころを受け取り、ゆだねられた役割を果たし、やがて、神さまがこの地に再び来てくださり神の国がこの地に現される、その時を早めて行くことができるように、主に従い通し、働いていきたいと思います。

 

これで私のメッセージは終わりにさせていただきます。最後にお祈りをおささげします。

 

ハレルヤ、天のお父さま。心から感謝いたします。今日は詩篇の一〇三篇、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」というダビデの告白から学ぶことができたことを心から感謝いたします。

私たちは時として苦しみの中に、試練の中にあります。しかしその中でこそ主に信頼して歩んで行く時に、すべてが益とされ、良き実が結ばれるという祝福が与えられることを感謝いたします。そのことを私たちは信じ、信仰の告白として祈り、また人々に証しし、また前進し続けていく者となることができるように祝福してください。