〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
背後の戸を閉め、油を満たせ!

一節に、「債権者」が登場します。「債権者」とは、証書を所有している人です。借金すると契約書が交わされます。もしも借金を返済出来なければ、債権者の取りたてに会います。
しかし旧約聖書の「債権者」とは、新約聖書では、「悪魔・悪霊ども」を意味します。
ギリシャ語で、「悪魔」のことを「ディアボロス」と言うのですが、その意味は「告発者・中傷者」です。「債権者が来て私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」という、「債権者」の新約聖書における実体は「サタン」を表しています。
ペテロの手紙 第一 五章八節、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。』

怖い話しですよね。私たちの敵は誰か。それは人ではないのです。「悪魔」が真の敵です。悪魔は私たちを食い尽くそうとして、日々、世界を歩き回っているようです。今朝も、私たちの側を通り過ぎたのかもしれません。いつ何時、悪魔に襲われるのか分からない不安があるかもしれません。
しかし「敵」という言葉は、以前にもご紹介いたしましたが、ギリシャ語では「アンチデコス」という言葉が使われているのですが、「訴訟を起こす者」という意味です。
悪魔は、私たちにどう関わり、働くのか?
彼らは無作為に働くのではなくて、天の法廷で訴訟を起こし勝訴した場合に働くことが出来るのです。
エペソ人への手紙六章では、「天にいる諸々の悪霊ども」のことが記されていますが、悪魔は、何の理由もなく食いつくことはありません。何らかの理由で、神の前に訴訟を起こし、私たちが裁判に負けると、地上に様々な問題が起きるのです。
ですから債権者と債権そのものをなんとかしない限り、平和に暮らすことはできないのです。第二歴代誌四章一節から七節のストーリーは、新約聖書の概念を重ねるなら、まさに、霊的戦いについて教えています。

この戦いにやもめの家族が勝利した秘訣と鍵は、「油」にありました。すなわち「聖霊の油」です。
エリシャは家族に、まず何を尋ねたのかというと、四章二節に、「何か家の中にありますか?」と聞きました。何もありませんでした。しかし「ただ、油の壺一つしかありません。」とやもめは答えました。家の中に、は油の壺が一つだけ残っていたのです。「それを持って来なさい!」とエリシャは言いました。
新約的な概念を重ねるならば、「イエス・キリストを信じる者たちには、聖霊の油壺がある」という事を意味します。
「誰も聖霊によらなければ、イエスが主であると告白できない。」とあります。「イエスさまは主です!」と告白するのは、自分で告白しているようでも、そうではなく、聖霊さまによって告白しているのです。
今日、「イエスは主です!」と告白できますか?出来るのならば、油の壺がある証拠です。ちょっと皆さんで告白してみましょうか。
「イエスは主です!」
良かったですね。内側には、油壺があります。
どんな問題が起きても、どんなに苦しく悲しいことがあったとしても、イエス・キリストを主として信じる者たちには、聖霊の油壷がある事を忘れないで下さい。聖霊さまが共におられるのです。

私もそのことを実体験しました。家内の病気が発覚した日、本当にどうなるのかと思いました。しかし「私はイエスさまをキリストとして信じている。天は開いている。内側に油があるじゃないか。」とまず確認しました。
エリシャはやもめと子どもたちに、続いて、何と告げたのでしょうか。

『すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。』

 外に出て行って、近所から空の器を借りてきなさいと言いました。この言葉を聞いた時、やもめの一家は少し躊躇したと思われます。この人たちは田舎に住んでいました。家に何もないのに、外に出て行って、「すいません。空の器を貸してくれませんか?」と頼むのは、なんとも恥ずかしいですよね。「何もないのに、なぜ空の器が必要なの?」と言われたかもしれません。しかし葛藤はあったけれど、外に出て行って空の器を借りてきたわけです。
様々な問題が起きると、外に出て行って空の器を借りに行く勇気がなくなります。空の器とは、油が入っていない器、すなわち、イエスをキリストとして信じていない人たちのことです。家の中に問題が満載なのに、外に出て行って、「イエスさまは素晴らしい神さまですよ!」とは、なかなか言えないです。「自分の問題を解決してから来なさいよ。」と言われそうです。
もしも私が毛生え薬のセールスマンなら、みんな何といいますか。「自分で使ってふさふさになってから売りに来なさい。」と言われます。
「あんたの家の問題が解決したら、教会に行ってもいいよ。」と言われそうです。
しかしそんな時にこそ、勇気を出して外に出て行けと告げています。その時、聖霊さまは働いてくださるのです。空の器は一つ二つではいけない、三つ以上だと言います。問題があっても、「宣教」の精神から離れてはいけないのです。
聖霊さまは宣教の力です。福音を伝える中で、聖霊の油は増えることを、知らなければいけないのです。
そして次に、

『家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」』

とエリシャは語りました。エリシャはやもめの家族に、細かい指示を出しています。家に入ったら、戸を閉めろと言いました。どうして「扉を閉めろ」と指示したのか。そこには理由があります。
この家には、毎日のように債権者がやってきていました。「金を返せ!返すことができないなら、子どもたちを奴隷にしてやる!」と脅していました。
 もしも家の戸が開いていたらどうなりますか。債権者がたやすく入って来て、せっかく増えた油も、子どもたちも、一瞬にして持ち去ってしまうことでしょう。当時、油は高価なものでした。油と共に、子どもたちも奴隷になったはずです。そうならないために、「戸を閉めろ」と告げたのです。

九二年に聖霊が注がれた時、主が私たちに強く教えられたのが、「後ろの戸を閉めなさい。」でした。新城教会の長い歴史の中で、聖霊さまが働かれた時期もありました。しかしいつしか、油は盗まれ、元気がなくなっていました。ある時期は信仰に燃えました。しかししばらくすると落ち込んで、立ち上がれなくなるのです。上がったり下がったりの連続でした。
その理由は、「後ろの戸が開いている」と教えられました。聖霊さまに満たされ続けるためには、「戸を閉めてから、油を増やせ!」でした。

「戸を閉める」その具体的な意味について、主が三つの領域について教えてくださいました。
人は、「霊・魂・体」の三領域が重なってできている生物です。肉体は目に見えます。魂も存在することは分かりますが、目には見えません。魂とは自己、自分自身です。それは肉体を越える存在です。魂の領域は時空を越えます。先ほども仲一バンドの歌を聞き、私はあっという間に、中学生時代に戻ってしまいました。
人には「霊」という領域もあります。霊とは、霊的存在とコミュニケーションする為の機能だと言われます。
人には祈り心があります。それは、霊という領域が備わっているからです。
悪魔は人の霊・魂・肉体の領域に穴を開けて侵入します。霊・魂・肉体の三つの戸をしっかりと閉めてないと、債権者が来て、せっかく神さまからいただいた祝福、油注ぎも盗まれてしまうのです。

第一に、霊の領域の敵に対する戸とは何か?それは偶像礼拝です。
偶像礼拝は、三代、四代にも及ぶ、悪霊と結ばれる契約です。日本人は偶像礼拝を避けて通れないのです。必ず、誰かが偶像礼拝をやっています。それは家族全体との契約です。
「あなたと子どもたちの後ろの戸を閉めろ」と語られています。家全体に対する悪魔との契約書をキャンセルする宣言をしなさい、と教えられました。この事については、何度も語っていますから、理解しておられると思います。悔い改めとは、主への悔い改めと共に、悪魔と結ばれた契約を解除する領域が含まれています。
 レビ記にある「大贖罪の日」を見ると、悔い改めは、二つの領域が実行されて完成するものである事が分かります。

ユダヤ人たちは今でも大贖罪の日、「ヨム・キプール」を守っています。この日には、かつて、主へのいけにえと共に、アザゼルのための山羊が用意されました。
偶像礼拝は、契約書が発行される罪であって、債権者である悪魔はここで手に入れた契約書を使い、天の法廷に訴えるのです。
戸を閉めるとは、契約書を破棄する宣言です。偶像礼拝によって、悪魔と結ばれた契約を破棄する必要性について、九十二年の二月に気づかされました。

家内が病気になった時に、すぐさまこの領域を扱うようにと、主から強く教えられました。滝元家、家内は旧姓を今泉といいますが、両家の偶像礼拝を悔い改め、契約を破棄する祈りをしました。両家共に、多くの偶像礼拝がなされていました。もちろん、私たちの世代では偶像礼拝はないのですが、親族の中には、クリスチャンでない人たちもいますし、破棄されていない契約書が数多く残っている事に気づかされました。一つ一つ悔い改めと共に、契約破棄の祈りをしました。そんな中、敵の力が徐々に打ち破られていくことを体験しました。
神はイスラエルに、「あなたは彼らや彼らの神々と契約を結んではならない。」と、出エジプトをした民に語られました。偶像礼拝は悪魔との契約行為なのです。
しかしイエス・キリストを主として信じるならば、十字架の血潮によって、悪魔と結ばれた契約書も破棄する権限が与えられるのです。権限があっても使わなかったら、破棄できるものも破棄できずに残ります。

さらに、魂の領域と肉体の領域を通しても、悪魔は人と契約を結ぶことができます。彼らは聖書のみことばを巧みに逆利用して働く策略家です。

『怒っても罪を犯してはなりません。憤ったまま日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

魂の領域で悪魔の侵入路は、憎しみです。
「怒っても罪を犯すな」と警告されています。一日のうちに頭にくるようなことは、いくつもあるかと思います。しかし、これを日が暮れるまで保っていてはいけないのです。イスラエルでは、夕刻から夕刻を一日としています。「一日経過したら、いろいろあっても赦してあげなさい。忘れなさい。」と言うわけです。
怒りの賞味期限は「二十四時間」です。それをオーバーすると、「悪魔が機会を捉える」のです。怒りが発生して二十三時間五十分くらい経っていたら、あと十分の間に赦してください。そうしたら悪魔が機会を捉える事はありません。

そしてもう一つは、「性的な罪」です。パウロはコリントの教会の男性たちが遊女の所に通っているのを見て、警告しました。遊女とは、「神殿娼婦」と呼ばれる女性たちでした。コリントには、ギリシャ神話の神殿が多く立ち並んでいて、そこに仕える巫女たちは売春婦でした。コリントの街には、それが悪しき文化として定着していたのです。パウロが、「遊女の体と一つになる。それは結婚と同じ意味を持つ。」と語りました。
一人の男性と一人の女性が清らかに結婚するならば、キリストと教会がひとつになると教えています。それは素晴らしい法則です。しかし悪魔は、この法則が機能しないように、真剣に働いています。結婚のシステムを破壊して、他の人たちとつなぐわけです。浮気をさせたり、不倫をさせたり、様々な性的罪を犯させて、肉体的領域を通して、他人の罪や束縛を共有させます。
その結果、天でサタンに訴えられるのです。悪魔は「アンチデコス、訴える者」だからです。天の法廷に訴えられる理由があれば、クリスチャンでも敗北します。しかし理由さえなければ、悪魔は訴えることはできません。
九十二年、聖霊さまが来てくださった時、「まず、後ろの戸を閉めなさい!敵と結ばれた契約を、全てキャンセルしてから、わたしについてきなさい。」と告げられました。それで、今まで語った三領域を整理したことによって、ひとり一人の信仰が安定して行きました。