2022年2月6(日)新城教会牧師 岡本信弘

ピリピ人への手紙四章一節

『ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。今日こうして、この場所に立って主のみことばを語らせていただけることを心から感謝します。
私はたまにしかここに立たないので、今朝何人かの兄弟姉妹に、「今日のメッセージ先生ですね。祈ってます!」と言っていただいて、本当に心強く思いました。皆さんのお祈りに支えられ、主の恵みによって守られていることを心から感謝いたします。

年が明けて、一ヶ月があっという間に過ぎましたが、あらためて振り返って、二〇二一年はどんな年だったでしょうか。皆さんそれぞれに、いろいろなことがあったと思います。
私は、八月に六十五歳となり高齢者の仲間入りをしました。年だけでなく、体力的にもいろいろなところに年齢を感じる今日この頃です。また同じ八月に、四人目の孫が与えられました。上の三人の孫からは、「じいじ、じいじ」と言われまとわりつかれると、時にうるさいなぁと思うこともあったりしますが、慕ってくれて嬉しく思います。
また教会においては十二月に、一昨年はコロナでできなかった様々なクリスマスの集会が、二〇二一年にはいくつか開催することができました。何度も、「伝道のチャンスですから、皆さん、伝道しましょう!」と語られ、私も何人かの方に案内をしました。
先日、開先生も話してくださったのですが、ヘブンズのクリスマスパーティープランに、シルバーの大工さんで内藤さんという方を誘いました。ヘブンズの改装にも尽力してくださった方ですが、私の友だちでもありますので、「招待するから来て」と言うと、初めは「そんな所にわしが行くもんじゃないなぁ」と言っておられたのですが、最終的には来てくださって、「こんなに素晴らしいなら、家内もつれてくればよかった」と、すごく喜んで帰って行かれました。
また水曜クリスマス祝会には、三十五年前くらいから付き合いがある、印刷機械メーカーの営業マンだった方が来てくれました。六畳一間のプレハブ小屋に初めて入れた二色機の印刷機を売りに来た人で、プレイズ立ち上げの時を知っている、数少ない証人の一人です。一緒に参加できて感謝でした。
また、二十四日のクリスマスコンサートには、取引のある銀行マンや印刷会社の営業マンたちが来てくださり、すごく喜んで、「ぜひまた来たい!」と言ってもらえたことは私にとって大きな喜びでした。
そんな感謝なクリスマスを過ごしましたが、もう二月に入りました。二月は忘れもしない「聖霊が注がれた、霊的戦いの始まった月」でもあります。

先ほど読んでいただいたみことば、ピリピ人への手紙四章一節をもう一度、お読みします。

『ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。』

今日は、このみことばを中心に、この年のために私に与えられたみことばも含め、「主にあって勝利者となる」というテーマで学んでいきたいと思います。

主にあって勝利するための条件を考えるとき、まず、「整えられ、主の勇士となる」ことではないかと思います。
「主にあって」、または「キリスト・イエスにあって」という単語は、聖書中八十回ほど出てきます。
「主にあって」とはどんな意味でしょう。辞書を引いても出てきませんが、注解書を見てみますと、「神と親しい関係の中にある者」という意味があるそうです。
世の中には「私は自分で生きている。人生は自分で切り開くものだ」と考えている人が多いと思います。しかし、クリスチャンとなった皆さんは、自分が何かをしたから生きているのではなく、主によって救われ、主によって生かされて、神と親しい関係にあるからこそ、本当の自由を手にすることができ、また喜びを手にすることができるのではないかと思います。

新約聖書中、最も多くの書簡を書いたパウロのことは、皆さんもよくご存じだと思います。と言っても会ったことはないわけですが…(笑)。彼は、主に出会ったことにより素晴らしい喜びを得ましたが、第二コリント人への手紙十一章二十三~二十五節を見ますと、数々の苦難にも遭ったことを語っています。

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。』

このような激しい苦難の中にあって、パウロはなぜ多くの異邦人を主のもとに導き、リバイバルの働きをすることができたのでしょうか。それには様々な理由があるわけですが、第一テサロニケ人への手紙五章十六〜十八節で、パウロはこのように語っています。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

この箇所は、私が二〇二二年のためのみことばとして主に与えられ、心にとどめているみことばです。賛美にもなっているので、皆さんも時に口ずさみ、よく知っているみことばだと思います。でも実際「このみことばはよく知ってはいるけれど、実行するのは無理でしょ」と思ってはいませんか。しかしパウロは、このことを実践したことで、勝利を手にすることができたのではないでしょうか。
皆さんも、「神さまの望んでいることを実行したい」、「神さまの思いに応えたい」と願っておられると思いますし、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝する生活ができたら、なんと素晴らしいことかと思っていらっしゃるでしょう。
このみことばを詳しく見ていきたいのですが、十八節の後半に、注目すべきポイントがあります。それは、『これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです』というところです。
主にあって、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝する。それがどのような意味を持つのかを見てみたいと思います。

まず十六節の『いつも喜んでいなさい』。皆さんはそう言われたらどうですか?「いつもなんて無理でしょ」と答えるのではないですか。

皆さん、今までの生きてきた中で、「あの時は楽しかったなぁ。あの時は嬉しかったなぁ」と思い返す時があるでしょう。私は昔のことはあまり覚えていないのですが、「嬉しかったなぁ~」と思い出すのは、結婚が決まった時だったと思います。若干二十二歳でした。その頃は実家のスーパー(マルイチ)で働いていましたが、結婚が決まった時に魚を切りながらも「やった~!」喜んだことは覚えています。そんな時は、心がウキウキしますよね。
一方、悲しいこと、苦しいことも時には起こります。試練に遭って苦しんだり悲しいことが起こったりするとすぐに「なぜ、こんなことになってしまったのか」、「なぜ、こんなことが起こるんだ」などと落ち込んでしまうのが人間だと思います。しかしパウロは苦難の中で、こんなことを語っています。

『このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。』(ローマ人への手紙五章二〜四節)

まずパウロは、信仰によって今立っているこの恵みに導き入れられたこと、そして、神の栄光にあずかる望みを得た喜びを表現しています。そしてさらには苦難さえも喜び、苦難があることによって忍耐が生み出され、練られた品性が生み出され、結果として希望を生み出すからだと、主にあって喜ぶことのできる幸いを語っています。
私たちも、目の前につらいこと悲しいことがあったとしても、罪が贖われ、主によって永遠のいのちが与えられているという望みによって、喜ぶことができるのです。

続いて十七節の『絶えず祈りなさい』。当然、人間的に考えたら二十四時間ずっと祈り続けるなんてことは不可能です。
この「絶えず」という言葉の語源を調べてみると、「隙間なく」という意味があるそうです。例えば、病気の子どもを抱えているお母さんなら、寝食を忘れるほど、寝ても覚めても病気のわが子のことを考え、一瞬たりとも忘れることはないでしょう。それと同じように、どんな時でも主の臨在を意識して、イエスさまと行動を共にしていることを忘れない、これが「絶えず祈りなさい」という意味の一つではないかと思います。
私たちは弱い者です。ですから、私たちの願い事を主に知っていただくことも重要です。ピリピ人への手紙四章六節でパウロはこう語っています。

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

日々の歩みの中で、不安や恐れ、悩み、苦しみに遭う時、まず私たちは、「どうしよう。どうやったらこの問題を切り抜けられるだろう。どうやったら解決できるか」と、あれこれ考えます。私も、仕事においては日常的に様々な問題が起こり、「これからどうしよう。これからどうやって乗りきろう」と、自分で何とかしようと考えてしまう自分がそこにいるわけです。しかし、ここには思い煩わないで、その時にこそまず祈ってあなたの願い事を神さまに聞いていただきなさいと教えています。
印刷会社としてプレイズの働きが始まって三十年以上になりますが、この二年間は新型コロナウイルスによって経営的にはかなり大変で、「これからどうなるかな」という不安の中にありました。しかし、皆さんにもいつも祈っていただいているので、支えられ、守られてきました。振り返ってみると、「主が私たちと共に確かにおられた」、「主が私たちの知らないところで手を差し伸べてくださって、守ってくださった」、「恵みがあった」と教えられることがたくさんあり、主に感謝する時でもありました。
人間的にいろいろと画策したとしても、失敗することが多くあります。この二〇二二年は、人に頼るのではなく、いつも主に信頼し、主と交わることを優先して、絶えず祈る者とさせていただきましょう。

そして十八節には、『すべてのことにおいて感謝しなさい』とあります。

皆さんは、どんな時に感謝していますか? 何か人からもらった時、何かいいことがあった時、嬉しいことがあった時にはもちろん感謝することができますが、それは誰にでもできることです。しかし、失敗した時、苦しみに直面している時に感謝できますか? ここでは『すべてのことにおいて』とあります。嬉しい時だけでなく、どんなにつらく悲しい時でも、『感謝しなさい』というのです。では、どうしたらつらい時でも感謝ができるようになるのでしょうか。
パウロは、このように言っています。

『あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。』(第二コリント九章十一〜十二節)

「あらゆる点で豊かになり、惜しみなく与えることによって、感謝が生み出される」と語られています。もちろん、自分の力ではなかなかできませんが、まずイエスさまご自身が実践して手本を示してくださいました。イエスさまは神の一人子であったのに人となってこの世に来てくださり、十字架にかかっていのちを投げ出し、惜しみなく自分自身を与ええることによって、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。今私たちはそのような何にも代えがたい素晴らしい救いを受けているのですから、イエスさまに倣って喜んで与える者になりたいと思います。どんな時でも十字架を見上げ、主を賛美して祈るなら、喜びが満ちあふれます。そして、力を受けて豊かになり、惜しみなく与える者となり、サタンに対抗できる主の勇士となると私は信じています。

そして、「主にあって勝利する条件」のもう一つは、皆が一致して戦いに挑むことです。
あなたは、「自分は強い」と思っていらっしゃるでしょうか。多くの方が「私は弱い」と思っておられるのではないかと思います。しかし、「私は弱い」と思い続けていてはサタンに勝利することはできません。
「今年は復讐の年となる」と順先生が語られています。「復讐」とは、「かたきうちをする。仕返しをする」と辞書にあり、それは「一度負けた者に対して報復する」という意味があります。人類の最初の敗北は何ですか。神さまは人を造り、人のために素晴らしい楽園を造ってくださり、人との祝福された交わりを準備しておられました。しかし、人は神に逆らい神との約束を破り、そしてサタンの策略に負けてエバが罪を犯して以来、神と人との間に、また人と人との間に隔ての壁ができてしまいました。これこそが最初の敗北であり、大きな問題でした。そしてそのことによって、この地上がサタンの支配下に移されてしまったのです。神さまの人類に対する最大のミッションは、壁によって断絶されてしまった神と人との交わりを回復することです。
エペソ人への手紙二章十四〜十五節は、こうあります。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

イエスさまが人類の敗北を回復するために、十字架上にいのちを投げ出し死んでくださったことにより、神と人、人と人との間につくられた隔ての壁を打ち壊してくださいました。ある意味ではサタンへの復讐のために立ち上がられたのです。

私は野球が好きなので、試合を見たり情報番組を聞いたりします。そんな時解説者が、「野球は守りで決まる。守りが重要であって、0点で抑えたら負けることはない」と言うのをよく聞きます。それは真実だと思います。しかし、どんなに素晴らしい投手が0点で抑えていても攻撃側が一点も入れることができなければ、引き分けにはできても勝つことはできません。当たり前のことです。
私たちの人生においては引き分けはありません。つまり勝つか負けるかです。先週も順先生が、「人は、神の王国か悪魔の王国のどちらかに属さなければならない」と語られていました。
ローマ人への手紙八章三十七節にはこうあります。