2022年1月30(日)新城教会主任牧師 滝元順

使徒の働き16章25節・26節
『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』

詩篇149篇5節〜9節
『聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

おはようございます。そして「ハレルヤ!」
今日もこうして礼拝を守ることができますことを、心から感謝致します。
先ほどの賛美にもありましたように、笑顔が消えやすい今日この頃ですが、聖霊によって笑顔を取り戻して帰っていただきたいと願います。
オミクロン株がかなりの猛威を振るっていて、先の見えない中にありますけれど、この時にこそ、主に頼っていきたいものです。
第六波ということですが、日本でオミクロン株を最初に体験したのは沖縄だと言われます。沖縄県の感染者数を見ますと、ピークアウトしています。
ということは、本州もやがてこのようになると予想されます。あまり悲観的にならずに、ここが踏ん張り時ですから、よく祈っていきたいです。

創造主なる神は確実に存在します。「私は無神論」という方もおられるかもしれません。一方、日本は八百萬の神々と言います。しかし天地宇宙を造られ、人類を創造された神がおられたら、それが誰かを特定しなければなりません。
以前にもお話ししましたが、銀河宇宙系のような星雲は、二兆個以上存在すると言われます。信じられない数です。我々が属している銀河宇宙だけでも、太陽と同じような自ら光を発する恒星が、一千億個以上あると言うのです。それらが一つもくるいなく、自転・公転しながら運行されているのは、知的存在なしにはありえない事です。
ですから、誰が神なのかを特定することは、宗教ではないのです。

身近なところを見ても、神さまの人に対する配慮を感じます。最近、ちょっとずつ暖かくなってきた気がします。春に向かっている事は確かです。春になりますと、花が一斉に咲き始めます。皆さんは花を育てることが好きですか?私の家内は花を育てることが大好きです。
話は変わりますが、先週、家内は「霊的戦い専門課程」で証しを収録することができました。こんな日が来るなんて夢のようで、本当に感動でした。今回の霊的戦い専門課程、自分で言うのもなんですが、良かったと思います。家内の証しも収録されていますし、内容もたいへん良かったです。是非、お申し込みいただきたいと思います。

花は「ほら私を見てちょうだい!」と向きを考えて咲いていると言うのです。人間よりも下に咲いている、たんぽぽのような花は、全て上を向いて咲いています。また、人間と同じ目線のひまわりみたいな花は、横を向いて咲いています。そして、桜の花のような木に咲く花は、下を向いていると言うのです。花の向きを見るだけでも、「すごい。神さまはおられる!」と分かります。人を楽しませるために、花々は咲いています。
同時に人は、被造物の管理人です。花を見かけたら「主を賛美せよ!」と宣言する係です。花は「私に賛美するように宣言してちょうだい」と言わんばかりです。天地宇宙を造られた神さまが、真ん中におられることを知ったら、笑顔が戻ってくるはずです。

では神さまは、何のために天地宇宙を造られたのでしょうか。その目的が、黙示録四章十二節に記されています。

『「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」』

神はご自分の「みこころゆえに」万物を創造されたと言うのです。「みこころゆえ」とは、ちょっと漠然としています。しかし英語の聖書訳では、「喜びゆえに」となっています。
神は、すべての被造物を賛美させ、彼らからの賛美を楽しむ為に、広大な宇宙と、無数の被造物を創造されたのです。何もかもが、神を賛美する存在として造られたのです。
人間だって音楽を楽しむために、オーケストラを編成したり、CDプレイヤーをセッティングしたりします。それは自分を楽しませるためです。同じように、神さまも広大な宇宙をオーケストラとして、ご自身を賛美させ、楽しまれるために万物を創造されました。そして人間は、自らも主を賛美するだけでなく、被造物オーケストラを賛美させ、指揮する役割として、造られたのです。

しかし残念なことに、この広大な宇宙の中で、一つの星だけが主を賛美していません。それがどこかと言いますと、「地球」です。
星の数は世界の砂浜の砂つぶよりも多いと言われます。その規模から地球を見れば、地球なんて、腸内細菌の一匹にもあたらないくらい微小な存在だと思われます。大宇宙の中で微小なこの地球だけが、主を賛美していないのです。誰を賛美しているのかと言えば、人類自らを賛美したり、悪魔・悪霊どもが賛美されています。
どうしてこんな環境になってしまったのでしょうか。

先日、ちょっと調べ物をしていたら、NHKラジオが「宗教の時間」という番組をやっていて、立教大学の文学部の教授が「聖書の世界観」について語っていました。これを一般の人たちがどのくらい理解できたのかは疑問ですが、ネットに文字化されて出ています。長い文章ですが、その一部を読んでみます。彼は、ルカの福音書の十章十八節を引用して、

“「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを観察していた。」

この発言は、悪霊祓いの前提条件について述べているようです。では、サタンが「稲妻のように」天から墜落する、このことは悪霊祓いとどのような関係にあるのでしょうか。それは天上世界で神の王的な支配が確立された結果、サタンは発言権ないし支配権を剥奪されて天上世界から地上界へと投げ落とされた。そしてその神の王国が、地上世界へと降臨してくるうちに、そこでまだ暴れているサタンと配下の悪霊たちを追い払うことが可能になるという意味であろうと思われます。”

これが福音書の世界観だと語られていました。
さて、全ての事象は、「二つの国の対立」という視点から説明できると言われます。それが「神の王国」 VS 「悪魔の王国」の構図です。
 すべての事象、宇宙、歴史、様々な事件、人生、その他全てをそこから説明できると言うのです。
人は、どちらかの王国に属さなければならず、中間地帯はないのです。
こう話しますと、「神さまと悪魔は対等の存在ですか?」と言われます。しかし決して、そうではありません。
先ほど紹介した世界観に示されていたように、「悪魔が天からこの地上に落とされた」のです。
この地上は、宇宙全体から見たら、取るに足らない、ミクロの世界にも満たない存在です。この地球に、神のみ前で仕えていた天使たちが、天での発言権を失い、落とされたのです。
 地球に落とされた悪魔・悪霊どもを潰すことは、神にとっては、人がイクラをぷちっと潰せるように、いとも簡単です。しかし神はそれをしないで、神の王国が地上に降りてきて、小さな星での悪魔の活動を一掃しようとされたのです。それが、「神の王国」と「悪魔の王国」の戦いです。我々が常日頃見かけている事象のすべては、その中に含まれるのです。神の王国は、神が支配されるのですが、動員されるのはクリスチャンたちです。

神さまが地球をぷちっと潰すのは、いとも簡単です。しかしもしも神さまが地球をぷちっとやってしまったら、神が造られた創造のシステムの原点にバグがあったことになります。
しかし被造物の管理人である人間が自らの意思で、この地に落とされた龍どもを一掃するために働いたらどうでしょうか。神さまの創造は原点において完璧であったことになります。例えエラーが生じたように見えても、被造物自体によって自動修復されるからです。

ゆえに「霊的戦い」は、創造の原点にも関わることであり、歴史の原点に関わる、ものすごく重要な働きなのです。やってもいい、やらなくてもいいみたいに考える人がいますけれど、人は生まれたら、相対する、どちらかの国の国民です。クリスチャンは、神の王国の兵士として、すでにこの戦いに参画しているのです。
ということは、歴史は神の軍隊である教会にかかっていると言えます。軍の将であるイエスさまを先頭にして、教会がどう動くかで、世界の歴史は変わるのです。教会がただ自分たちの祝福だけを求めるのではなく、神がかつて失った栄光を取り戻すために、主の夢を叶えるために働く時、歴史は変わります。

そんな視点で、聖書を読みますと、今まで見えなかった事柄が見えるようになります。
先ほど「使徒の働き十六章」と「詩篇百四十九篇」を読んでいただきましたが、家に帰られたら、使徒の働き十六章全体と、詩篇百四十九篇、そして、百四十八篇も読んでいただきたいと思います。
旧約聖書は新約聖書の影であり、新約聖書では、影が実体として実現しています。新約聖書中で起きている事柄は、旧約聖書中にモデルとなる影があります。
使徒の働き十六章には、ピリピという街で起こった、霊的戦いの記録があります。ピリピはどこにあったのかと言いますと、今のギリシャです。ギリシャの東の端に位置した古代の街です。それはローマ帝国の植民都市でした。その街に、パウロとシラスが行った時に起こったことがルカによって記録されています。
使徒の働き十六章十六節、

『さて、祈り場に行く途中のことであった。私たちは占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させていた。』

占いの霊という、悪霊に憑かれた女奴隷が、パウロとシラスにつきまとって、「この人たちはいと高き神のしもべたちです!」と叫び、広告塔になりました。幾日もそういうことをしたので、パウロもうざくなったのでしょう。それで、十八節から十九節を見ますと、

『何日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り向いてその霊に、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると直ちに、霊は出て行った。彼女の主人たちは、金儲けをする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人たちに引き立てて行った。』

パウロはいとも簡単に、占いの霊を追い出したのです。この行為は、先に述べた構図と視点で評価するならば、「神の王国が、悪魔の王国に攻め込んだ」ことになります。

パウロには大きな霊的権威がありました。「悪霊よ、出て行け!」と命じたら、一発で占いの霊は出て行ったのです。女奴隷は、その後、占いができなくなってしまいました。すごい権威ですね。これは、神の軍隊に属する、すべてのクリスチャンに備えられている権威でもあるといえます。
我々には、悪魔の王国を侵略する為の武器が備えられているのです。その武器は、敵の要塞をも破る、神のみことばによる権威です。

しかしパウロは悪霊を追い出したのにも関わらず、訴えられ、役人たちに捕えられてしまいました。ある意味、本末転倒です。女奴隷を解放したら、自分たちが捕らえられて、獄舎に入れられてしまったからです。うかつに悪霊追い出しなどやらないほうが良かったのでは・・みたいなところがあるわけです。
しかし、この戦いの経緯をよく研究しますと、ここから霊的戦いの秘訣と、悪魔の策略を見出すことができます。