2022年3月6(日)新城教会副牧師 滝川充彦

詩篇46篇1節
『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』

ゼカリヤ書9章12節〜13節
『望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日こうしてこの場に立たせていただいて、みことばを皆様と共に神さまから受け取っていくことができることを感謝します。本当にただただ皆様のお祈りに支えられて、このような場所に立たせていただいていることを覚えて、本当に皆さまの熱い祈りを心から感謝申し上げます。
三月に入り、だいぶ暖かくなり、春めいてきて、何か新しいことがこの被造社会の中でも始まろうとしている中に、私たちもこれから主が新しいことをしてくださると期待して、今日の礼拝を守っていきたいと願わされております。

しかし、この現実の社会を見てみると、やはり心を痛めるような状況、苦しみ悲しみというものが私たちの身のまわりに取り巻いているのが現実であります。
 皆様もニュースでご覧になっている通り、ウクライナ情勢のニュースを見ると、その戦争の悲惨さに私たちは本当に心を痛めると思います。これはウクライナの地下鉄の場所をシェルター代わりにして地下に潜って爆撃から身を守るというようなことをされている様子です。本当に一日も早く、一刻も早く戦争が終わるように、私たちはこれからも祈り続けていきたいと思います。
また今週は三月十一日を迎えます。二〇一一年の三月十一日に、東日本大震災が起こりました。マグニチュード9という日本国内で観測史上最大規模といわれるような大地震によって津波が起こって、多くの方々の命が奪われることが起こりました。未だその地は傷んで、人々が傷んでいる現実があります。
ある避難所に避難していた方は、避難所でありましたが津波が押し寄せて、避難されていた方々が亡くなってしまったということもありました。
またコロナウイルスに関しても、まだまだ終息する見通しが立っていないような現状があり、本当に私たちの現実の社会において大きな痛みがあり、悲しみがあり、苦しみがあるわけです。コロナウイルスからも私たちは逃れることはできないですし、私たちは様々な危険が存在する世の中に置かれているということは現実であります。

子どもたちも聞いていますので、少し気分を変えて、クイズを出します。では、「口の中には細菌が何個いるでしょうか?」結構多いですよ。なんと大人で歯をよく磨く方でも、二千億個ぐらいの、色々な菌がいるらしいです。私たちの口の周りには菌がいっぱいあるわけです。

ではこれはどうでしょうか。皆さんスマホを今、持っていますか?このスマホにも雑菌がいっぱいあると言われます。すごくたくさん菌がいるそうです。ではこの雑菌はどれくらいかをインターネットで調べたら、こんな比較がありました。
 トイレの便座の十倍!はい、こんな菌に私たちは取り囲まれている、コロナウイルスにも取り囲まれている。またこの社会の中には戦争もあります。また自然災害もあります。また時には病気になり、また怪我にあったり、また交通事故など、いろいろな危機に直面し、またその危機に遭う可能性が私たちにはあるわけです。それが私たちが生きているこの現実社会であります。
そのような社会、またこのような時代、日本において、また海外において、どこに私たちがいたとしても、私たちには素晴らしい避け所がある。シェルターがある。そのことを今日覚えていきたいと思います。それは詩篇四十六篇一節ですね。

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』

この「避け所」というのは、「マハセ」という言葉が使われおり、避難所だとかシェルター、また雨や嵐、危険や詐欺、だましごとからの避難、また守りというような意味合いがあると言われます。本当に今このような時代の中で、全ての人々に真の避難所、シェルターというものが必要であるということを覚えさせられています。
この詩篇四十六篇は、二〇二二年の預言的メッセージの中でも私が語らせていただきましたけども、今日はこの四十六篇全体を皆様とともに神さまから受け取っていきたいと、そのように神さまから備えられております。

またちょっと話は変わりますが、ある先生が一つの話をしていました。それは、ロッククライミングの話です。ボルダリングとかやられる方もおられるかもしれませんけども、この断崖絶壁の岩を上っていくわけです。このロッククライミングに関するあるお話です。
 本当の話かどうか分かりませんが、このロッククライミングを、ある一人の方がこの断崖絶壁を上って行きました。そしてあたりがだんだん暗くなり、霧が立ち込めて視界が悪くなってきてしまいました。その時ふいに足を滑らせてしまいます。そして断崖絶壁を急降下してしまうのです。しかし、幸いにも命綱があり地面に叩きつけられることがなく宙吊りの状態で留まりました。でも急降下したので気を失ってしまいました。そして気がついてみると辺りは真っ暗、霧が立ち込めて、周りは何も見えない状況で。自分はもう生きているのか死んだのか分からないような状況でした。
ではこれからどうしようか。不安と恐れでいっぱいになりました。周りは何も見えないわけです。そしてあるのは細い一本のロープだけ。そのロープが命綱だったわけです。最も頼りになるものでした。そんな不安な中で過ごしていると、ある細い声が聞こえたと言うのです。それは何かと言うと、「ロープを切れ。」と言うのです。命綱のロープを切ってしまったら地面に叩きつけられて死んでしまうかもしれないのに、「ロープを切れ。」と言うのです。
皆さんだったらどうですか?ロープを切りますか?切れないですよね。私は絶対切れないですね。ロープにしがみついていると思います。
その方もロープを切れなくて、そして夜が開けて陽が昇り、辺りが明るくなって周りが見えるようになりました。そして気がつきました。なんともう地面まで、すぐまでのとこまで下がっていたのです。ロープを切ったところで、ぽんっと着地できるような、そんな安全な場所まで下がっていたわけです。ロープを切っても大丈夫でした。ロープを切ったら早く脱出できたわけですが、周りの状況、困難な状況にばかり目が留まってしまって、その声に従うことができませんでした。その声にある意味、信頼できなかったということであります。
私たちは、時に起こっている周りの状況に目が留まり、主に信頼できず、主が避け所として私たちにと共におられる、詩篇四十六篇一節には、『そこにある助け』、もうそこに神さまの助けがある、避け所があるにも関わらず、主に信頼できずにその避け所を見出せない。そんなような時が時に私たちにはあるかもしれないですね。私たちは主に信頼する者となり、避けどころである主を見出していきたいと思います。
この避け所という言葉のマハセの語源には「避け所を求める」「保護のために逃げる」という意味合いがあります。つまりその背後には、「信頼」という意味合いが隠れているわけです。
この詩篇四十六篇のテーマの背景には、「信頼」という大きなテーマがあります。私たちは、このような困難な時代の中にあって、天地万物を造られた創造主、救い主、癒し主、助け主、奇跡を行うことができる主を信頼していきたいと願います。
困難、苦しみに会う時、信頼するということは難しいことですが、今日避け所がそこにある、私たちのそばにあると覚えて、主に信頼する者となっていきたいと思います。

この詩篇四十六篇の表題、「指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌」とありますが、「アラモテ」とは、「乙女たちに合わせて」、そんな意味合いがあるそうです。神殿の合唱隊であったら、ボーイソプラノのようであったかもしれないと言われます。この詩篇四十六篇、主への信頼を歌った美しい賛美であったと思われます。
またこの「アラモテ」というのは、第一歴代誌十五章二十節でも出てくるのですが、『十弦の琴を用いてアラモテに合わせた。』とあります。この素晴らしい神さまへの「主に信頼します!」という賛美であります。主に信頼していきましょう。

詩篇四十六篇を元に「神はやぐら」という賛美歌が作られています。これは、宗教改革に関わったルターが作ったとされています。この讃美歌を心の支えにして宗教改革を戦い抜いた信仰者がいたというわけです。このルターが、「人が神以外のものに心を寄せることは、それはすべて偶像礼拝である。」と、すごく厳しいような言葉を残したと言われます。
人が神以外のものに心を寄せるのはすべて偶像礼拝、それはどういった本来の意味合いがあったかと言うと、彼が「偶像」という言葉を使う時には、それは被造物を意味すると言われていました。被造物は神さまが造られたものです。その被造物は永遠に続かないですね。この春の季節、新しい芽が出て、もう梅も咲いていますし、これから桜も咲いていきます。花を咲かせて、そして実をならせて、そしてまた散っていく。そして最後には断ち枯れていくというものが、この被造社会、被造物です。永遠には続かないわけですね。星々も美しいですけども、最後は朽ち果てていくわけです。
ルターが言いたかったのは、そのような朽ちていくようなものではなくて永遠に続く、絶対的な主の主、王の王である神さまご自身に頼ること、信頼することが大切である。それ以外の朽ちていくようなものに頼ることは偶像礼拝と繋がっていく。そのような意味合いをもって言ったのではないかとも言われます。
私たちはこの主の主、王の王、天地万物を造られた創造主、主に信頼することができる、この恵みがあります。私たちはその主に信頼していきたいと思います。それゆえにこの詩篇四十六篇の作者は、二節〜三節で、

『それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ』

こんなふうに主に信頼することを大胆に告白しています。「どのようなことが起こったとしても、この被造社会の中でどのようなことが起こったとしても私は主に信頼する。主が避け所だ。」と歌っております。主に心から信頼していきたいと思います。私たちの主は創造主である父なる神さまです。

少し話は変わりますが、私には子どもが三人います。とても可愛い子どもたちです。先ほども素晴らしい賛美を捧げてくれました。感謝します。その私の娘が二歳ぐらいの時だったのですが、ある時に娘と二人きりになった時間があり、「パパのこと好き?」と二歳の娘に聞きました。そうしたら、私は「好き」と言ってくれるのを期待していたわけですね。しかし返ってきた言葉は、「うーん、嫌いじゃないよ。」と言いました。嫌いじゃないということは好きってことか、どうだろう…と、そんなことを今でも覚えています。父親の心としては忘れられない出来事であります。
父なる神さまは子どもに対して、自分を信頼してほしい、好きであってほしいと思っているはずです。私たちの神さまは良い方で、父なる神さまです。本当に私たちが信頼し得ることのできる素晴らしい方ですから、今日、私たちは、神さまを信頼していきたいと思います。

話は詩篇四十六篇に戻ります。七節、十一節を見たいと思います。

『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』

この「とりで」というのは、高い所、やぐら、安全な高台、高く上げられた安全な場所、逃れ場という意味合いがあります。
この「とりで」ということで、イスラエルで思い出す場所があります。それは「マサダ」という所です。
 これはヘブル語で「要塞」という意味で、天空の城とも言われました。ユダヤ人がローマ帝国に対して蜂起したユダヤ戦争において紀元七〇年に、約千人のユダヤ人がこのマサダに立てこもりました。高台の難攻不落の要塞でありました。ローマ軍は一万五千人で攻めて行って、ここを陥落させるのになんと三年半かかりました。この高く上げられた場所、それが要塞ですが、この安全な場所で、ローマに対してユダヤ人は戦ったということです。
この「とりで」という言葉の語源は「上げられる」という言葉であり、「高い所」という意味があり、上げられた安全な場所となるわけです。
ここでイエスさまに目を向けていきたいと思います。イエスさまは、まず天からこの地上に神として人として来られ、私たちの罪の身代わりとなり十字架にかかって贖いを成し遂げてくださいました。死と暗闇、どん底まで下りてくださいました。サタンの領域、死の領域まで下りてくださって、そして死の力を打ち破り、よみがえられて、今は神の天の右の座につかれておられる、高く上げられたイエスさまがおられます。この下られたイエスさま、高く上げられたイエスさまということを見ることができます。
エペソ人への手紙四章九節〜十節、

『この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです‐‐』

とあります。それは十字架のイエスさまの尊い贖いゆえですね。ピリピ人への手紙二章八節・九節、

『自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』

このような十字架の贖いが私たちには与えられています。それゆえにエペソ人への手紙二章五節〜六節、

『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、‐‐あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです‐‐キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』

イエスさまが天に上げられた所、その所に私たちも共にすわらせてくださるわけですから、私たちの避け所、逃れて行く場所というのは、この地上のシェルターのようなで場所ではなく、天上にあるということです。そして私たちはこの天上の神の恵みというものを、この地上にあってもうすでに受けている者であります。詩篇四十六篇に戻ります。四節〜六節、

『川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。』

この所は、ヨハネの黙示録の二十二章一節・二節を思い出させます。

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。』

とあります。私たちの避け所は主ご自身であって、それは天上の主の都に住まうかのようです。そこにはいのちの川が主のみ座から流れているのです。そのいのちの水を私たちはいただいて、この地上にあって、私たちは天上のいのちで満たされていく、毎月、実が与えられて、その木の葉は諸国の民を癒したという癒しが私たちに伴うのです。私たちはこの主に身を避けていく中で、神さまのいのちと恵みで満たされて、また癒しを受け取ることができる者であるということを受け取っていきたいと思います。