2022年1月23(日)新城教会牧師 四元雅也

エペソ人への手紙1章17節

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。』

おはようございます。こうして皆さんの前でお話しできますことを感謝します。
今が一年で一番寒い時期でありますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今年は一月の気温が何十年ぶりかで低いみたいです。だから寒いなぁと感じる日々が多い気がしておりますけれど、寒い中であっても、神さまを求めて、こうして皆で集まって礼拝できることを感謝します。
オミクロン株のように心を揺るがされる話題も世の中にはありますが、今も菊池陽子姉の賛美にありましたように、私たちは神さまを見上げて歌い続けることができる。感謝なことだなぁと思わされております。

二〇二二年もそろそろ一ヶ月経ちそうな時であります。正月気分も抜けきって日常を過ごされていると思いますが、今日私がメッセージのメインのみことばとして選んだのは、昨年末のカウントダウンの時に語らせていただいたのと同じみことばを、皆さんとともに学んでいきたいと思っております。
毎年そうなのですが、年末年始の集会、主任牧師を含め八名の牧師・副牧師たちが、年末と一月一日の礼拝でメッセージを語り、恵まれた集会を持って新しい年を迎えることができるのは、素晴らしいと思うのですが、その集会、私にとっては他の集会とは一味違います。
それは、ご存知のように新しい年に向けた主からの預言的メッセージを語る、そういう命題が課せられているからです。すべての先生たちの語られたみことばが一つにまとめられ、ひとつなぎのメッセージになっていくのです。それで、「自分だけが滑ってしまったらどうしよう?」と思ったりしてしまうのです。人間的ですよね。そうではいけないとは思うんです。どの集会も主にあって同じだと。でもそういうふうに動揺する自分がいたりするわけです。
しかも、今回は、メッセージの順番をくじで決めるのですが、一番最後の順番になったわけです。そうしたら順先生が、「雅也先生がトリを引きましたね。」と言って、またまたドキッとして、「トリかぁ・・・」なんて思ったりして。どの順番も本当は関係ないのに。主にあっての順番ですから。でも動揺してしまう人間的なところがあるわけです。
しかし、集会に参加しながら、他の先生方のメッセージも聞き漏らすまいと、メモを取りながら聞いていました。
メッセージが進んで行き、私の番が近づくにつれて、「あぁ、本当に感謝なことだなぁ。」と、先生方が語られるみことばを通して神さまに心から感謝しました。というのも、主がお一人お一人の先生方を通して語っておられ、またその順番も神さまが備えてくださった順番だなぁと、個人的に腑に落ちたような感覚を持つことができたからです。
このメッセージは印刷されたものも作られて、今日も後ろのカウンターに置いてありますし、ホームページでもご覧いただくことができます。皆さんは、もうメッセージをご存知であろうかと思いますけど、読み返してみるのもいいのではないかと思います。
そして、一月一日に順先生がまとめて、ご自分のメッセージも加えられ、「新城教会への二〇二二年・主からの預言的メッセージ」としてまとめられたものが語られました。

そのメッセージを受け取った時、これも私の個人的な感想ですが、イメージとして一本の剣が浮かんできました。剣とはご存知のように、敵を攻撃して打ち倒す武器であります。
ヘブル人への手紙四章十二節を見ると、
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。』

と書いてあります。この剣は私たちの心を刺し貫き、正義のために矯正をされる、そういった剣であります。言い換えると、手術してくださるようなものではないかと思います。
また、八人の牧師たちが語ったメッセージを一つの剣としてイメージとして受け取ったのですが、剣というのは、一番威力をもって敵にダメージを与える部分は、先端部分だと思います。
真ん中あたりは、敵を攻撃もできると思いますけど、敵が剣で攻撃してきたら、ガシッと受ける部分でもあるし、つばの部分もまた敵の刃を受け止める。つばは敵を攻撃することはほとんどなく受け止めるためです。柄の部分は剣全体を支え、また力を加える、そうやっていろいろな部分に分かれております。一つにつながった各部分がそれぞれ機能するものとして私たちに与えられ、新城教会に与えられた。そんなふうに受け止めさせていただいて、このみことばを通して、私たちの心を神さまに向け、思いを新たに二〇二二年を歩んでいこう、そんなふうに思わされた次第です。

ヨハネの黙示録の一章十二節から十六節には、使徒ヨハネがパトモスという島に流されて、そこで、天の栄光に輝く主イエスさまと出会ったわけです。そこにあったのは七つの金の燭台、またその燭台の真ん中に「人の子のような方」と表現され、イエスさまですが、あえて「人の子のような方」という表現がされています。その姿は足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めて、その頭と髪は白い羊毛のように白く輝き、目は燃える炎のようで眼光が放たれていました。足も真鍮のようであり、その口からは剣が出ていたと書かれています。イメージにあまり囚われてもいけないと思いますが、こういうイメージでしょうか。
 右手には七つの星があって、七つの金の燭台があって、その中を人の子のような方がおられた。口から剣が出ている。主イエスさまからアジアの七つの教会に対してみことばを発せられる、そういう箇所であります。
ここでヨハネが見たイエスさまは、神さまとしての威光を帯びて描かれているわけですけど、その姿は、実は旧約聖書のダニエル書七章の中に記されている預言と、関連性を持った姿で描かれていることが分かります。だから新約の最後の書巻である黙示録に出てくるイエスさまが、何百年も前、旧約聖書の中で、同じような姿でダニエル書に登場されているわけです。
ダニエル書が書かれた時は、ユダの国がバビロニアに滅ぼされ、エルサレムは破壊されて、民は捕囚となってしまった。そういう時代です。
そして、ダニエルが見た幻は、バビロニア以降、イエスさまの時代までに世界を支配することになる四つの帝国を四頭の獣になぞらえて、その獣たちが、父なる神さま、ここでは「年を経た方」として登場するのですが、この父なる神さまによって裁かれて、永遠のみ国が到来する。そのような預言が、ダニエル書七章に書き記されています。
この預言が意味するところは、その当時中東地区を支配していたバビロニアをはじめとして、イエスさまの時代に至るまで、ペルシャ・ギリシャ・ローマの各帝国の時代の変遷、その歴史を、実は主ご自身が支配され、主ご自身の主権によって世界が動かされていることを示す。そういう預言であったわけです。
その預言の中に「人の子」が登場します。そして、四頭の獣に対する主の裁き、その主権者である「人の子」として描かれていたこの方は、黙示録の中では、主イエスさまが同じ呼び方「人の子」として登場するわけです。それは、ダニエル書の「人の子」とは、他でもなくイエスさまご自身なのだと、旧約と新約が結ばれてそのことを示すため、黙示録でも「人の子」という呼び方で、イエスさまが私たちに示されているわけです。
旧約のダニエルの預言が成就したことを、黙示録で重ね合わせるようにして描かれているわけです。
その人の子の口からは、鋭い剣が出ていました。日本では戦後七十年以上が過ぎ、平和な国、戦争のない国に私たちは生まれ育っておりますので、このイメージは、なかなか物騒な感じがするのではないかと思います。剣は歴史の中で火薬を使う武器が出るまでの長きにわたって最強の武器でした。ヨハネが幻の中で見たイエスさまは、まさにそういった「最強の戦神」として描かれていたのであります。

この箇所だけでなく、ヨハネの黙示録を読み進んでいきますと、十九章十一節には、

『また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。』

と書かれています。これもイエスさまの姿を描いているみことばです。ここではイエスさま主ご自身が「戦いをされる」と書かれているわけです。
教会の中では「私たちの信仰の歩みは戦いである」と、よく言われます。この戦いは人間的な武器をとってテロをするような、世の中を混乱に陥れるような、そういう戦いではありません。「霊的な戦い」でありますが、私たちは敵である悪魔と戦う者であるといいます。
なぜ「戦い」と教会では言うのか、「物騒じゃないか。私は戦いなんか全然好きじゃないのに。」と思われるかもしれませんが、でも、そもそも私たちの主が「戦う神さま」であられるから、私たち主につくものも主と共に戦うわけです。ここにはっきりと、『義をもってさばき、戦いをされる。』と書いてあるわけです。イエスさまが悪魔を打ち砕かれるのは、イエスさまがそのような「戦う神さま」であるからですね。それはイエスさまがこの世界に再び王として来られる時まで続くわけです。
私たち教会とか、クリスチャン一人ひとりの戦い、というよりは、悪魔の勢力に対する主の軍隊の戦いであるということです。その戦いに主が我々を招集され、我々が主の軍に加わらせていただいている、ということなんですね。

二〇二二年、初めに受けたみことばも、私たちがこういった礼拝の中で受けるみことばも、これも聖書的観念によれば「剣」であります。今日も礼拝を通して信仰の歩みをする上で必要な主からの剣が、お一人お一人に手渡されるということです。
そしてお一人お一人が世界にある様々な状況、また個々に置かれた状況に対し、その剣を持って主にあって戦い、完全勝利がもたらされて、皆さんの周りの敵、人ではなく悪魔です、この敵に対して復讐がなされ、主の回復と再建がなされて、二倍の祝福が注がれて、神さまの国が拡大していく。そのような時となることを、年末年始のみことばの中で私たちは受け取ったわけです。
そうなることを信じて、また願って、前進していきたい、そんなふうに思います。

そこでまた、初めにお読みしたみことば、私が受け取ったみことばに話を戻したいと思うのですが、エペソ人への手紙の一章十七節です。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。』

ここに「知る」という言葉が出てきますが、「知る」ということは、人が人として生きる上でとても重要な本能ではないかと思います。聞くところによると、歴史の中でもまだ人間は「知る」という言葉についてはっきりこうだと定義できていないみたいです。どうも「知る」という言葉はとても深い意味があるみたいです。
その「知りたい」という思い、その思いこそ私たちが人生を前に進めていく推進力となっているのではないかなと思います。

創世記を見ますと、最初に造られた人間が神さまと一緒に、エデンの園で愛と恵みに満ちた、素晴らしい日々を過ごしていたわけですが、そこにある日、サタンが現れて、言葉巧みに人間を誘惑し、その言葉に人は騙されて、神さまの前に最初の罪を犯したことが、書かれています。
その罪は何かというと、「善悪の知識の木」から実を取って食べるという罪でした。ここにも「知る」というテーマで罪を犯す出来事が記されています。
このことを通して、人間はまさに「罪を知って」しまったわけです。そして神さまから離れて行く道、神さまの元から、自ら離れていく道を受け取ってしまったわけです。
また、永遠のいのちに至るいのちの木の実を食べることがないようにと、神さまはそこに至る道を守るため、円を描いて回る火の剣を置かれて、人間が罪を持ったままいのちの木の実から取って食べ、永遠に生きることがないようにされたわけです。これは神さまの人間への配慮によることです。罪を持ったままで永遠に生きてしまったら、人間にとっての未来は悲惨なことになってしまうので、そうならないために、神さまはあえてその道を閉ざされたわけです。

その後の創世記の記述を見ていくと、人間が増え広がっていく中で、農業、畜産、手工業などの産業が生み出されていくことが書いてあります。また音楽が作られました。祈りや礼拝が生まれたことも書かれています。
 これは考古学的な発見で、おそらく聖書に書かれている最初の文明が現れたぐらいの時代の遺物であります。左の上は亀甲文字という中国の文字で、これで占いをしたであろうと言われています。右側は楔形文字です。メソポタミアのシュメールの文字で、これは数学の計算ノートで、二次方程式が書かれているんじゃないかと言われています。古代にも高度な計算をしていたんだとちょっとびっくりしました。真ん中のは、古いフルートで石器時代のものではないかと言われています。左下は、一番古い人間が描いたであろう壁画です。右下は 古代シュメールの、バベルの塔をモチーフとしたような、これも占星術を行う神殿の復元であります。こういう古いさまざまな文明が人間の歴史の中で誕生してくるわけです。
人間は神さまから造られた時に、この教会でもよく言われることですけど、もともと被造物の管理者として造られました。
その役割を担って、人間が世界を成り立たせている様々の法則を「知る」ことを通して文明が生まれ、文字や暦、絵画や音楽、あるいは数学、哲学、科学みたいな学問、そういったものが発展していくのを見ることができます。
このように歴史の中でなされた人間の知恵の発展、これは、本来は被造物を正しく管理し、神さまの前で祝福されたもの、主を賛美させるものとしなければならなかったのです。
仮に、罪を知らない人の手によって歴史が作り上げられていったとしたら、エデンの園から世界に向けて、その管理者としての役割が果たされていたとしたら、どうなっていたのかと思います。どんなにか輝かしい、主の栄光に満ちた世界になっていたのではないかと思います。
しかし、罪によって主への道が閉ざされてしまった。主から切り離されてしまった。それゆえに、人間の知恵も呪われたものとなってしまい、今の世界は、主の再臨によって再び主の栄光に満ちた世界が現れることを待ち望んで呻いているわけです。
人間の知恵は祝福を失って、土地は呪われて、人は汗水たらして働いても、そこに生み出されるものには、いばらやあざみも一緒に生えたと聖書の中で書かれているわけです。それを回復させるのが今の私たちの使命だということです。

少し話が逸れてしまったんですけど、神さまが造られた世界を人間が「知る」ということを通して、人間の歴史が世界に紡ぎ出されているわけです。世界を解き明かしていくための新しい知恵・知識を求めていく、「知る」ということを突き詰めるための営みが、「生きる」という事だと思います。