「ニューイヤーセレブレーション」

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

祈りが、信仰を支え、将来と希望に向けて前進させる原動力であることは、昔も今も変わりません。
二〇二一年、私たちは祈りの祭壇をさらに強固にし、前進したいと願っています。

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たす」とありますから、二〇二一年は期待しても良いのではないでしょうか。なぜなら、新城教会の歴史に七十年が満ちましたから。
しかし、昨年の十二月、一つのことに気づかされました。ちょっとショックでした。それは「七十年はまだ満ちていない。」ということでした。えっ!七十年は満ちていないの?と、初めはちょっととまどい、がっかりしました。
しかしその理由が分かりました。そして、七十年が満ちていないとしても、「満ちた!と宣言することは可能だ」という事にも気づかされました。

二〇二一年一月一日、「七十一年目だ!」と考えていますが、もしもそうでなかったら、まだまだ苦しみや悲しみも続き、勝利は遠のきます。では、どうして満ちていないのかというと、理由は、神の創造の原点にあるのです。

神が天地創造された時の様子が、創世記一章に記されています。創世記一章十四〜十六節、

『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。』

この箇所を読んで、どのように感じられるでしょうか。夜空の星々、そして太陽、月、「神さまの作品なんだ!」と分かります。それは間違いありません。
しかしこの箇所は、さらに深いことを意味しています。天の星々や、また太陽、月とは、どんな目的で創造されたのでしょうか。『昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』と記されています。
ここで興味深いことは、それらが「しるしのためにあれ!」という事です。神さまはメッセージを、なんと天に置かれるのです。それが星々であったり、太陽であったり、月であったりします。時々、私たちは天体ショーを経験します。月食があったり、日食があったり、星々が近づいたり。これらは一つのしるしだというのです。
去年もお話しさせていただきましたが、イエスさまが生まれた時、特別な星が上ったのです。星々の世界は、神秘の世界です。同時にそこは天使たちの領域であることもお話しさせていただきました。

そして、『神は二つの大きな光る物を造られた。』というのです。太陽と月でした。この箇所は何を告げているのかというと、「神は暦を造られた」というのです。実際、人類は古代から天を見上げて、天と地を結ぶ暦を造ることに努力してきました。

今日、私たちは「二〇二一年一月一日」としていますが、何によって定義されるのかというと、暦によって定義されているのです。
現在、世界が使用している暦は、グレゴリオ暦という太陽暦を使用しています。それがいつから始まったのかというと、十六世紀のことです。それ以前は、太陽暦のユリウス暦という暦を使っていました。これは精度が悪かったので、十六世紀になると十日間くらい季節にずれが生じました。それを補正して始まったのが、グレゴリオ暦です。太陽暦は、地球は太陽の周りを三百六十五日一周しますが、四年に一度閏年を設け、時間のずれを調整しています。このような共通の暦があることにより、二〇二一年一月一日と定義されるわけです。

聖書に「七十年が満ちるころ」と記されていますが、もしも、聖書が私たちと同じ、太陽暦を使用していて、「七十年が満ちる頃」と記しているならば、二〇二一年を、「七十年が満ちた!」と定義できます。
しかしもしも、聖書が使っている暦が全く違っていたとしたら、同期しないことになります。

聖書を読むと、私たちが使っている、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日・・、など曜日は、全く出て来ません。聖書暦は、太陰・太陽暦の一種「ユダヤ暦」を使っています。
神は出エジプトを果たしたイスラエルに、このように告げています。
出エジプト記十二章一〜三節、

『主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。』

イスラエルの暦の原点は、出エジプトした日にあります。「この日が始まりだ。」と、神ご自身が設定されました。
最初に神は、太陽と月と星を使って、人類のために暦を設定されました。それから月日が流れて、神が定めた暦をベースに、出エジプトを果たした日を原点に一年を始めなさいと語られたわけです。

“バビロン捕囚以降は、この月は「ニサンの月」と呼ばれるようになった。「アビブの月」も「ニサンの月」も同じ月のこと。太陽暦では、三月か四月にあたる。彼らは長い間エジプトに捕らえられて、自分たちの国はなかった。しかし、主はそこから民を解放し、約束の地へと導かれた。この月がイスラエルの始まりとなった。”

イスラエルに行きますと新年は、太陽暦二〇二一年一月一日ではないのです。ニサンの月を宗教新年としています。
ユダヤ暦は、太陰・太陽暦です。

“日は夕方、月は新月の日に始まり、春分または秋分が年始で、平年は十二ヶ月、閏年は十三ヶ月で、閏月を第六月の次に置く。”

というわけです。
彼らは、私たちとは違った暦を使っているわけです。それで聖書は歴史を表現しています。「七十年が満ちる」「五十年が満ちる」「三十年が満ちる」とは、すべて聖書歴に基づきます。
しかし私たちは聖書歴をまったく意識せずに、太陽暦で七十年とか、五十年と考えていたら、聖書のみことばとは、ずれるわけです。ゆえに、いくら今年、神に期待したところで、神さまのわざは現れないかもしれません。ちょっとショッキングな情報ですよね。

日曜日は聖なる日、だから、聖日を守らなければならないとクリスチャンは考えます。またある教団は、「土曜日が安息日だ」と考える人たちもいます。しかし両者の暦が、太陽暦で議論していたとしたら、どちらも全く意味がないことになります。
なぜなら、太陽暦は古代エジプトから始まった、太陽礼拝の為の暦が原点だからです。
ヘブル民族は四百年以上にわたってエジプトの奴隷となり、当時、エジプトで使用されていた太陽神ラーを礼拝する「太陽暦」で過ごしていました。けれども、出エジプトに伴い、神は太陽暦を破棄させ、聖書歴の新年、アビブの月から始めさせたのです。
旧約聖書の律法は、星々の運行や、天体とシンクロしていると以前に、お話しさせていただきましたが、暦は神の創造された万物の法則の一つです。
天に暦があって、その暦が設定した通りに、地においても主に仕えるならば神のわざは地にも行われるのです。ユダヤ人たちはそのことをよく知っていました。安息日にしても、新月のまつりに関しても、すべて太陰・太陽暦の定められた暦に従って行われました。「天の暦の日にあわせて、主へのまつりを地で行えば、神は民の祈りを聞かれる」という法則を理解していたのです。それで、イスラエルは、定期的に創造主とコミュニケーションができていたわけです。

しかし途中で事件が起こりました。ローマ皇帝によって、その暦を大きく変えられたのです。

しかもそれは、聖書の預言の成就でした。ダニエル書に四人の王が出る事が預言されていますが、最後の王についての記述があります。詳しくは説明しませんが、ダニエル書七章二十五節、

『彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。』

「彼」とは、ローマ皇帝のことを指していると言われます。
コンスタンティウス一世は、キリスト教を国教化したのですが、二世はクリスチャンとユダヤ人を厳しく迫害しました。そして聖書的カレンダーを使用することに対して、厳しく処罰しました。
当時イスラエルの暦を決めていたのは、ユダヤ人の裁判所、サンヘドリンでした。しかし最後のサンヘドリンの統領ヒレル二世が、ローマ皇帝の圧迫を受けて、ユダヤ歴をも変えてしまいました。
また、初代教会が使用していたのも、同じ歴でしたが、教会も迫害により、「太陽暦」に変更する事を余儀なくされたのです。そこから、創造主の定められた天の法則がずれているのです。

ゆえに、神が定めた時と法則が変えられていますから、いくら私たちが真剣に祈っても、「あれ?なんにも起きないじゃないの?」という事かもしれません。私は、暦が変えられた事は結構、大きな祈りが届かない原因になっているのではないかと考えています。
そもそも今日は、グレゴリオ暦だと「一月一日」です。しかし十六世紀まで使われていたユリウス暦だと「十二月十九日」です。これを、ユダヤ暦に直すと「十月十七日」です。まだ七十年は満ちていません。こうなると困ったものです。
悪魔って、本当に巧妙ですね。神が造られたカレンダーを壊してしまえば、天と地はシンクロしなくなりますから、神の法則が地に現されなくなるわけです。案外、私たちが普通だ、当然だと思っている領域が、結構、悪魔の手に渡っていたりするわけです。

太陽暦を疑う人は、誰一人いません。どうでしょうか。月・火・水・木・金・土・日って、全て、星々に結びつけられています。火曜日は火星、水曜日は水星、木曜日は木星、金曜日は金星、そして土曜日は土星、日曜日は太陽。毎日が、創造主なる神ではなくて、星々に結びつけられています。悪魔は天の法則が地に適応されないよう、巧妙に働いています。
なんてこったという感じです。「ということで、今日の話はこれで終わります。」と言ったら、混乱で終わると思うのですが、興味があったら、ぜひ、ご自分で調べてみてください。歴史の中で悪魔は、いろいろな策略を巡らせています。

しかし新約聖書にこんなみことばがあります。コロサイ人への手紙二章十二〜十七節です。この箇所は私にとって、大変重要な箇所です。バプテスマを受けるとはどういうことかに関しての定義です。ここでは「罪が赦され、債務証書が無効になり、悪魔が持っている武器が武装解除され、彼らが捕虜として凱旋の行列に加えられる。」と約束されています。
その次に、何と記されているかというと、
二章十五〜十七節、

『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。』

厳密に私たちが主を礼拝しようとすると、かなりたいへんです。キリスト教は旧約聖書をベースにしていますから、それを基準にして歩もうとしたならば、大きな困難があります。また、それらを無視することもできません。

新約時代、神はどのように神の民に関わってくださっているのでしょうか。十字架と復活の勝利を経て、新しい契約として与えられた内容は、悪魔とその一味に対する完全勝利です。しかしそれに続いて、『祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。』と告げています。
なぜなら、「その本体はキリストにあるからです。」という理由です。暦にしてみても、律法にしてみても、すべて旧約聖書に述べられている事柄は、突き詰めれば、「救い主イエス・キリスト」につながります。「本体はキリストにある」のです。
今、私たちはイエス・キリストを救い主として信じています。そして神は三位一体であると信じています。父なる神、子なるイエス、聖霊を私たちの神として信じています。
そして「イエス・キリストのみ」が父なる神のところに行く道であると信じています。救いの名前は、イエス以外にないのです。ということは、「新月や安息日のこと、すなわち、カレンダーに基づくことで、惑わされたり、批評されたりすることはない。」すなわち、「あなたの礼拝は間違っている!」とは言われないのです。