2022年2月20(日)新城教会牧師 上條実

第一コリント人への手紙11章24節~25節
『感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」』

第一サムエル記10章7節
『このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』

ハレルヤ!こうして今日、皆さんの前に立ってみことばを語ることができることを心から感謝します。いつも私と家族のためにお祈り下さり支えていただいていますことを心から感謝します。
私も一昨年の十月に心臓の上の上行大動脈溜の手術をいたしました。しかし月日が経って、守られていることを感謝します。しかし、田舎に住んでいることもあって、移動ですぐに車に乗ってしまうので、この間もとりなしに出かけ、小高い山というか、丘に登ったのですが、以前なら簡単に息も上がらず走って登れたのですが、はぁはぁと、息切れして、自分の体力の無さを覚えました。体力がつくように運動しなくてはと痛感いたしました。
またお祈りいただいております家内の方ですが、守られております。先週の水曜日に病院にかかりましたが、変わりなく、正直言って低空飛行ではありますが、お祈りを感謝します。

それでは、今日もみことばを学んでいきたいと思います。早いもので二〇二二年も今日で二月二十日ですから、一ヶ月半過ぎました。人生って早いなぁと思います。しかし、今日まで守ってくださった主に感謝します。教会を守ってくださったことを心から感謝します。主は私たちの教会に「復讐の年」だと語って下さいました。今まで暗闇の力に押さえつけられ、やられてしまった所に、「復讐」して下さると語って下さっています。今年主はどのようにして下さるかワクワクして期待しています。
自分が個人的に、今年のために与えられたみことばは、詩篇十八篇二十九〜三十五節です。それを分かりやすく書いたリビングバイブルで読んで見ましょう。
『今や私には、どんなに高い城壁でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。なんとすばらしい神様でしょう! 神様はあらゆる点で全く完全です! そのお約束がすべて真実であることは、明らかです。その背後に隠れる者には、盾となってくださいます。私たちの主のほかに、だれが神でありえましょう。だれが不動の岩でありえましょう。主は私に力をみなぎらせ、行く先々でお守りくださいます。私の足を、岩山ででもしっかり立つ野やぎのようにし、絶壁の上をも安全に導いてくださいます。戦いに備えて私を鍛え、鉄の弓さえ引く力を与えてくださいます。主の救いは私の盾です。ああ主よ。 右の御手が私を支えています。主のご温情のおかげで、私は名の知れた者となりました。』

このみことばを与えて下さいました。主に心から感謝しております。今までどんなに戦ってもはねのけられてしまって敗北していた自分がありました。しかし今年は復讐の年、そして三十節にありましたように、『なんとすばらしい神様でしょう! 神様はあらゆる点で全く完全です!』主は完全だ!私の神は完全なお方であると信じ、敗北の人生ではなく、必ず勝利を与えてくださる「完全な方」であると信じて、今年進んで行きなさいと主が教えてくださいました。

二十九節をもう一度読みます。

『今や私には、どんなに高い城壁でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。』

とあります。今まで家内のために祈っておりますけど、日に日にできないことが大きくなり、目の前の城壁を見て登り掛けても、険しく、高くて乗り越えることができませんでした。しかし『どんなに高い城壁でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。』とあります。今までよじ登ることのできなかった、高き城壁もよじ登ることができる。そして悪魔悪霊の力が強かったとしても、それを打ち砕くことができる力を私に与えて下さる。主は完全なお方だということを教えられ、今年は神さまが我が家にも、教会にも勝利を下さるというのです。
去年は滝元順牧師の奥様である享子先生の膵臓がんが癒されたという、普通の常識ではありえない、いやしの証しをお聞きし、今年の一月十九日の礼拝では、ご本人の口から、主のみわざをお聞きすることができました。享子先生の神は完全であり、そして、私の神も同じです。ですから今がどんな状況であっても、主は完全に解決してくださる。高い城壁も乗り越えることができ、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられるというのです。
また三十三節には、『力をみなぎらせ、行く先々でお守りくださいます。私の足を、岩山ででもしっかり立つ野やぎのようにし、絶壁の上をも安全に導いてくださいます。』とあります。今まで戦いの中で足を取られてしまうようなゴツゴツした岩山で、足を取られてしまっていた、負けていたところを、今年は必ず安全に勝利に導いてくださる。
また三十四節『戦いに備えて私を鍛え、鉄の弓さえ引く力を与えてくださいます。』とあります。戦いの力を与えて下さる。
そして三十五節「主が盾となり私を支えてくださる。」とあります。主が盾となって守り、『主のご温情のおかげで、私は名の知れた者となりました。』とありますが、「名の知れた者」とあります。私たちは何もできない者ですが、主が完全であり、勝利を与えて下さり、悪魔の陣営の中で「新城教会の上條という奴には気をつけろ!」と噂になるほどの勇士になれる。また上條さんの周りに素晴らしい勝利、いやし、奇跡が起きた!と噂になるほど主の栄光が現れるようにして下さると言うのです。今年は復讐の年です。どんなことが起きるのか期待する事ができる、そういうみことばを今年頂きました。

そんな中で、先ほど司会者に読んで頂きましたみことば、第一コリントの十一章二十四節から二十五節を学んでいきましょう。これは皆さんもよくご存知である聖餐の時に読まれるみことばです。もう一度お読みします。第一コリント人への手紙十一章二十四節~二十五節、

『感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」』

このみことばはイエス‐キリストが、十字架にかけられる前夜の出来事です。「聖餐式で食するパンはイエス様の体であり、飲むぶどう酒はイエス様の血における新しい契約である」とあります。マタイによる福音書では、「聖餐式のぶどうジュースは私の血である」とイエス様は教えておられます。聖餐式は、旧約時代には大規模な生け贄儀式が行われないと、神との正式な契約には至らなかったのですが、イエスさまが十字架で血を流し、ご自分を神の前に、生け贄としてささげてくださることによって、古い契約が、新しい契約と置き換えられたのです。素晴らしい契約の時、素晴らしい恵みの時です。この聖餐を学んでいくととても深い意味がありますが、今日は私に神が語ってくださったことを語らせていただきます。
二週間前に岡本先生がみことばを語ってくださいました。私はその時二週間後に今度は自分がメッセージを語らなくてはいけないので、主に「二週間後何を語ればよいのでしょう」と祈りつつメッセージを聞いていました。その日岡本牧師は「主にあって」というタイトルから、第一テサロニケ人への手紙五章十六〜十八節

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

というところから語って下さいました。そして、メッセージの後、滝元順牧師が第一コリント十一章二十四節から二十五節を映し出して、読んで下さいました。その時、不思議な体験をしました。突然「わたしを覚えて、これを行いなさい。」というみことばだけが光って心に飛び込んで来ました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」というテーマで語りなさい。と教えてくださいました。そして何を語ったよいか、メッセージを組み立てて教えて下さいました。とても不思議な体験でした。今日はそのメッセージを皆さんで学んでいきたいと思います。
一つ目は聖餐を「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と教えてくださいました。
今新型コロナウィルス蔓延の為、教会の礼拝で聖餐式ができず、各家庭で聖餐式を行っています。先ほどもみことばをお読みしたように、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」とありますが、礼拝後、昼食を目の前にして聖餐を頂こうとするとき、私だけかもしれませんが、注意力が散漫になり、礼拝時の臨在と主を覚える時と雲泥の差で、主を軽く考えてしまっているなぁと教えられました。十字架という最高の犠牲を払ってくださったにもかかわらず、お昼ご飯を前にしているとでは、大きな差があると教えられました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」イエスさまの犠牲、私たちに与えて下さった最高の十字架の愛を覚え、心から感謝しつつ、聖餐を頂かなくてはいけないと教えられました。
去年の六月ごろ、私が夜就寝している時、夢かなんだかわかりませんが、突然声が聞こえました。「手当たり次第なんでもしなさい」という言葉でした。わたしはビックリして忘れないように、携帯電話のメモ欄に入力し、再び寝ようと想いましたが、あまりの鮮明な声でビックリしてなかなか寝付けませんでした。そして確か「手当たり次第なんでもしなさい」ということばはみことばにあり、ざわめきの賛美にもなっていたなぁと思い、聖書を開いてみました。やはり第一サムエル十章七節にそのみことばがありました。六節から読んでみますと

『【主】の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。』
主の霊が激しく下る時、あなたは新しい人変えられる。その印がおきたら、手当たりしだいに何でもしなさい。神がともにおられるからだ。というみことばでした。今日聖餐を頂くとき、聖霊に満たされ、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と教えられました。主の完全さを信じ、霊に燃えて主を覚えて聖餐を受けなくてはいけないと教えられました。

エペソの手紙五章一節、このみことばを皆さんで一緒に読んでみましょう。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

すばらしいみことばです。ここでパウロが使っている「ならう」というのは、ギリシャ語では「μιμηται(ミメィタイ)」と言う単語を使っています。この意味はギリシャ語では、「模倣する」とか、「真似をする」という意味だそうです。「物まね」とか「日本人は模倣することが上手だ」という言い回しで使う「まねる」という言葉が使われているというのです。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

このみことばを、イエスさまを基準にして考えると、到底自分にはできない高尚な生き方と感じてしまいます。しかし「μιμηται(ミメィタイ)」の意味は「まねしなさい」です。みんなのために十字架にかかって犠牲にならなくてはいけないとかではありません。「神にならう者となりなさい。」とはまねることだと教えられました。そう考えるとすごくハードルが下がったような気がします。「手当たりしだい、わたしを覚えてこれを行いなさい。」「真似しなさい」と神さまが言っているならできるような気持ちがしました。
滝元順牧師が享子先生のいやしの証を聞き、また今年に入って一月十九日の礼拝で享子先生自ら語って下さったように、毎食薬を飲む前に聖餐式を行ったと伺いました。抗がん剤のS-1という、普通では効くことがあまりないと医師から言われた薬でしたけれども、主を覚えて、聖餐を頂いた時、ありえないことだそうですが、見る見るうちに癌が小さくなって、CTやMRIなどの画像では見えなくなり、手術までおこなうことができた。本当に不思議なことが起きました。主がいやしてくださいました。主を覚えて聖餐式を行い、薬を飲み続けたとき、奇跡を表してくださいました。手術を行い、大きな手術でしたのでまだまだ本調子ではありませんので、お祈りいただきたいのですが、主が栄光を見せてくださった。
私もそれを聞いて、すごく励まされました。そして私も真似して毎食後、聖餐をしていました。しかし家内が調子を崩し、「なんで毎回聖餐をしなくてはいけないの?」と言ったので、その後聖餐をやめてしまいました。私は滝元順牧師の真似をしていたから続かなかったと思います。そうではなく、「わたしを覚えて、これを行いなさい。」イエスさまに対して真似をしていくということが、本当にすごく大事だ、行っていくことが大事だとを覚えて行っていくことがすごく大事だと教えられました。 ヤコブ一章二十二節、
『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』

とあります。ここで「みことばを実行する人になりいなさい。」「みことばを実行しなさい。」とあります。続けてルカによる福音書五章一節〜七節をお読みしたいと思います。

『群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。』

ここでペテロはイエスキリストの言われたことばを実行しました。夜通しゲネサレ湖で漁をし、何の収穫もなかったペテロたちは、徹夜して漁をして疲れ果てた状態で、網を洗い、網を繕って、片付けようとしていました。彼らは漁師でした。魚がいつとれるか知っていたので、夜に漁に出かけました。ゲネサレ湖は彼らにとって庭みたいな漁場でした。そんな専門家である彼らが夜通し働いても何も収穫がなかった。そんな状態のなかで、イエスさまがシモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれたのです。そして、イエスはすわって、舟から群衆を教えられた。そして話が終わってから「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ、シモンは「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言って網をおろしました。すると昼間に何と、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼み。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。とあります。

『ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。』

μιμηται(ミメィタイ)は、「模倣する」とか、「真似をする」という意味だと言いました。まねるという言葉が使われていると言いました。無理だと思っても主が語っておられることを行うときに祝福があります。主を覚えて、真似をする。その時主は勝利をくださると教えられました。
今日も礼拝後、家に帰って、またインターネットで見ていらっしゃる方も、礼拝後に聖餐を受けると思いますが、いつものようにただ形だけの、パンを食べ杯を飲むのではなく、今日は主を覚えて行いないましょう。十字架という最高の愛と犠牲を覚えて、聖餐を頂きましょう。厳粛な思いの中で聖餐を頂きましょう。主が働いてくださいます。病も、どんな問題も、一向に動かなかった状況も、必ず主がその中で動かしてくださり、勝利を下さることを信じていきましょう。

そしてもう一つ私に主が語ってくださったことは、戦うということでした。霊的戦いをもっと行いなさい。戦いましょうということです。いつもみことばと証を聞いて戦わなければいけないと思っています。

週報の今週のとりなしのテーマ欄に『「日本」のために祈りましょう』とあります。今週の水曜日、二十三日は令和天皇の誕生日です。ただ休日だからゆっくりしようと思わないで、戦いましょう。とりなしましょう。宮中や各地域にある神社で誕生を祝う天長祭があります。私たちの地域は国家神道だと悪魔悪霊は呪いをかけてきます。また一九八九年の二月二十四は昭和天皇の葬儀が国を挙げて行われました。天皇制を通して置いてきている暗闇が打ち破られ、日本を覆う暗闇が打ち砕かれ、また天皇家の救いのためにも祈りたいと思います。
また今まで、霊的戦いの生きた勝利の証しを聞いてきました。見てきました。霊的戦いで、全く動かなかった大きな問題、苦しい状況から解放されて、すばらしい恵みを頂いた方々を私たちは、まじかに見たり、聞いたりしてきました。しかし日本のことわざの中に「絵に描いた餅」という言葉があります。

意味は「役に立たないことや実現する見込みがないこと」ということらしいです。人が戦って、素晴らしい祝福を頂きました。私たちはただ羨ましく思いますが、自分の問題は全く動かない状態であるかもしれません。霊的戦いは分かるんだけど、動かないのが現実だと思います。絵に描いた餅で、戦ったらこんなに素晴らしいことが起きるとわかっていても、現実には頂いていない。「主は完全だ」と今年与えられましたが、絵に描いた餅のように、「役に立たないことや実現する見込みがないこと」現実には戦ったら良いことが起きるけど、実現する見込みがない状態です。
「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と教えられた時、示されたのは、「戦わなかったら絶対に勝利が来ない」ということです。絵に描いた餅をいつまでも見続けるだけで、ただ実現しないで終わってしまいます。だからあなたはもう一度気を引き締めて、神の武具を身につけて、戦いなさい!主に語られました。あきらめていませんか?
絵に描いた餅ではなく主は完全だ。みことばは絶対、一点一画変わらない。必ず実現する。あなたが戦わないと勝利を得ることはできませんよという事です。戦っていくとき勝利が来ます。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」主を信じて戦いなさい。主は完全です。諦めずに、気を引き締めて、みことばの剣を持って戦って行きなさい。と教えています。

先週の礼拝のみことばは、本当に恵まれました。『〜2022年〜 「それは主の復讐の年」背後の戸を閉め、油を満たせ!』というタイトルで滝元順牧師が語って下さいました。以前も教えて頂いたのですが、「後ろの扉を閉めなさい」という事を教えられました。毎日のように債権者がやって来て「金を返せ!返すことができないなら、子どもたちを奴隷にする!」と脅していました。しかし家の戸が開いていたら債権者がたやすく入って来て、せっかく増えた油も、子どもたちも、一瞬にして持ち去ってしまう。当時、油は高価なものでした。油と共に、子どもたちも奴隷になったはずです。そうならないために、「戸を閉めろ」と告げたと語られました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」後ろの扉を閉め、聖霊の油注ぎをいただいて、その油注ぎの中で戦った時に、絵に描いた餅ではなく、確かに自分で味わうことのできる「あぁ、お餅ってこういう味なんだ。」と分かるような勝利を体験できる。だから聖霊に満たされて、聖霊の油注ぎを頂いて、みことばの剣をもって戦え!戦ったら、必ず勝利を頂ける。以前は、負債あり、悪魔の奴隷にならなくてはならないものでした。しかし後ろの扉を閉めて、戦え!Ⅱ列王記四章七節