「70年が満ちた2021 回復と再建の年! キリストのからだ全体の勝利!」

キリスト教から「苦しみの神学」を取り去ったら、キリスト教ではなくなります。私たちが理解しなければならないのは、イエスさまが私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかり、苦しんでくださった事実です。
ゆえに、キリストのからだの中にも、時折、様々な苦しみがあります。教会の苦しみは、個人的な苦しみと言うよりも、共同体的苦しみです。共に苦しみ、共に喜ぶ時、神が大きなみわざを教会に現してくださるのです。
すべての部分が共に苦しみ、すべての部分が共に喜ぶのが、キリストのからだの姿です。その結果として、教会の中に、使徒とか、預言者とか、教師とか、力あるわざ、癒しの奇跡とか、援助、管理、種々の異言など、様々な聖霊の賜物が息づくのです。
一人ひとりに神から与えられた、聖霊の賜物があります。それが力強く息づくためには、二つの帯が必要です。

家内が病になった時、一つのみことばが私の心に響いてきました。以前にもご紹介したことがあるのですが、ペテロの手紙第一、五章七節から十節でした。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』

このみことばが、私の心の中に強く響いてきました。様々な問題が起こった時、何をしたらいいのか。まず最初に、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』とあります。様々な問題があったら、それを全て神さまに委ねなさいと言うのです。
重い荷物を持っている時に、お隣の人に委ねたら、楽になるのと同じように、まずは神さまに委ねることが大切です。

しかし同時に、ただ委ねるだけではいけないことも、この箇所から学ぶことができます。
私たち夫婦の間に起こった問題は、抱えきれない大きな問題でした。本当に何をしていいのか、どう対処していいのか、地上には対処方がない問題でした。ただ主のみ前に出て、涙して、真剣に哀れみを求め、祈るしかありませんでした。
家内が入院してすぐに、私は子どもたちを招集しました。それで病院に頼んで、「四時間だけ時間をください」と言って、死にかけている家内を病院から連れ出して、この会堂に連れてきました。そしてこの十字架の前で、私と、息子と、娘と、家内と、四人で真剣に神の前に出て、涙と共に、「助けてください!」と叫んで祈りました。「この重荷を受け取ってください。」と祈りました。
その時に一人ひとりに、神からのことばというか、印象を与えて下さいました。私には、「あなたの涙を見た。」と言葉をかけてくださいました。ヒゼキヤが癌になった時に、真剣に泣きながら祈った時に彼が癒されたという、みことばが心の中に響いてきました。息子には「生きる」という言葉が響いたと言いました。そして家内には、「将来と希望」という言葉が与えられたと言いました。
しかし、そんなただ中で、私の娘がすっと立ち上がって、突然、叫び始めました。「やがて滝元順が、この場所で家内が癒された事を皆の前で証しする日が来る!」と叫びました。私はびっくりして、なんか私の娘ではないような、上から降りてきたような姿に見えました。目が光っていました。しかし私は聞きながら、「そんな日が本当に来るのかなぁ・・」と疑い深く、その言葉を聞いていました。
後から娘に「なぜ、あんなこと言ったの?」と聞いたら、「突然、勝手に体が動いて、あのような言葉が出た。」と言うのです。それは預言的な言葉だったと思います。
その二年後の十月の二十四日、預言が実現しました。なぜなら、私は彼女が語った通りのことを、皆さんの前で、証しできたからです。まさに預言の実現でした。

時々、「私はある預言者から、このような預言をいただいたのですが、実現していません。」という方がいます。実現するどころか、悪い事が起こったということも聞きます。どうしてでしょうか。偽予言なのでしょうか。その可能性もありますが、そこには一つ理由があります。
「神に委ねろ」と告げた次に、我々が実行しなければならない「任務」が記されているからです。それは、『堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。』とあるからです。

神に重荷を委ねるとともに、様々な試練の背後に働くのは、神ではなく「悪魔・悪霊ども」ですから、立ち向かう必要があるのです。神は悪しき存在も使いながら、私たちに良い着地を与えて下さるのですが、我々は、「堅く信仰に立って悪魔に立ち向かう任務」があるのです。ただ委ねただけでは、真の答えまでに、なかなか行き着くことができないのです。
「古の多くの聖徒たちも、同じ経験、苦しみに出会ったではないか、そこには悪魔の介入がある」と、ペテロは語っています。霊的戦いとは、「苦しみに耐えながら前進する」ことです。
家内も預言をもらったり、孫の勝門に夢が与えられたりして、主からの大きな励ましもありましたけれど、毎日が激しい霊的戦いでした。それは今も、継続中です。この戦いを、私たちだけでなく、キリストのからだ全体が戦って下さったことによって、ここまで来る事が出来ました。

その結果として『あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。』と約束されています。

私たちには苦しみから逃げたい!という気持ちが強いですが、決して逃げることなく、真正面からガチンコ勝負で、背後に働く暗闇に立ち向かう時、霊的戦いは前進します。めげないで、前進し続ける信仰、これが霊的戦いそのものなのです。
様々な苦しみのただ中におられたら、信仰に立って、真正面から立ち向かって下さい。それはイエスさまの苦しみの欠けた所を満たすことになります。イエスさまの十字架の苦しみによって、死の力は打ち破られ、人類最大の勝利と喜びにつながったのです。

以前にも詳しく語りましたが、教会とは、ただ人類だけが所属している機関ではありません。他の被造物もすべて、キリストの体に属しているのです。ローマ人への手紙八章を見ますと、八章二十一節、

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に預かります。私たちは知っています。被造物のすべては今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

ここには「ともに」と記されています。私たちが様々な試練に会う時に、我々の管理下にある、被造物も一緒にうめき苦しみ、祈りに参加している。のです。これに気づかされると、本当に勇気づけられるのではないでしょうか。
今回、私たちのために多くの方々が祈ってくださったと共に、被造物たちも、新城教会の牧師、牧師夫人の霊的戦いに参加してくれたと信じています。

家内の病気が発覚して二日目ぐらいに、一人の婦人が、家内にどうしても会いたいと言って、病院に来てくださいました。
そこでどんなことを話して下さったかと言いますと、彼女は家内のことを聞いて、大きなショックを受けて、うめき苦しんで祈ってくれたそうです。
するとその夜、不思議な夢を見たと言うのです。それは、「この戦いは、享子に対するように見えるけれど、最大のターゲットは順牧師だ」と夢の中で主から語られたそうです。家内を苦しめたら、私も一緒に倒れるから、悪魔はその為に働いているから、「順牧師のためにも祈れ」と夢の中で語られたと言うのです。
すると目の前に、連鎖祈祷のリストが出てきたと言うのです。瞬く間に、日本全国、いや世界中の人たちが「私も祈ります!私も祈ります!私も祈ります!」と、祈祷リストが埋まっていったと言うのです。実際、今回、世界宣教LINEなどを通じて、世界中のクリスチャンと教会が私と家内のために祈ってくださいました。
夢の中で、どんどんリストが埋まっていくので、自分もリストに名前を加えなくちゃ!と思って見ていたら、なんと、天の星々、星屑さえも、「祈ります。祈ります。祈ります。」と加わっていったという夢だったそうです。「そんな不思議な夢を見ました。」と告げて下さり、大いに励まされました。
今まで私たちは、すべての被造物の回復を祈ってきましたけれど、今回の戦いは、ただ私たちだけでなく、被造物全体の戦いだと意識して戦うようになりました。

私はよく、県民の森で祈るのですが、森全体が一緒に祈ってくれているような気がしています。手術が終わって、なかなか大変な日々が続いたある日、孫を連れて愛知県民の森に祈りに行きました。そうしたら、一本の木がうめいて、家内のために祈ってくれているような気がしました。
 そこには、手術を受けてお腹が割れているような木があって、この木はきっとうめいているのに違いないと思い、その場所で祈りました。被造物全体のうめきがキリストのからだに加えられる時、事態は、大いなる勝利へと向かいます。
「人のうめき・苦しみ、被造物のうめき・苦しみ、そして、聖霊のうめき・苦しみが一つになる」時に、「圧倒的な勝利者」になるとローマ人への手紙八章において、パウロは語っています。

「神の愛」と一口で言いますが、そもそも愛とは何なのか?
昨日も結婚式の中で少しこのことについて、語らせていただきました。「愛」は最も大切であると聖書は告げています。
『こういうわけでいつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。』とあります。やがて神の国が訪れる時、信仰は要らなくなります。なぜなら信仰は現実になるからです。希望も達成されますから、要らなくなります。それで、神の国にまで残るのは「愛」だけだと言うわけです。

日本語での「愛」には、神の愛も、人の愛も、全ての種類の愛が入ってしまいます。日本語で愛を区別することは難しいです。新約聖書は、ギリシャ語で記されました。ギリシャ語では愛を四つに区分し、表現しています。
真実の愛は「アガペー」という単語が使われています。家族愛は「ストルゲー」。そして、男女の愛は「エロース」、エロとかという言葉を日本人はよく使いますが、ギリシャ語です。
そして「フィリア」、これは隣人愛です。
二番から四番目までの愛は、相手に何らかのメリットがあるがゆえの愛です。「家族愛」は、子どもたちのためならば、両親は命を捨ててもいい!という気持ちがあります。しかし他人の子どものためには命は捨てません。やっぱり、メリットがあるわけです。
聖書が告げる愛は、アガペーの愛です。真実の愛だけを愛としています。イエスさまが十字架の上で表した愛は、アガペーの愛です。何の取り柄もない、何のメリットもない、罪を犯して離れていった人類と、一緒に堕落した被造物を贖うために、神の子が命をかけてくれた。この無条件の愛がアガペーであり、この愛を結婚生活の中心としなければいけないと、昨日もお話しさせていただきました。
コリント人への手紙第一の十三章は愛の章です。ここに、

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、』

と続いています、十三章の「愛」とは、ギリシャ語では「アガペー、真実の愛」が使われています。最初に『愛は寛容であり』とあります。昨日の結婚式でも「寛容」という言葉について学びました。「アガペーは寛容だ」と語っています。「寛容」とは、「心が広くて他人の言動をよく受け入れる事」という意味です。
しかし聖書翻訳は、すべて原文の意味を忠実に反映しているとは限りません。特に「寛容」という言葉は、本来、聖書翻訳に使ってはいけない単語です。
調べてみますと、寛容の原点は、「特定の宗教、宗派、その信仰内容・形式を排除せずに受け入れる事」という意味であるからです。寛容とは、キリスト教信仰とは、全く相反した用語です。偶像礼拝だろうがなんだろうが、受け入れろというのが、寛容の原点にある意味らしいのです。本来は、「アガペーは寛容だ」と訳してはいけないのです。