カウントダウン・ワーシップ

明先生が生きておられた時、私は先生とよく一緒に大阪や東京の決起大会に出掛けました。私が運転し先生は助手席に座っていたのですが、信号で止まった時突然、「あのおばあちゃんが健康で長生きしますように。早く救われますように!」と、目の前を歩いていくおばあちゃんのために祈っておられました。また走行中にも手を街に向けながら、「この街が一日も早くリバイバルされますように!」と、目に入るものに対していつも祈っていました。私は、祈る先生の姿を「すごいなぁ~」と見ていましたが、その時のことを思い出し、これが「絶えず祈る」ということなんだなぁと、あらためて思わされました。

また、ピリピ人への手紙四章六節に、このようなみことばがあります。

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』

私たちが日々の歩みの中で、悩みや不安、恐れや怒りを感じたり、苦しみに遭ったりした時、まず考えることは「どうしようか」だと思います。私も会社で問題が起きた時、どうやってこれを解決しようか、何をすればいいかと考え、なんとか自分の力で解決しようと行動します。しかし、人間的に焦って行動すると失敗することが多々あります。では、私たちは最初に何をすべきでしょうか。それは、まず主の前に祈って神さまに聞いていただくということです。知っていただくのです。いつもどんな時にも、まず主に信頼し神さまと交わること、これが「絶えず祈る」ということだと思います。

そして三つ目の『すべてのことについて感謝しなさい』(十八節)ですが、皆さんの中には、このみことばを誤解している方がおられるかもしれません。「感謝は、神さまが与えてくださるよいものに対してするものだ。成功したり、また嬉しいことがあったり、素晴らしいプレゼントをもらった時に感謝すればよい」と思っていませんか。また、「自分の内側から感謝が溢れてきた時だけ感謝すればいい」と考えてはいませんか。
しかしここには、『すべてのことについて』とあります。それは、嬉しい時や楽しい時だけでなく、失敗した時も、さらには苦しみに直面した時でも、「いつも、どんな状況にあっても感謝しなさい」ということです。ではいったい、どうしたらすべてのことに感謝できるのでしょうか。
ある本に、幸せは「持っているものに比例するのではなく、感謝に比例して大きくなる」、「自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して大きくなる」と書かれていました。なるほどと思いました。皆さんはどんな時に感謝しますか。病気が癒されたり、自分の望む会社に就職できたり、また結婚が決まったりしたら当然感謝するでしょう。でもそれは、誰もができる感謝です。クリスチャンの捧げる感謝とはどのようなものでしょうか。
ゼパニヤ書三章十七節にこう書かれています。

『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によってやすらぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』

イエスさまはこの世に来てくださり、私たちの罪を背負い身代わりとなって死んでくださっただけでなく、死を打ち破り三日目によみがってくださいました。私たちはそのことを信じるだけで救われ、何にも代え難い永遠のいのちをいただくことができます。主は救いの勇士であり、救われた私たちを喜んでくださっています。この救いがあるからこそ、十字架を見上げることができ、時に悲しいことや苦しいことがあったとしても一喜一憂することなく、目の前の出来事に押しつぶされることなく、その先にある望みを見て希望を見いだすことができるのです。救いこそが「すべてのことについて感謝する」という基本であり、祝福の始まりだと思います。

もう一度、第一テサロニケ五章十六~十八節をお読みします。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する。これは、神さまが私たちに望んでおられることであり、神さまのみこころです。私たち人間には、このみことばを完全に実行するということは不可能ですが、永遠のいのちをいただいていることによって喜びを持つことができ、神さまの臨在を覚えて絶えず祈ることができ、救いを持っているがゆえに感謝しつつ前進できるのです。そして、このみことばを主にあって実行している間は、サタンは私たちに入り込むことはできません。神さまが望んでおられる働き、神に喜ばれる生活をしていくなら、サタンに隙を与えることがなく、サタンに勝利し続けることができるのです。
二〇二二年、私たちは神さまの恵みの中で「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する者」として進んでいきましょう。

 


≪≪四元雅也 牧師≫≫

ハレルヤ!一番最初にくじを引いて、トリの順番が当たって、十秒ぐらい受け止めることが難しかったですが、「主によってくじが決められる」と書かれておりますので、順番も主が決められたとと信仰をもって受け止めて、お話しさせていただきたいと思います。

今日は七名ですけど、順先生がこれをまとめられ、また、ご自分の与えられたみことばを通して、明日メッセージされます。年末年始という機会に語られる、こういったメッセージは、毎年そうなのですが、語られた八つのメッセージが一つにされて、新しい年に向けて主によって語られた預言的なみことばとなることを、私も願いまた信じる者であります。そんな主への期待を持ち、今日はこの集会に出ておりました。そして、ここまで先生方が語られたメッセージに、神さまの素晴らしい恵みがあり、また一致があって、主の導きがあることを覚えて心から感謝したいと思います。

さて、それでは私自身が祈りの中で心に迫ってきたみことばを、ご紹介したいと思います。エペソ人への手紙一章十七節〜十九節です。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。』

ここに何回か「知る」という言葉が出てきますが、「知る」ということは、人が人として生きることの中心的テーマなのかもしれないと思います。
聞くところによりますと、歴史の中でも人間はまだ「知る」という言葉を、はっきり定義できずにいるみたいです。しかし、「知りたい」という思いこそ、人生を前に進めていくことの原動力となっているのかもしれないと思います。

礼拝のメッセージ、あるいは霊的戦いセミナーの中でも、よく語られることであります。世界の情勢を私たちはどのように読み解いていくか、ということを考える一つの切り口として、「経済」という鍵で読み解いて深堀りしていくと、真実がどこにあるのかをうかがい知ることができるという事です。
そこで毎回のように確認させられることは、世界の中で一般的に認知されている事柄が物事のすべてではなく、一般的にはむしろ見られることがなく、知らされることがないところに真実がある。そういうことを、私たちが経済の動向に目を留める時、うかがい知ることができるわけです。
私たちには、このように「知らされていないことに気づいていない」ことがある。「知らないことに気づいてない」ことがある、ということです。

アメリカの二代目ブッシュ大統領の政権下で、国務長官を務めた、ドナルド・ラムズフェルドという人が、こんなことを言いました。

“知っていると知られていること
知らないと知られていること
知らないことが知られていないこと
三つ目は往々にして厄介な問題となっていることがわかる”

うまいこと言うなと思うわけですが、知らないでいることで、世の中は厄介なことになっているのに、世界のほとんどに人がそのことに気づかない、そういうことがよくあるんだよと。
サタンの勢力と、神の国を拡大させる使命を持った私たちとの戦いにおいて、それを知ることが重要であります。第一コリント八章二節には、『自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。』とあります。

「聖書の中に答えがある」とよく言われますけど、すべての答えが聖書にあるとは言えません。例えば、聖書には宇宙の起源については書いてはないし、方程式の解き方とか、ビジネスのノウハウとか、経済の仕組みとか、あるいはガンの治し方とか、そういうことは聖書には書かれていないわけです。
しかし、私たちに聖書が語っていることは、私たちの神さま、あなたの神さまがどのようなお方で、また、あなたがどのようにしたら神さまと出会って、罪から悪魔の支配から救われて、神さまとの良い関係を建て上げることができるか、ということについてであります。
そして、それらがあなたの人生において、あなたが経験をして、また様々遭遇する出来事に対し、「答えとなるもの判断していくための基準」を与える。これが聖書の中にあるわけです。
私たちが聖書に書かれて、みことばに込められている価値観・世界観に基準を置いて世界を理解していく、ということが必要です。

先ほどヨブの話がメッセージの中で語られていましたけど、ヨブは神さまの圧倒的な知恵の前に「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし私は今あなたをこの目で見ました。それで私は灰の中で悔い改めます。」(四十二章)と言いました。「人間的な教養としての『知識』を得る」ために聖書を読むというのではなく、みことばを通して「神さまご自身を知り、神さまの価値観・世界観を私たちの価値観・世界観に照らしていく」ことが、私たちにとって重要なことであります。

信仰生活おいても、教会の営みにおいても、私たちは神さまについて、神さまのからだである教会について、私たちは「知っているよ!」と言い切ることができるのでしょうか。もちろん、祈りというもの、賛美というもの、礼拝というもの、リバイバルというものは、こういうものであると、私たちは言い切ることはできません。神さまの深みに及ぶのは、私たちの一生において完全に到達しうることはできません。だから私たちは、人生が続く限り求め続けることが必要となってくるわけです。

そのために何が必要なのでしょうか。第一ヨハネの手紙二章二十節(新改訳第三版)、

『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

最初にお読みしたエペソ人への手紙の一章十七節には、「神を知るための知恵と啓示の御霊を受けますように」とありました。「聖霊によって私たちは心の目がはっきりと見えるようになる」、その事によって以下の十八節、十九節に書かれていることを初めて知ることが可能になると、聖書は私たちに教えています。
それは何かというと、

1.神の召しによって与えられる恵み
2.聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるか
3.信じる者に働く神の力がどれほど偉大なものであるか

これらを私たちが神さまから知恵と啓示の「聖霊」を受けて、心の目が開かれて初めて知ることができると教えています。

聖書に書かれている神さま、天地を造られて私たちに命を与えられた神さま。そして私たちの救い主なるイエスさま。また私たちの助け主となる聖霊さま。この神さまによって与えられる恵みとは何か。願っていた大学に合格することができました、素晴らしい奥さんご主人と出会うことができました、これも恵みです。経済的な恵み。私たちの人生すべてにおいて良いもので満たすことのできるお方が、私たちが信じている神さまであります。問題が解決しました、病が癒されました、これも主がくださった恵みであります。すべての苦しみ・困難・迫害に打ち勝つことができます。それらを通して私たちを鍛えてくださいました。私たちに起きた事柄が益とされる。これも主を信じる者に現される恵みであります。