神さまから与えられた最高のプレゼント」

2021年11月28日(日)新城教会牧師 岡本信弘

ルカの福音書2章10〜11節

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から感謝します。寒くなりましたけれども、皆さんお元気でしょうか。私は久しぶりにこの場所に立たせていただきました。皆さんのお祈りによって健康が支えられ、今日、主のみことばを取り次ぐことができることを心から感謝します。
今週から十二月に入ります。これからクリスマスのシーズンになりますが、メッセージをするに当たり祈っている時に、イエスさまがお生まれになったことを知らせる今日のみことばを与えられましたので、皆さんとともに学んでいきたいと思います。

先週、リバイバルミッションの「クリスチャンって最高だ! 秋のリバイバルセミナー」の配信がありました。参加された方も大勢おられるかと思います。いつもスタッフの方々はご苦労だったなぁと思わされていますけれども、どれも大変恵まれました。二十三日の午後の時間には、三時間にわたって全国各地からの証しが紹介されていました。癒しの証し、個人や家族の救いの証し、そしてビジネスの成功の証しなど、様々な証しを聞くことができました。あらためて神さまってすごいな!と、すごく感動しました。
また夜のセミナーでは、エド・シルボソ先生からエクレシアについて学びました。私たちは今日も教会に集まっていますけれども、ここだけでなく、私たちが遣わされている場所、ある人は学校であり、ある人は職場であり、またある人は家庭、「それぞれに遣わされている場所が教会なんですよ」というメッセージが語られていました。それぞれがいる場所が皆さんの証しの場所であり、祝福の場所です。今いる所で主と共に歩み、主の栄光を表していきたいと思います。

さて、コロナが始まった頃を振り返ると、集まることが禁止され、教会に行きたくても行けない、教会側も「皆さん来ないでください」というような時が一時ありました。私の人生においても、教会に行きたくても行けないというのは初めてだったと思います。少し規制が緩んで、一年半ほど二部制を続けてきましたが、先月からは一部制になって一同が共に集まって(今もネット礼拝をされている方もおられます)、共に主を賛美できる、これほどの恵みはないなぁとあらためて恵みを感じ、主に感謝をささげています。
新型コロナウイルスの感染者は、一日に二万人以上、感染者総数が一日に二十五万人を超えたという時期もあったわけですが、昨日は、日本での感染者数は百二十名あまりとなりました。あまりの減少に、大騒ぎしていたのがどこか遠い昔のように思いますが、つい最近のことですね。これは、みんなで祈り宣言してきたことによって、今この素晴らしい結果につながっていると思い感謝します。でもこれからも油断せずに祈っていく必要があるかと思います。今、ヨーロッパではすごく増えているところもあります。二カ月後には日本も同じ状況になるのではないかという専門家の意見もあり、危惧している方もおられると思います。
また、変異ウイルスが出て感染が再び拡大していると聞くと、日本は大丈夫なの? 世界はどうなっちゃうの? このまま聖書に書かれているように滅亡しちゃうの?というように心配される方もいるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、私たちが祈ることによってそれを食い止めることができると信じています。もちろん、明日どうなるのかは誰にもわかりません。皆さんにはいろいろな不安があると思います。でもその不安は過去のことにではなく、これから起こり得る未来のことについてのものです。これからどうなるか予測もつかないことに対する不安です。病気や経済的な危機に対する不安、また年配になってきて親族や同級生から、誰々が亡くなったといった便りが頻繁に届くようになると、「私もあとどのくらい生きられるかな」と考えたりするわけです。ある意味では暗いトンネルを走り続けているような状況だと思います。でも私たちクリスチャンには確かなことがあります。それは、あなたのすべてを知っておられる真の神イエスさまがおられ、あなたの明日を照らしてくださる、神さまと共に歩める恵みが与えられているということです。このことは私たちにとって大きな希望であり喜びです。

さて、聖書には未来に対する預言というものが多くあります。皆さんも毎日聖書を読んでおられると思います。 旧約聖書にはイエスさまの誕生や救いという預言が百以上記されています。しかしクリスチャンでない方の中には、「イエスはただの人であって、人がまつりあげた単なる偶像じゃないか。もう二千年以上も前のことじゃないか」と思っている人もいるかもしれません。しかし、未来にどんなことが起こるかについて、とても興味があります。
一九七三年に出版された『ノストラダムスの大予言』という書物がベストセラーとなりました。私は読んでいませんが、読んだことのある方もない方も、年配の方ならその話題を知っていると思います。ノストラダムスという人は占星術師でした。彼は「一九九九年の七月に人類は滅亡する」と予言し、人々の不安を煽りたてました。でも結果どうですか。もちろん私たちがここにいるということは、その予言はもちろん当たらなかったのです。今は、そんな予言があったことすら覚えていない人が多いのではないでしょうか。しかし、今でも多くの人たちは将来を心配し、星占いをしたり、手相を見てもらったりしています。ショッピングモールなどに行きますと、自由広場で堂々と「手相見ます。占いします」と、ブースを構えています。そこで何人もの人が並んでいるのを見ると、人々が真実を知ることができるようにと祈らされます。
「予言は危ないもの」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書に書かれている「預言」というのは、占い師がするようなものではありません。確かに聖書には、世界の終わりがどのようになるかということが預言されています。でもそれは、あなたに恐怖を与えるものではなく、神があなたに光を与え、あなたに進むべき道を示してくださるという喜びのメッセージなのです。

私がこの二〇二一年に与えられたみことばは、イザヤ書の三十章二十一節です。

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』

岐路に立った時、不安になった時、迷っている時、神さまが私たちの後ろから「これが道だ。これに歩め」と優しく声をかけてくださるということを信じ、この一年も歩み続けてきました。皆さんにも、時に辛いこと、悲しいことがあると思いますが、みことばによって励まされ、みことばによって導かれているということも感じ取っておられるのではないかと思います。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする記念の日です。聖書には、祝福をもたらす預言が多くありますが、その最大の祝福、喜びの知らせ、グッドニュースがキリストの誕生です。
今日は、このクリスマスの本当の意味、イエスさまがどのようにこの地上に生まれてくださったのか、その目的が何であったのか、ということを知ると同時に、イエスさまが選ばれた私たちに、何を望んでおられるのかということを学んでみたいと思います。
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書があり、そのすべての福音書にイエスさまの降誕とその歩まれた様子、またイエスさまがこの地上に来られた意義が書かれています。一つずつ見ていきましょう。
まずマタイによる福音書九章十三節には、

『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』

と書かれています。イエスさまは、自分は正しい、と思っている人を招くためではなく、本来なら招かれるはずのない罪人である私たちを神さまのもとに招くために、この世に来てくださったのです。そうしますと、クリスマスは、「私たちが神の招きを受けた日」であるということになります。

そして次にマルコによる福音書の十章四十五節にはこう書かれています。

『人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。』

イエスさまは神の御子ですから、本来なら王宮に生まれ、多くの人から賞賛されて歓迎されるのが当然だったでしょう。でも実際は、イエスさまは仕えられるためではなく仕えるためにこの世に来てくださり、ご自分の命を惜しまず、死に渡されたということを聖書から知ることができます。そうするとクリスマスは、「神があなたを救うために、大きな犠牲を払ってくださった日」ということになるかと思います。

次に、ルカによる福音書にはこうあります。

『人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』(十九章十節)

「失われた者」というのは、神さまから離れてこの世をさまよい、心に神をもたず、望みなく生きている人たちのことを指しています。そんな迷っている子羊を自ら捜し求め、見いだし、神さまのもとに連れ帰るためにこの世にイエスさまは来てくださった。とすると、クリスマスは、「私たちが神さまに見いだされた日」ということになります。

そしてもう一つ、ヨハネによる福音書を見てみましょう。

『わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。』(十章十節)

イエスさまが来られたのは、私たちの良き羊飼いとなって多くの危険から守るためであり、一人ひとりを愛し、生かし、救うために、しもべの姿となり、この世に来てくださったのです。そうしますと、クリスマスは、「私たちの人生の主人である良き羊飼いを得た日」ということになります。

これはほんの一例であって、聖書には数々の素晴らしい恵みが書かれています。旧約聖書エレミヤ書二十三章五〜六節をお読みします。

『見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。』

クリスマスを知らない人は誰もいないと思います。そして、イエス・キリストの誕生日だと思っている人が大半だと思います。本当のクリスマスの意味も知らず、キリスト教に関係のない人であってもパーティーを開き、どんちゃん騒ぎをしている。子どもたちに「クリスマスってどんな日?」と聞くなら、「ケーキを食べる日」、「プレゼントをもらう日」と答える子どもが圧倒的に多いと思います。
日本人がクリスマスにケーキを食べ始めるきっかけとなったのは、不二家創業者の藤井さんという方が、大正元年にアメリカに渡って修行した際にこのケーキに出合い、それを持ち帰って大正十一年に、イチゴのショートケーキをクリスマスケーキとして販売したのが始まりだと言われています。昭和三十年頃には、関東、関西、名古屋の合わせて五十店舗でこのケーキが販売され、不二家店舗の拡大と同時に、クリスマスケーキも普及していったと言われているそうです。
ではなぜこの人は、イチゴのショートケーキをクリスマスケーキにしたのでしょうか。これには諸説あるようですが、一つは「真っ白な生クリームが雪、赤いイチゴはサンタクロース」を表すとして、日本人の持つ「紅白=めでたい」イメージも掛け合わせたとのことでした。私はそれを読んで、本当かな?と思いましたが、そうなるとこのクリスマスケーキは、単なるビジネスアイテムとして使われたにすぎません。しかし「プレゼントをもらう日」という発想は、間違いではないと思わされました。

約二千年前、イエスさまが生まれた時代は決して未来が明るいといえる時代ではなかったと思います。そんな中で、旧約聖書には、数々のキリスト誕生の預言がありました。

『それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。』
(イザヤ書七章十四節)