「70年が満ちた2021 回復と再建の年! 伝道礼拝 〜奇跡を起こされる神に叫ぼう!〜」

2021年9月12日(日)新城教会主任牧師 滝元順

列王記第二 20章4節〜6節

『イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!

今日こうして、皆さんの前に立つことを許されて、心から感謝しています。

仲一バンドの賛美、すばらしかったですね。今日は伝道礼拝ですが、あの歌の歌詞につきます。私たちの神さまは、天地宇宙を造られた神さまです。人生は一度しかありません。どうせ頼るならば、石や木や金属の神々や偽りの文化ではなくて、天地宇宙を造り、私たちを造ってくださった神に頼るべきです。人生において、誰でも神頼みが必要の時があるはずです。その時に、誰に頼るのかが重要です。

私たちの神とは誰か。天地宇宙を造られた創造者なる神です。

 

まずは、私の家内の手術に際しまして、熱いお祈りをいただき、心からの感謝を申し上げます。インターネットで礼拝に出席されていますお一人お一人にも、心から感謝致します。

なかなか大変な、十時間以上に及ぶ手術でしたが、全て計画通り終わりましたという報告を執刀医から受けました。

でも一つハプニングがありました。執刀医から説明を受けて「まもなく終わりますから。」と聞いていたのですが、検査のためのレントゲンを撮ったら、鼻から入れていたチューブが縫合部分に引っかかっていて、「このままだと抜けなくなってしまいますから、もう一度、お腹を開けて調整しますから、あと二時間かかります。」と言うのです。本当にどうなるのか心配しました。「家内は大丈夫ですか?」と尋ねると、「大丈夫ですよ。」と言われたので、遅くなったので、私たちは家に帰りました。本当に、かなりの手術時間でしたが、祈りによって守られたことを、心の底から感謝致します。

 

感謝なことに、現在は一般病棟に移って回復のための治療を受けています。是非とも、続けてお祈りを頂きたいと思います。下痢が続いているみたいで、結構、苦しんでいますので、お祈りいただけたら感謝です。コロナの影響で、なかなか家内とは会うことができないのですが、皆さんのお祈りによって、支えられています。まだまだ、戦いは続きますが。祈りの力を日々、感じています。

 

しかしこのような時に誰に叫び、祈ったらいいのか、その対象がはっきりしている事は、本当に感謝です。真の神に心合わせて祈る時に、答えを与えてくださいます。

 

先ほど読んでいただきました聖書の箇所は、どのような場面であるのかを説明します。紀元前七世紀ごろ「ヒゼキヤ」という王様がイスラエルのユダ王国を治めていました。その王様がある時、病気にかかり死にかけていました。どんな病になったのかと言うと、私の家内と同じく、癌になりました。それも末期で、命が危ない状態でした。

皆さんの中で、医者から余命宣告を受けた経験のある方はおられますか。あるいは家族の中で、誰かがそのような宣告を受けた、という方もおられるかもしれません。

私は何度も、家内に対しての余命宣告を受けました。最初聞いた日のことは忘れることができません。軽い気持ちで病院に行ったら、その日のうちに、「膵臓癌があります。大きすぎて手術は出来ません。手の施しようがありません。」と言われました。テレビのドラマなどでそのようなシーンを見たことはあったのですが、まさか、自分の妻にそんなことが起きるとは、夢にも思っていませんでした。

私は家内がどんな顔をして、聞いているのだろうかと、顔を見ました。すると案外、冷静に聞いていました。すると彼女が、「私はこれから、どのくらい生きることができるのですか?」と質問すると、「そうですね・・。あと三ヶ月か四ヶ月くらいでしょうか。」と言いました。

それを聞き、ある意味、絶望のどん底でした。四面楚歌とは、こういうものかと思いました。

「何か良い手はないですか・・?」『ここまで来てしまうと、どうにもなりません。』死を待つしかない状態でした。

 

ヒゼキヤ王も、同じような状況であったことを、聖書は記録しています。

第二列王記二十章一節、

 

『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」』

 

現代では、医者がこのような宣告をするのですが、当時は、預言者が神のことばを伝えました。特に、一国の王に対しては、イザヤという最も強力な預言者が遣わされました。彼が死の宣告を受けた時、何歳であったのかと言うと、ヒゼキヤ王が死んだ年から逆算しますと、「五十三歳」の時であったと思われます。まだ若いですよね。

彼は賢い王様で、多くの偉業を成し遂げました。今でもイスラエルに行きますと、ヒゼキヤが行った事業の痕跡を見ることができます。彼はエルサレムに地下水路を設けました。また、アッシリヤの手から国を守った力強い王でした。
 そんな彼に対して「あなたは死ぬ。治らない。」と宣告がなされたわけです。

しかしこのようなことは、誰にでも起こり得ることです。

 

実は二〇一八年に、私はこの箇所を導かれて、何度もここからメッセージを語っていました。この教会でも語りましたし、リバイバルミッションの様々な集会でも語りました。人がもし、このような状況に陥ったら、どうしたらいいのかと語っていました。普通なら、諦めるしかないです。しかし、ヒゼキヤ王は、天地宇宙を造られた神を知っていました。それまでのイスラエルの王たちの多くは、先ほどの歌にもあったように、石や木や金属を神として拝み、土偶を拝む王ばかりでした。けれどもヒゼキヤは、彼らとは違い、真の神を知っていました。

それで彼の行動は他の王とは違いました。

列王記第二 二十章二〜三節、

 

『そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。』

 

彼は一国の権力者でしたが、死を目の前にしては、権力があっても、お金があっても、為す術はなかったのです。

彼は、そんな中でも、天だけは開いている事を知っていました。それで彼は、神の前に涙流して、激しく泣いて祈ったその時、奇跡が起こったのです。

これは私自身の体験にも当てはまります。家内があと三ヶ月、四ヶ月しかもたないと宣告された日、家内はそのまま入院してしまいましたが、私は一人夜遅くに病院から家に戻りました。それからすぐに、私はこの会堂に来て、真剣に、ヒゼキヤと同じように、十字架の前で主に叫んび、涙を流して祈りました。

「主よ、助けてください!」と叫びました。いくらクリスチャンでも、予期せぬ出来事は起こり得るという事を、ここからも知ることができます。ヒゼキヤの告白にもあるように、彼は真剣に神に仕えていたのです。「私が、真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたではありませんか!」と叫んでいます。しかしながら、このような大問題が起こったのです。

私も曲がりなりに、主に仕えてきましたから、なぜ、家内にこんなことが起こるのか・・、という混乱がありました。しかしどんな時も、私たちの上空は開いているのです。天は開いているのです。天に向かって叫ぶべきことを、ここで教えています。

 

今日、どうにもならない、四面楚歌の問題に直面されている方がおられたら、私も体験したことですが、隠れた所におられる神に、ありったけの声と心を絞り出して、涙を流して叫んで祈ってみてください。必ず神は、真実なお方ですから、その祈りに応えてくださるはずです。

 

ヒゼキヤの涙の祈りに対して、神はすぐに応えられたのを見ることができます。

列王記第二 二十章四節、

 

『イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。』

 

と記録されています。ヒゼキヤを癒やして、十五年間寿命を加えるという預言が、イザヤにもたらされたのです。

ヒゼキヤ王は宮廷に住んでいました。イザヤは宮廷に入って、王に死の宣告をしたわけです。宣告を終えてイザヤは家に帰ろうとしたのでしょう。しかしイザヤがまだ、宮廷の中庭にいた時に、主からのことばがあったと言うのです。たぶんこの間、十分以内ではなかったかと思われます。王の部屋から中庭まで出るのに、十分もかからなかったと思います。

この間に、ヒゼキヤは神の前に出て、壁に向かって、「主よ。助けてください!」と叫んだのです。現実的にも立ちはだかる壁に向かって、真剣に主を求めて、涙を流して、叫び祈ったのです。

その時、憐れみ深い神が、祈りを聞いてくださったのです。

二十章五〜六節、

 

『「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。』

 

先ほどの宣告は何だったんだろう、と思います。死の宣告から、ほんの十分以内に、神からの希望のことばが、ヒゼキヤにもたらされたのです。

ここでは人生の危機に際して、主を信じる者たちが取るべき態度が教えられています。同様に、今日は伝道礼拝ですが、「私はクリスチャンではありません」という方もおられるかもしれません。インターネットで礼拝に参加されている方々の中にも、そのような方々がおられると思います。危機に際して、誰に叫んだらいいのでしょうか。

叫ぶべき対象は、「奇跡を起こすことができる神」に叫びなさい!ということです。

 

私もこのことばに頼って、真剣に涙を流して、主を求めて叫び祈りました。そして早、二年が経ちました。絶対に手術など不可能だと言われていたのが、先週は、手術することができたわけです。今後は主のみ手に委ねるわけですが、執刀医が、「最初、ガンは相当大きかったと思います。今まで私は何百も手術を行いましたが、本当に大変な手術でした。しかし、影響を受けていた箇所は、取りきることができました。」と言われ、奇跡だと思いました。

主は必ず、祈りに答えてくださいます。そのための条件は、神の前に出て、真剣に叫んで、涙を流して祈ることです。

 

「あなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」と言われています。「涙」って大切ですね。何のために涙はあるのでしょうか。嬉し涙もありますけれど、多くの場合、悲しみの涙が多いです。しかし本来、涙は、主の前に祈り、叫び、とりなす為に使う武器なのです。

 

ヒゼキヤにとっても、あまりにも急転直下、あっという間に祈りが答えられ、いやされて、十五年も寿命が延びると言われて、かなり戸惑ったと思われます。ヒゼキヤはすぐには信じることができなかったみたいです。それで「何かしるしをください。」と神に求めました。

時々、神にしるしを求めることは良いことではない、と言う人がいますが、それは間違いです。私たちの神さまは「しるしと不思議の神」であるからです。

ここでヒゼキヤが、神にしるしを求めた時、答えて下さっています。極限に追い込まれると分かりますが、本当に、神からのしるしが欲しいものです。神は「しるしはあげないよ。」という方ではなく、しるしを与えてくださる神なのです。

私もこの二年間、神からのしるしによって支えられて来ました。そのことをまたの機会にお話しできたらうれしいです。