手当たりしだい
『わたしを覚えて、これを行いなさい。』

とあります。ここで「みことばを実行する人になりいなさい。」「みことばを実行しなさい。」とあります。続けてルカによる福音書五章一節〜七節をお読みしたいと思います。

『群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。』

ここでペテロはイエスキリストの言われたことばを実行しました。夜通しゲネサレ湖で漁をし、何の収穫もなかったペテロたちは、徹夜して漁をして疲れ果てた状態で、網を洗い、網を繕って、片付けようとしていました。彼らは漁師でした。魚がいつとれるか知っていたので、夜に漁に出かけました。ゲネサレ湖は彼らにとって庭みたいな漁場でした。そんな専門家である彼らが夜通し働いても何も収穫がなかった。そんな状態のなかで、イエスさまがシモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれたのです。そして、イエスはすわって、舟から群衆を教えられた。そして話が終わってから「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ、シモンは「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言って網をおろしました。すると昼間に何と、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼み。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。とあります。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

μιμηται(ミメィタイ)は、「模倣する」とか、「真似をする」という意味だと言いました。まねるという言葉が使われていると言いました。無理だと思っても主が語っておられることを行うときに祝福があります。主を覚えて、真似をする。その時主は勝利をくださると教えられました。
今日も礼拝後、家に帰って、またインターネットで見ていらっしゃる方も、礼拝後に聖餐を受けると思いますが、いつものようにただ形だけの、パンを食べ杯を飲むのではなく、今日は主を覚えて行いないましょう。十字架という最高の愛と犠牲を覚えて、聖餐を頂きましょう。厳粛な思いの中で聖餐を頂きましょう。主が働いてくださいます。病も、どんな問題も、一向に動かなかった状況も、必ず主がその中で動かしてくださり、勝利を下さることを信じていきましょう。

そしてもう一つ私に主が語ってくださったことは、戦うということでした。霊的戦いをもっと行いなさい。戦いましょうということです。いつもみことばと証を聞いて戦わなければいけないと思っています。

週報の今週のとりなしのテーマ欄に『「日本」のために祈りましょう』とあります。今週の水曜日、二十三日は令和天皇の誕生日です。ただ休日だからゆっくりしようと思わないで、戦いましょう。とりなしましょう。宮中や各地域にある神社で誕生を祝う天長祭があります。私たちの地域は国家神道だと悪魔悪霊は呪いをかけてきます。また一九八九年の二月二十四は昭和天皇の葬儀が国を挙げて行われました。天皇制を通して置いてきている暗闇が打ち破られ、日本を覆う暗闇が打ち砕かれ、また天皇家の救いのためにも祈りたいと思います。
また今まで、霊的戦いの生きた勝利の証しを聞いてきました。見てきました。霊的戦いで、全く動かなかった大きな問題、苦しい状況から解放されて、すばらしい恵みを頂いた方々を私たちは、まじかに見たり、聞いたりしてきました。しかし日本のことわざの中に「絵に描いた餅」という言葉があります。

意味は「役に立たないことや実現する見込みがないこと」ということらしいです。人が戦って、素晴らしい祝福を頂きました。私たちはただ羨ましく思いますが、自分の問題は全く動かない状態であるかもしれません。霊的戦いは分かるんだけど、動かないのが現実だと思います。絵に描いた餅で、戦ったらこんなに素晴らしいことが起きるとわかっていても、現実には頂いていない。「主は完全だ」と今年与えられましたが、絵に描いた餅のように、「役に立たないことや実現する見込みがないこと」現実には戦ったら良いことが起きるけど、実現する見込みがない状態です。
「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と教えられた時、示されたのは、「戦わなかったら絶対に勝利が来ない」ということです。絵に描いた餅をいつまでも見続けるだけで、ただ実現しないで終わってしまいます。だからあなたはもう一度気を引き締めて、神の武具を身につけて、戦いなさい!主に語られました。あきらめていませんか?
絵に描いた餅ではなく主は完全だ。みことばは絶対、一点一画変わらない。必ず実現する。あなたが戦わないと勝利を得ることはできませんよという事です。戦っていくとき勝利が来ます。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」主を信じて戦いなさい。主は完全です。諦めずに、気を引き締めて、みことばの剣を持って戦って行きなさい。と教えています。

先週の礼拝のみことばは、本当に恵まれました。『〜2022年〜 「それは主の復讐の年」背後の戸を閉め、油を満たせ!』というタイトルで滝元順牧師が語って下さいました。以前も教えて頂いたのですが、「後ろの扉を閉めなさい」という事を教えられました。毎日のように債権者がやって来て「金を返せ!返すことができないなら、子どもたちを奴隷にする!」と脅していました。しかし家の戸が開いていたら債権者がたやすく入って来て、せっかく増えた油も、子どもたちも、一瞬にして持ち去ってしまう。当時、油は高価なものでした。油と共に、子どもたちも奴隷になったはずです。そうならないために、「戸を閉めろ」と告げたと語られました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」後ろの扉を閉め、聖霊の油注ぎをいただいて、その油注ぎの中で戦った時に、絵に描いた餅ではなく、確かに自分で味わうことのできる「あぁ、お餅ってこういう味なんだ。」と分かるような勝利を体験できる。だから聖霊に満たされて、聖霊の油注ぎを頂いて、みことばの剣をもって戦え!戦ったら、必ず勝利を頂ける。以前は、負債あり、悪魔の奴隷にならなくてはならないものでした。しかし後ろの扉を閉めて、戦え!Ⅱ列王記四章七節

『彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

主は完全です。戦いましょう。戦ったら勝利、祝福、解放を頂けます。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」

もう一つ、主が私に語ってくださったことは何かと言うと、それは「祈りましょう」ということです。私たちはいつも祈ってはおります。しかし「わたしを覚えて、これを行いなさい。」とあります。ペテロたちは夜通し働いて疲れ、もう網をしまいたい、早く休みたいと思うような状況でした。しかし主は「深みに出て網を下ろせ」なんと大変なことを言うのかと思ったかもしれません。しかし主が言われたので、ペテロたちは従い、沖に出して網をおろしました。そうしたら素晴らしい収穫をいただきました。さらに今まで以上にプラスして、今週は祈る週になっていきたいと思います。

マタイ二十一章二十二節に、こういうみことばがあります。

『あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』

良いみことばですよね。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、ここに「何でも」与えられるとあります。そして有名なみことば、マタイ七章七節、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

こんな私でも今まで多くの祈りが答えられてきました。本当に難しいというようなことも、祈る中で道が開かれ、私のような祈りにも答えてくださった。そんな体験を何回もしてきました。皆さんもそういった時があると思います。主は完全です。今週は今まで以上に祈りたいと思います。祈る時に主が答えてくださるということです。

またもう一つ、主が私に語ってくださったことは、「献げなさい」ということでした。今はコロナ禍にあって経済的に苦しいところがあるかもしれません。しかし主に期待して献げていきましょう。マラキ書三章八節から十節のみことば、これもリビングバイブルで読んでみます。

『人は神のものを盗めるだろうか。とんでもない。ところがおまえたちは、わたしのものを盗んでいる。『何のことですか。いつ、神様のものを盗んだりしましたか。』わたしに納めるべき収入の十分の一と、ささげ物を盗んでいるではないか。だから、神の恐ろしいのろいが、おまえたちを包んでいるのだ。全国民がわたしのものを盗んでいるからだ。収入の十分の一をすべて倉に携えて来い。そうすれば、神殿には食べ物が十分あるようになる。そうすれば、わたしは天の窓を開いて、すばらしい祝福をあふれるばかりに注ごう。』

主の前に献金していく時、献げていくとき素晴らしいことをしてくださるというみことばです。自分が神のものを盗んでいた。え?そんな神のものいつ盗んだんですか?とあります、九節をもう一度読んでみますけど、

『だから、神の恐ろしいのろいが、おまえたちを包んでいるのだ。』

というこのみことば、私はすごくドキッとしました。献げた時。天窓を開いて素晴らしい祝福、溢れるばかりの祝福を注ごうとみことばにあります。しかし献げなかったらみことばでは

『わたしに納めるべき収入の十分の一と、ささげ物を盗んでいるではないか。だから、神の恐ろしいのろいが、おまえたちを包んでいるのだ。』

とあります。私に主が教えて下さったことはささげなさいでした。この新城教会でもう三十年になりますが、一緒に礼拝していた人たちが教会から去って行ってしまいました。その当時、この会堂の負債があり、このままで経済的に大丈夫だろうかと思いました。しかし以前もお証ししてくださったのですが、O兄だとか、S兄がご自分で事業をされていますが、その事業家の方々が、一生懸命稼いだものの中で、ある人は十分の四くらい、いやもっと献げて下さいました。そんな犠牲を払って下さり今の教会があります。その事業家の方々はどうなったかというと、驚くような祝福、発展を頂きました。私たちはこうして素晴らしい会堂で今礼拝できるのも、そういう信仰の勇士たちが、献げ物を献げてくださったことによって、今私たちはあるわけです。献金もそうですが、あなたの時間を主に献げてみませんか?あなた自身を献げてみませんか?主に献身してみませんか?突拍子もない事をしなさいというわけでありません。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」主があなたに語られたら、示されたら、ささげてみてください。主があなたに天窓を開いて素晴らしい祝福、溢れるばかりの祝福を注ごうとあります。
あなたが主に精一杯献げた時、ルカ二十一章一節~四節

『さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。』