とりでに帰れ!神はわれらの避け所、また力

『この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです‐‐』

とあります。それは十字架のイエスさまの尊い贖いゆえですね。ピリピ人への手紙二章八節・九節、

『自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』

このような十字架の贖いが私たちには与えられています。それゆえにエペソ人への手紙二章五節〜六節、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

イエスさまが天に上げられた所、その所に私たちも共にすわらせてくださるわけですから、私たちの避け所、逃れて行く場所というのは、この地上のシェルターのようなで場所ではなく、天上にあるということです。そして私たちはこの天上の神の恵みというものを、この地上にあってもうすでに受けている者であります。詩篇四十六篇に戻ります。四節〜六節、

『川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。』

この所は、ヨハネの黙示録の二十二章一節・二節を思い出させます。

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。』

とあります。私たちの避け所は主ご自身であって、それは天上の主の都に住まうかのようです。そこにはいのちの川が主のみ座から流れているのです。そのいのちの水を私たちはいただいて、この地上にあって、私たちは天上のいのちで満たされていく、毎月、実が与えられて、その木の葉は諸国の民を癒したという癒しが私たちに伴うのです。私たちはこの主に身を避けていく中で、神さまのいのちと恵みで満たされて、また癒しを受け取ることができる者であるということを受け取っていきたいと思います。

そして、このマサダという要塞、これは戦いのために用いられたわけです。「とりで」というのは「戦い」という領域もあります。避け所において、とりでにおいて、私たちは逃げ込んで守られるわけですけが、ただそこで安住していていいのだろうかというと、そうではないということを、神さまから私自身教えられています。
この詩篇四十六篇を背景にしているのが、南ユダでヒゼキヤが王様であった時代の出来事ではないかと言われます。アッシリアのおびただしい大軍が南ユダを攻めてきました。そんな大軍にヒゼキヤ王、南ユダの人たちは恐れおののき弱さを覚えました。そして敵は「おまえのより頼む主は本当に助けてくれるのか?」と、不信仰を煽ってきたのです。主の信頼を取り除こうとしてくるのです。これは悪魔のささやきだと思います。主への信頼を奪って、私たちが主の避け所を見いだすことを妨げようとする敵の力があると思います。
その敵のささやきにヒゼキヤ王と南ユダの人々は恐れおののいたわけです。そんな中でヒゼキヤ王は何をしたかと言うと、主の宮に行き、祈りました。第二列王記十九章十四節〜十五節、十九節、

『ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。‥私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」』

このように祈りました。『使者の手からその手紙を受け取り、』とありますが、その手紙というのは、アッシリアが主をなじった手紙でした。その手紙さえも主のみ前に明け渡し、そしてまたヒゼキヤ自身の恐れと弱ささえも主に委ねて、主の前で祈ったわけです。
その後、何が起こったかというと、預言者イザヤから「あなたの祈りを受け取ったよ!」そのように神さまが応えてくださったという言葉が語られて、そして主の使いが遣わされ、なんとアッシリアの陣営、十八万五千の敵を一晩で打ち破ってくださったわけですね。列王記第二の十九章三十五節に、そのような記事があります。一晩で危機的な状況がガラッと変わってしまったわけですね。主の宮、避け所、主ご自身のとりでの中で、私たちは祈りという使命があるということを教えられます。
とりでとは、ただ単なるシェルターではなくて、霊的軍事施設であるということを覚えさせられています。その中で私たちが霊的戦いという剣をしっかりと握って、祈りの使命、祈りを主に捧げていくならば、共におられる万軍の主が戦ってくださり、奇跡的な大勝利、一晩によって状況を変えてくださるような素晴らしい勝利を私たちに与えてくださるということを覚えていきたいと思います。

夜明け前に助けてくださるとありました。主の助けは遅れることが決してありません。信仰を持って主に寄り頼んでいきましょう。『神は夜明け前にこれを助けられる。』その後に、四十六篇六節、『国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。』とあります。主ご自身が王の王として圧倒的な権威を持って、この地に勝利をもたらせてくださることを表しています。
ヒゼキヤ王自身は弱さを神さまに委ねて祈りました。私たち一人ひとりも弱さを持っています。しかし、その弱さというものが果たしてすごくネガティブなものかというと、そうではないということも覚えさせられます。弱さがあるゆえに私たちは何かに頼ろうとする。そして私たちには頼ることができる方がおられる。それは主ご自身です。私たちは弱さがあるゆえに主に信頼していくことができるわけですね。そして主に身を寄せていく時に、主ご自身が避けどころとなってくださり、共におられる万軍の主が大きな勝利を取ってくださるのです。弱さの認識という私たちの小さな一歩が、信頼の一歩となり、そしてそこから主ご自身の大きなみわざへと繋がっていくわけです。

詩篇百十九篇、皆さん好きでしょうか?とても長いですね。滝元明先生の家庭では食事の前に詩篇を一篇ずつ読んでから食事をするので、百十九篇の時は大変だったと、そんな話を覚えています。この百十九篇というのは旧約聖書中で神さまご自身のことばに対して、最も素晴らしい神さまへの愛の告白を現した、神さまへのラブレターみたいなものだと言われます。「神さまのことばに従います!」「掟に従います!」と、たくさん出てきます。神さまを愛するゆえに従います!という、そんな詩篇百十九篇であります。
そんな百十九篇の最後の節に何が書かれているかと言うと、この一七六節、

『私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。』

神さまに従います!神さまを愛します!と告白し続けてきたのですが、最終的には自分自身を滅びる羊のようだと例えて、その羊である私をどうか捜し求めてください、忘れないでください、と主に頼って終わっています。
この詩篇の作者は自分自身の弱さを羊に例えています。羊は目が悪かったりして、先頭の人に付いて行くような、そんな習性があるそうです。その先頭が崖から落ちれば、付いて行ってそのまま崖に落ちてしまうというような、そんな弱さも持っているというのが羊ということです。
主は私たちの羊飼いです。詩篇百十九篇の作者は、羊飼いである主が自分を握ってくださらなければ主を愛することもできないと、弱さを主に委ねています。私たちは弱さというものがありますが、それを認識して、それを主にゆだねていく時に、その弱さは主への信頼へと大きく変わり、主ご自身という私たちは避け所を見出し、そして主が大きなみわざを現してくださる過程があるということを教えられます。

先ほど子どもたちが素晴らしい特別賛美を主に捧げてくださいました。先月、毎週日曜日の朝、朝練をしました。本当に子どもたちが頑張って、賛美して、祈って、備えていきました。最初はどうなるというような不安を感じましたが、本当に力がない、弱いように見えるような子どもたちかもしれませんが、神さまが助けてくださり、力を与えてくださり、あのような素晴らしい賛美を捧げることができました。
去年、子どもクリスマス会が行われ大変祝福されました。そこでも子どもたちは特別賛美ということで神さまへ主への賛美のいけにえ、賛美のプレゼントをしました。今回の子どもクリスマスも本当に祝福され、ヒーローショーも素晴らしく、上條実先生のメッセージにもみんなが応答して、大胆にイエスさまを自分の神さまと信じます!と告白しました。イエスさまを知らない子どもたちも合わせて、これほどまでに子どもたち全員が、大きな声で、この場所が揺れるほどに叫んで信仰告白したのは初めてではなかったかなと思います。そのような素晴らしい主のみわざが現されました。
このクリスマス会が始まる前の四日間、会場となるこの会堂に来て、毎日夕方五時から五時半まで祈って賛美しました。そして、その中での一番の人気の賛美が何だったかと言うと、「平和の神が」でした。「♪平和の神が あなたがたの足で サタンの頭を踏み砕く!」と、なかなか激しい賛美なのですが、子どもたちがこれがいい!と言って賛美しました。その賛美を歌いながら、子どもクリスマスに用意された素晴らしい神さまのみわざを邪魔する悪魔が打ち破られるようにと、この会場に働く悪魔をやっつけろ!と、走り回って祈りました。
この主の宮で、主の避け所で、弱いと思えるような子どもたちが神さまから祈りを受け取って、賛美の剣を受け取って、主に捧げていった時に、このような素晴らしい主の大勝利が与えられたと信じます。この詩篇四十六篇八〜十節、

『来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」』

とあります。神さまご自身が圧倒的なみ力を持って大勝利を私たちに与えてくださいます。共におられる万軍の主が勝利を与えてくださいます。そして神さまご自身が国々の間で崇められる、地の上で崇められる、そのような素晴らしい大勝利が与えられていきます。この会場に集まった子どもたち、また親御さんたち、二百名近くおられましたけが、主を自分の神さまとして受け入れて、そして主を賛美しました。詩篇四十六篇全体を体験させていただくようなことが実際に起こりました。このような素晴らしいみわざを神さまは私たちにも必ず起こしてくださいます。そのことを信じて神さまと共に歩んでまいりたいと願います。

ではここで一つ、子どもたちはクイズ好きだと思いますので、またクイズを出します。
 これ皆さんご存知でしょうか。ゴアテックスという技術です。山登りのジャケットや靴に使われている技術です。この技術は、水は弾く。しかし蒸気や湿気は浸透させ通らせて、服の中に湿気がこもらないようにします。ですので、汗をかいてもサラサラで乾いた状態をからだが保てるという技術です。山登りで汗をかいても汗で体が冷えてしまうことがないということです。そのような技術のゴアテックスというものがいろいろなアウトドア用品には使われています。
ではここでクイズです。全てのものは神さまが造られた被造物からできておりますが、蒸気を逃して水は弾くという不思議な繊維をもたらすゴアテックスの技術には、ある被造物が使われています。さて、何が使われているでしょうか?
 正解は、蛍石という石が使われているそうです。なぜそのような高度な技術が石ころから生み出されるかわかりませんが、石が人の手に握られていく時に、そのような最新の技術を持つようになるのです。
ゼカリヤ書九章十二節〜十三節を見ましょう。