「主の導きの道を歩む」

2021年1月17日(日)新城教会牧師 岡本信弘

イザヤ書30章21節

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から讃美いたします。

インターネットで礼拝をささげている方たちもおられますが、皆さんお元気ですか? 私は皆さんのお祈りに支えられて、健康でこの二〇二一年を始めることができていることを心から感謝します。

二〇二〇年は、 新城教会においては宣教七十年、リバイバルミッション発足五十年、そしてプレイズの設立三十年という記念の年、節目の年でもあり、祝福の年となると希望をもって始めましたが、それに反して、誰に聞いても「大変だった」と答えが返ってくるような一年でした。新型コロナウイルスによっていろいろなことが閉ざされ、影響を受けました。しかし、一方ではさまざまな恵みもいただくことができ、主に心から感謝します。皆さんも同じだと思います。

現在も新型コロナウイルスの感染者が増え続けている状況の中、これからどうなるのだろうと心配しています。ニュース等で言われているように、飲食業界は特に大変です。私が責任を持っているプレイズの働きも、いろいろな部門がありますが、飲食部門のカフェレストラン「サーム23」は、人が集まって一緒に食事をするということが自粛傾向にあり、お客さんがなかなか店内に入って来ないという状況で、大きな打撃を受けています。そんななかでも解決策をいろいろ考え、テイクアウトを強化する方向で、新たな商品を開発しています。私もどんなものがいいか、ネットを見て研究したり、スタッフと共に試作品を作ったりしています。印刷出版部門、福祉部門もそれぞれ大変なところにありますので、続けてお祈りいただければと思います。

 

クリスチャンであってもなくても、誰の人生にも、予測のつかないような事態がふりかかることがあります。人は、問題が起こったとき、窮地に立たされたときに、その人の真価が問われると言われます。

仕事においても、機械の故障や納品トラブルなど、突発的に様々な問題が起きることがあります。起きてしまったことは仕方がないのですが、問題が起きたとき、それをいち早く、どうやったら最小限のリスクにとどめることができるか、どのように対処できるかに、技量が試されます。

私はクリスチャンホームという温室で育ちました。教会に行っていれば親は喜んでくれましたし、幼いころ家は貧乏だったのですが、キャンプに行くとなればすぐにお金を用意してくれましたから、私は貧乏だと思ったことはありません。自分の思うようにさせてもらって、兄姉からは、「おまえは、家族でいちばんわがまま放題に育った」といつも言われていて、温室にある植物を冬の寒いときに外に出すと枯れてしまうように、私も逆境に弱いところがあります。しかし、クリスチャンであるがゆえに、主の守りがあり、窮地に立たされたときでも助けられてくることができて感謝しています。

人間は弱い者です。しかし、主は弱さの中に働いてくださり、私たちを支えてくださるのです。皆さんお一人おひとり、弱さを感じ、弱さを認めたからこそ今ここにおられるのだと思います。主は弱さを認めた私たちに寄り添ってくださって、私たちに恵みを与え、祝福を与えてくださるということを信じ、皆さんは主と共に歩んでいるわけです。

 

さて、この二〇二一年に、私に与えられたみことばは、イザヤ書三十章です。カウントダウンでも語らせていただきましたが、今日はここから、「主の導きの道を歩む」と題してお話ししたいと思います。

三十章二十一節を、もう一度お読みします。

 

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』

 

このみことばを与えられて、あらためてイザヤ書全体を読んで、いろいろなことを学ぶことができました。聖書について少し補足しますと、聖書は、全部で六十六書簡あり、そのうち三十九書簡が旧約聖書です。旧約聖書の中にもいくつかの分類がありますが、その中に「預言書」が十七あり、五つの大預言書と十二の小預言書とに分かれています。重要だから大預言書、重要でないから小預言書というわけではなく、ボリュームが大きいから大預言書と言われているのです。イザヤ書は、その大預言書の一つです。

そもそも「預言書」とはどんな意味を持つのか、何を教えようとしているのでしょうか。一般的に「よげん」というのは、「予言」と書くことが多いです。でも聖書では、「預言」という字が使われていて、これは文字通り「預かる言葉」、神さまから預かったことばを民に知らせるものなのです。その中でもイザヤ書は、神さまの大きな計画をイスラエルの民に知らせ、忠告を与えています。それはただイスラエルの民にだけではなく、今の私たちにも語っていることばであることを、ぜひ皆さん覚えていただきたいと思います。そういった意味で、イザヤ書は大変重要な役割をしていますので、皆さんもイザヤ書をよく読んでいただいたらよいかと思います。

 

今日は、イザヤ書から私が教えられたことから、三つのことを学びたいと思いますが、その三つとは、「神さまの計画」、「神さまへの信頼」、「神さまとともに歩む未来」です。

 

第一に「神さまの計画」です。イザヤ書三十章を初めから読みますと、『ああ。反逆の子ら』という言葉で始まっていて、イスラエルの民のことを反逆の子らと言っています。そもそも神さまの計画はどのようなものであったのかというと、聖書の創世記の『初めに、神が天と地を創造した』というところから始まっています。すべての被造物を六日間で創造して、六日目に最初の人間アダムとエバを造りました。神さまは人間を愛し、エデンの園を造り、すべての被造物の管理人としての役割を人に託されました。しかし、このアダムとエバは、神さまが「絶対に食べてはならない。食べたら必ず死ぬ」と言われた善悪を知る木の実を食べてしまうという罪を犯し、神さまとの隔たりができ、サタンの手に渡されてしまいました。これが反逆の基であり、人類の堕落につながっていったわけです。

このように、神の祝福を失ってしまった人類を、神さまはもう一度祝福しようと選んだのが、アブラム、後にアブラハムという人物です。

 

『主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。』(創世記十二章一~四節)

 

アブラハムは、神のことばに従って、行くところを知らずして出て行くほど、主に従順でした。なぜ神は七十五歳のおじいさんを選んだのでしょうか。不思議です。神さまは、年齢や環境ではなく、このアブラハムの従順な信仰を見てアブラハムを通して人類をサタンの手から取り戻す基盤を造ろうと計画されたわけです。

 

創世記十八章十八~十九節には、こうあります。

 

『アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。』

 

アブラハムは、まだ子どもがいないとき、神さまから、「天を見上げて、星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」と言われ、そのことばを信じたことにより彼は義と認められ、そして後に、信仰の父」と呼ばれるようになるのです。

そしてこの約束通り、アブラハムが百歳、妻のサラが九十歳を超えていて、普通では子を得ることなどできないようなとき、イサクが与えられました。アブラハムはずっと神さまからの命令に従って、神さまの計画を遂行して、イスラエル民族となる未来につなげたのです。そこから系図的にはダビデに至り、バビロン捕囚を経て、キリスト誕生へとつながっています。この時代において、神さまは、アブラハムに人類の回復と再建というものを託したのだと思います。

そして、神さまの計画は今も継続されています。そして、何千年もたった今も、この計画は変わることなく、その実行を託されているのは私たちクリスチャンであることを忘れてはなりません。

また、昨年、新城教会は七十年を迎え、二〇二一年は、回復と再建の年となると語られています。新城教会が新たなステージに入って、主のみこころを現していくと同時に、私たちは「主よ、来てください」と祈っています。神の国がいつ到来するかはわかりませんが、そのときまで、私たちに委ねられている計画を果たしていきたいと願います。

 

第二に「神への信頼」です。皆さんは、「神さまを信頼していますか?」と問われたときに、どのように答えることができるでしょうか。

イスラエルの民は神によって選ばれ、彼らは常に恵みを与えられ、祝福を与えられ続けてきました。しかし、彼らの態度はどうであったかというと、頼りにならない大国エジプトに下って行こうとし、神の指示を仰ごうとしなかったことが二節に書かれています。

 

三十章十五節には、

『神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。』

 

とあるように、「落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得ることができる」と言われているのにもかかわらず、民は「神に信頼することを望ま」ず、主に従わなかったのです。

イスラエルの民は何度となく主を試みて主に逆らったのです。

 

また、三十章十〜十一節に

『彼らは予見者に「見るな」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」』

 

とあり、イスラエルは弱くなって劣勢に立たされたときでさえ、主の御声を聞こうとしなかったのです。これはちょうど、日本の多くの人が困ったときの神頼みとして、頼りにならない偶像の神々に手を合わせるのと同じだと思います。

さすがに今年は、新型コロナウイルスの影響で、初詣に出かける人が七割ほど減ったそうですが、その一方でお守りがたくさん売れているそうです。私たちからすると、「なんと馬鹿馬鹿しい」と思えますが、これも霊的戦いですね。多くの人が一喜一憂し、偶像を頼りにしているという現状を私たちは心に留め、人々の目が開かれるようにとりなし祈っていかなくてはなりません。

そして、先日、順先生も語られていましたが、信仰とは、頑張ってつかんでいるものではなく、私たちを導き祝福してくださる神さまを、どれだけ愛し、信頼してついていけるか、これが信仰の原点なのです。

ヘブル人への手紙十一章をお読みします。

 

『信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。』(一~三節)

 

『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。』(六節)

 

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものだ」と書かれているように、肉の目で見えるものに「信仰を持った」とは誰も言いません。それは現実に目の前にあるのですから。しかし信仰とは、このみことばにあるように、目には見えないけれども、目に見えるすべてのものを創造し、神に近づくなら報いてくださる偉大な神さまがおられる、ということを信じることなのです。