「敵にとどめを刺す祈り② あなたが主の勇士です」

この辺りは何度も語らせていただきました。

結論に向かいます。この戦いの記事を人物の描写に視点をおきながら、様々な背景とともにつぶさに見てきました。単刀直入に皆さんにお伺いします。

 では、私たちは、それぞれにとっての巨人と相対した時に、この四つのうちの中でどのような存在になれているでしょうか。私たちは今、コロナ禍と呼ばれる長い戦い、それに加えて病などの個人的な大きな問題の解決を求めて長く戦っています。みことばに向き合い、主に向き合うとき、お一人お一人の現在の状況、どうでしょうか。私たち自身、また教会全体を見つめ直してみましょう。

「イスラエルの民」
戦いの場でしたので、平民はいない。守ってもらうだけの市民というのはいません。兵士全員が既に戦意喪失。「王がこんな報酬くれるんだってさ。」と他人任せ。誰かが立ち上がるのを待っているだけでした。

聖書における霊的戦いの視点において、実はクリスチャンもみな兵士です。勇士です。戦いのために召されたのがクリスチャンで、全員兵士、軍隊、勇士です。それが私たちの存在です。戦いにおいて他人事でいることはできません。

「兄エリアブ」
人間的・地上的価値観、判断からのみダビデを判断して、そこにはおごりたかぶり蔑みがありました。
恐れるのみならず、立ち上がろうとする人まで見当違いな評価をしています。

「王サウル」
油注ぎのゆえに主にある判断ができました。自分は立ち上がらないまでも、「少年」ダビデに国の存亡をかけた戦いの全権を委任しました。

新約の時代においては、誰が主の霊の油注ぎを受けられるでしょうか。今は主を信じる者、クリスチャン一人ひとりに分け隔てなく、聖霊さまの油注ぎがあります。旧約の時代には王・祭司・預言者しかなかった油注ぎ、その同じ油注ぎを私たちは受け取っています。本当に素晴らしいことです。
逆を言えば、現代のクリスチャン、我々に言い訳は立たないのです。油注ぎは皆が受けています。聖霊さまがともにいます。

「ダビデ」
はじめから聖なる憤りを持ち、主への信頼と勝利の確信とともに、ひとりゴリアテに立ち向かいました。

ダビデと他の人物たちとの違いは何だったでしょうか。「信仰」と「油注ぎ」です。私たちにも、その両方が与えられているはずです。
時に「私はあの人のように何かできるわけじゃないし、信仰もないし弱い。」という言い訳を、私たち弱い人間はします。しかし、それは違います。この4つの分類の中で、「ダビデ」が私たち一人ひとりであり、常にそうあるべきです。それを今日みことばからしっかりと受け取りましょう。弱さはあっていいです。しかしその弱さの中でこそ、主への信頼、信仰とともに戦いに出て行く。日々の信仰の歩みをする。これが私たち一人ひとりに平等に課されている主からの使命です。
ダビデの勝利も自分の能力、権勢、権力で勝ち取ったものではありません。何が必要だったでしょうか。繰り返しですけども、ただ信仰と油注ぎだけです。私たちにはその二つが無いでしょうか。

巨人に相対した中で、私たちは今、ダビデになれているでしょうか。
仮に、今もし私たちの信仰が弱められているとしたら、「この程度の事態」で信仰が弱められ、奪われてはいけない領域が奪われているとしたら。主は何と言うでしょうか。「主は侮られる方ではない」とみことばに書かれています。
私たちは、人ではなく、主に対して申し開きをしなければなりません。
そもそも私たちの信仰は命がけのものではないのでしょうか。滝元開牧師から、「命がけの礼拝」という視点で語られています。大げさな表現でしょうか。違います。
あるいはさらに「殉教」というキーワードを出した時、私たちどの様に応答できるでしょうか。本当にあえて言いますが、「この程度の」感染症で私たちの信仰が揺るがされ、私たちの存在が弱くされているならば、私たち、果たして殉教なんかできるのでしょうか。私たちは、主のために戦うために召された主の軍の兵士なのではないでしょうか。

ぜひ皆さん本当に、信仰の戦いを命がけで進めていきましょう。私たちはそんなに弱い存在だったでしょうか。いつの間にクリスチャンは、新城教会は、こんなに弱くなってしまったのかと感じさせられる部分が正直あります。私たちの信仰は命がけのものです。私たちのまわりには文字通り、身を切って、血を流し、それでも信仰を落とさずに戦いに挑み、主が与えてくださる最善を求めて、癒やしという結果を求めて戦っている方々、そしてその家族の方々がたくさんいます。私たちも一人ひとり、主の勇士として立つことができているのかどうか、主から受け取りたいと思います。

私のような者に言われたくない、本当に重々承知です。多くの信仰の先輩方がいるこの教会において、七十年以上の歴史があり、ここまで主の働きが大きく進められました。私はこの場に立つ資格があるような者ではありません。知っています。そうであるならば、信仰の先輩方、今私たちに皆さんの祈りの助けが必要ですから、どうか力を貸してください。甲子園ミッションでの証しを私たちは耳にします。私たちはそれを知りません。私はそれを知りません。
しかし、では、その時と同じ祈りの手を上げ、油注ぎを持って今もう一度立ち上がってください。この新城教会という教会を通して、主がなされようとしている大いなる計画が、この地上に引き下ろされることをとどめることがないように、お一人お一人が今立ち上がりましょう。この教会に属する者が、ひとり残らず、そのような勇士として変えられたら、主が与えてくださる恵みは、私たちがこれまで目にしてきたもの、また今目にしているもの、そんなものの比ではない、もっと素晴らしいものであると私は確信しています。そしてそれは私たちに委ねられています。私たちの信仰に委ねられています。また私たちの信仰の応答に委ねられています。

どうか皆さん、みことばと向き合い、主と向き合いましょう。あなたが主の勇士です。「誰かがダビデ」ではなくて、「私がダビデ」、誰かが戦うのではなくて「私が戦うんだ」という視点で、一人ひとりが主の前にもう一度、主の勇士として、兵士として立ちあがりましょう。そのような油そそぎを求めて祈っていきましょう。
お祈りして終わりにしたいと思います。

ハレルヤ、主よ感謝します。今日こうしてあなたのみことばに向き合う、この恵みの時を心から感謝します。本当に取るに足らない、語るに足らない、汚れた器がこの場所で語らせていただきました。
しかし私たちは誰に弁明するのでもなく、ただただ一対一で、主よ、あなたの前に出ます。あなたのみことばと向き合い、またあなた自身と向き合い、今私たちがどのようであったかを、私たち自身にそのみことばの刃を突きつけてください。私たちは困難な中、苦しみの中、弱さの中、主と共に戦う道を選びます。私は選びます。そのような勇士として、私たちに必要な油注ぎを与えてください。またこうして集まっている信仰の勇士たち、仲間たちが、それぞれが戦う中で、共に背を支えあう、そのような教会として今一度、今この時に教会が生きるか死ぬかのこの時に、どうか新しい油注ぎをお一人お一人にもれなく注いでください。
ただただ私たちはあなたに従います。あなたに信仰をおきます。あなたが与えてくださる勝利に確信をおきます。そのような歩みができるように、聖霊さま、共にいて助けてください。今日のこの時を感謝し、尊き救い主イエス・キリストのみ名によって勝利を感謝して、また私たちに委ねられている使命も果たすことを宣言して、主のみ名によってお祈りします。アーメン。

ありがとうございました。主に大きな拍手をして終わりにしたいと思います。