カウントダウン・ワーシップ

ビックリしました。その時の写真がこれです。
ニホンカモシカが、私のほんの二、三メートル前にいました。この彼か彼女か分からないですけど、逃げないんですよ。全く逃げようとせず、ガチでにらみあうような感じになったんですけど、でもなんかあったらいけないなと、私はちょっとだけ後ずさりしつつ、彼の横を通り過ぎました。そのニホンカモシカは、聖書に出てくるカモシカとは違ったおっとりとした性格らしいのですが、聖書の中に出てくるカモシカを山の上で調べたところ、こんなみことばがありました。歴代誌 第一 十二章八節、

『また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。』

と書かれていました。ダビデ王様が、サウルの手から逃げて荒野の要害で生活しているような時に、多くの勇士たちがそこに参戦して、彼を助けるために、どんどんどんどん集められてきました。そして彼らの顔というのは、獅子のような顔で、そして早く走るのは山のカモシカのようであったと。カモシカのように本当に足の速い、その戦いの勇士たちがそこに集められたと書かれています。
このコロナで動けないというような状況の中でも、神さまが成されていることというのは、私たちの思いをはるかに超えて、すごく早いことを体験させていただいています。私たちの思いよりも早く進まれ一歩一歩、まさかここまで行くかなというようなことが、どんどんどんどん主のみ業は成就しています。そして究極的に成されることは、その敵の力を打ち砕いて、イエスさまの帰られる道を備えるための働きであり、そしてまだイエスさまを信じていない方々に、本当に主の福音を届けるという働きを主はされておられます。私たちはそのような中で、一人ひとりが今まで以上に主のスピードに付いて行かなければならないのです。
イエスさまご自身の二〇二二年の計画は、私たちの思いよりずっと早く主の働きが待ち受けていると思います。ですからカモシカのように、それぞれ主にあって走り始めなかったらいけない、そんな時が来ているのではないかと、そのように受け止めさせていただいています。
そんな中で、私たち一人ひとりが主のために戦う戦いの戦士でありたいと心から思います。

もう一箇所、聖書を開きたいと思います。エレミヤ書五十一章二十節、

『あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。』

神さまご自身がこの二〇二二年は、さらなる主の戦いを進め、主が始めてくださった新しい戦いの領域において、神さまは私たち一人ひとりに、『あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。』と、そうおっしゃっておられます。
特にこの中で、『あなたはわたしの戦いの道具だ。』と、書かれていますが、私たち一人ひとりが何かをするのではないのです。私たちは戦いの道具なので、主の手に握られるか握られないかが重要であり、戦いの道具そのものが一生懸命頑張って何かするわけでもなんでもなく、神さまご自身が私たちを握ってくださって、そして私たちはその神さまの手の中で事をするので、自分が何かあるからとか、何もないからは問題ではありません。また、自分で、「さあこれから何をしよう。これをしよう。」というものではなく、神さまご自身から始まって、神さまご自身によって握り締めていただいて、神さまご自身によって事が成し遂げられると、結果すべての栄光は神さまご自身に向かいます。
私たち人間は弱い者で、何かを成した時に、さも自分がしたかのような、本当に愚かな錯覚を覚えてしまう者ですけども、そうではなくて、本当に私たちは主のための「戦いの道具」に過ぎないものであると、そんな思いを持って、この二〇二二年、歩んでいかなかったらいけないと思わされています。
神さまがこの年与えてくださったこのみことば、創世記四十九章二十二節、

『ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。』

神さまご自身の働き、必ず私たちの思いを越えて、あらゆる領域の垣を越えて行きます。しかも、さらにスピードアップして、主の働きが進んでいきますので、そのことを信じて、本当に戦い続ける者でありたいと心から願います。私のメッセージはここまでにさせていただきます。ハレルヤ!

 


≪≪滝川充彦 副牧師≫≫

ハレルヤ!今日こうしてカウントダウンワーシップにおいて、みことばを皆さんと共に分かち合う時が与えられていることを心から感謝します。
私がこの二〇二一年に与えられたみことばは、第二サムエル記の六章からでした。ダビデが契約の箱をダビデの町に運び入れる時に、彼が王服を脱いで力の限り喜び躍って賛美し、箱をお迎えした。その箇所からでしたけれども、私たちは神の民として、主の栄光を覆ってしまうような、自らの王服を脱いで、そしてダビデのように祭司として亜麻布のエポデをまとって、モルデガイのように主の権威を伴う王服を主から着せていただいて、主の前にへりくだって、ただただ主に従い、そして力の限り主を賛美し、主をお迎えしていく、そのようなことを語らせていただきました。今年、二〇二一年、私自身の歩みを振り返ってみて、神さまご自身が私に新しい服をたくさん着せてくださったのかなと、そのような印象があります。
特別、私自身が求めたことではなかったのですが、図らずも、主ご自身が副牧師という新しい服を着せてくださって、さらに主に仕える者とさせてくださる、ということがありました。それはただただ、皆さまの愛とお祈りの支えによるものだと思っております。本当に心から感謝申し上げます。

では二〇二二年に対して、私自身が神さまから示されているみことばをお分かちしていきたいと思います。それは詩篇四十六篇一節、

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』

そして七節と十一節、

『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』
神さまご自身は、私たちの避け所であり、またとりでであるということです。
十二月八日の水曜礼拝において、この詩篇四十六篇全体から、私はみことばを取り次がせていただいたのですが、その時期にこの箇所を読んでいたとき、みことばが私の目から体の中に飛び込んでくるような、とても強い印象を受けました。
このみことばに触れられて、私の思いの中で、これは二〇二二年、来年に向けてのみことばであるかもしれない。そんな思いが与えられました。きっと主が語ってくださったのだと思います。ですからこのみことばを今晩、皆さまと分かち合っていきたいと思います。

まず詩篇四十六篇一節を見ていきたいと思います。『神はわれらの避け所』の「避け所」という言葉は「マハセ」という言葉が使われています。「避難所」「シェルター」という意味があります。雨や嵐、危険や詐欺、また騙し事からの避難、またそのようなものからの守り、そんな意味合いがあるのですが、その言葉を更に学ぶと、語源には、「避け所を求めていく。保護のために逃げていく。」そんな意味合いがあるこが分かります。
この「マハセ」、避け所という背後には、「神さまへの信頼」というテーマがあります。例えば、病気になったら病院へ私たちは駆け込むわけですよね。なぜならば病院へ行ってお医者さんに診てもらえば病気が治るというお医者さんへの信頼があるからです。私たちも主への信頼があるがゆえに、主なら助けてくださるという信頼があるゆえに、主のもとに駆け込むわけですね。その時に主ご自身が私たちの避け所になってくださる。そのような意味合いがあります。
私たちの神さまは天地万物を造られた、創造主であって、全能の主であります。また救い主、いやし主、助け主、奇跡を行う方、この主に私たちは信頼して、私たちの身をただ寄せていけばいいのです。その時に主が私たちの避け所となってくださり、私たちを完全に守ってくださる。そのような約束のみことばであります。

この詩篇四十六篇を元に、「神はやぐら」という讃美歌が作られたそうです。その讃美歌は、宗教改革の時に、多くの宗教改革に携わった人々を励ましたと言われます。そして宗教改革をもたらしたルターが作ったと定説となっている曲であります。このルターが残した言葉の中で、“人が神以外のものに心を寄せるなら、それは全て偶像礼拝である。”そんな厳しい言葉がありました。
しかしその意味合いを見ていくと、彼が「偶像」という言葉を使う時には、被造物を意味するそうです。この被造物、主が造られたもの、山や木々や、鳥や海、空、星々、本当に美しいものでありますけども、それは素晴らしいものでありますが、永遠に続いていくようなものではないですね。変化するものです。そして衰えていくものです。絶対的な存在ではない。本当に信頼しきることのできる存在ではないわけです。
しかし私たちの主はそれを創造された創造主、そしてアルファでありオメガであり、初めであり終わりです。万物の創造者、完成者、絶対の方です。本当に信頼しきることのできる方であります。ルターはそのような主に心を寄せることが大切であると説いたのかもしれません。
信頼し切ることのできる主が私たちのすぐそばにおられます。「そこにある助け」とあります。主への信頼を大きく私たちは持っていく二〇二二年とされていきたいと、そのように覚えさせられています。

そして、詩篇四十六篇の七節と十一節、

『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』

次に「とりで」という言葉を見ていきたいと思いますが、これは「ミスガブ」という言葉が使われているそうですが、「高い所、砦、やぐら、安全な高台、逃れ場」、難攻不落な安全な場所という意味合いがあります。砦ということですけれども、ここはイスラエルにあるマサダという所です。
マサダの要塞であります。要塞、ある意味、砦ですね。天空の城とも言われる場所ですけれども、ユダヤ人がローマ帝国に対して蜂起して、ユダヤ戦争が起こりましたが、その時、紀元七〇年、約千人の人々がこのマサダに立てこもったと言うのです。
そしてローマ軍一万五千人に取り囲まれました。ローマ軍がここを攻めていくのに三年半かかったと言うのです。このような高台にあったので、本当に難攻不落な、まさに砦であったわけですね。
この詩篇の「とりで」には、戦いの要素があるという事を見ることができます。また「万軍の主」とありますが、軍の将、万軍の主が私たちと共におられる、ここにも戦いの要素があります。究極的に、私たちは主という砦の中に身を寄せて万軍の主によって私たちは守られるわけですが、この砦、戦いという要素がある中にあって、私たちは、その避け所とされた砦の中で守られて、主が守ってくれるからじゃあ安心、何もしなくていいかと言うと、そうではないことを覚えさせられます。
あのマサダの要塞においても、立てこもって攻撃に対して作戦を練ったり、また時には反撃してローマ軍を攻撃することもあったと思います。そうしなければ簡単に攻め落とされてしまうわけです。
私たちは究極的な主ご自身の避け所、シェルター、砦があるわけですが、そのような場所においてなすべきことがあるということを覚えさせられます。

この詩篇四十六篇の背景には、ある一つの聖書の出来事があると言われます。それは、第二歴代誌十八章から十九章に書かれてあります。南ユダのヒゼキヤ王の時代です。エルサレムがアッシリアの大軍に取り囲まれます。大軍が押し寄せてくるんですね。エルサレムは地理的に砦、要塞のような場所でありました。
おびただしい大軍に取り囲まれて、この南ユダの人々、ヒゼキヤ王は恐れおののいたわけですね。そしてそのアッシリア、敵たちは、「おまえの神は本当により頼むことができるのか。助けることなんかできないだろ。」と主を冒涜するのです。そんな不信仰を煽るような言葉を敵はかけてくるのです。これは悪魔のささやきであると思います。
そんな中で、ヒゼキヤ王は何をしたかというと、主の宮へ行って、敵が冒涜した言葉を手紙で送ってきたのですが、その手紙さえも主の前に差し出して、「敵がこんなことを言っている。主よ、助けてください。」と主に祈りをささげました。
その祈りに対して、預言者イザヤを通して「その祈りをわたしは聞いた」と神さまは応えられ、そして主によって天の使いが遣わされ、一晩で十八万五千人の敵が滅ぼされ、大勝利がもたらされたのです。アッシリアの大軍は撤退していきました。
砦において、私たちは神さまご自身に、万軍の主に守られるのですが、何もしないのではなくて、その中で私たちには「祈る」という使命が委ねられていることを、ここで教えられ、覚えさせられます。
二〇二二年、私たちはさらに、主ご自身の砦の中で、避け所の中で、守られながら、戦いの意識、霊的戦いという剣を、今一度しっかりと握りしめて、祈りの剣を掲げるようにと主ご自身から語られているような思いをいただいています。
二〇二二年、どのような年になるか、私たちには分かりませんが、確かに主が帰られる日は近づいていて、終わりの日が近いこの時代、悪魔も必死に私たちの信仰を落とそうと、滅ぼそうと、不信仰を煽り攻撃してくることは必至だと思います。
私たちはそのような中でも主への信頼を失うことなく、主に身を避けていくならば、主が必ず私たちを守ってくださる、避け所となってくださる。そして私たちはそのように主に避け所を設けて、何か逃げていく、撤退していく、弱い存在だと自分自身で思ってしまうような状況に立たされる時が、たとえあったとしても、撤退した場所、逃れた場所は、主という避け所、砦であって、そこは霊的軍事施設であります。そこで私たちは霊的戦いという剣を握って、祈りの使命を果たしていくならば、ヒゼキヤ王の祈りを聞き遂げた主によって、天の使いが遣わされて、一晩で十八万五千の敵が滅ぼされたように、万軍の主が共におられて、万軍の主によって私たちが信じられないような大勝利を二〇二二年は受け取る年とされる、そのように覚えさせられています。
今晩このみことばを二〇二二年に対して私が主から与えられたみことばとして信じて、お分かちさせていただきました。ハレルヤ!