「神の国のために戦おう!」

2021年4月11日(日)新城教会牧師 四元雅也

ヨハネの黙示録12章10〜11節

『私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。」』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日も礼拝でメッセージを語らせていただく恵みが与えられましたことを心から感謝いたします。今日は暖かい良い日が与えられて感謝ですね。
教会のためにいつもお祈りいただきまして、主の働きが続いておりますことを、心から感謝します。「世界宣教とりなしメール」にも報告がされておりますけど、滝元享子先生のためにお祈りいただき感謝します。メッセージの後で順先生からお祈りの導きがあると思いますので、その時にもご報告があるかと思いますが、これは今日のメッセージタイトルと同じように「神の国のための勝負のかかった戦い」であると思います。ですから私たちもぜひ順先生ご夫妻を祈りでサポートしていきたいと思います。

先週から今週にかけては、教会でもいろんなことがありまして、先ほど開先生からもご報告がありましたが、M兄弟が先週月曜日に亡くなられて、そして火曜日に召天式が行われました。

そして先週金曜日には、G兄弟のお父さん、S兄弟が召されて、家族葬で召天式が執り行われました。いずれの召天式も、神さまの守りの中で、祝福、慰め、また証しの時として用いられました。
S兄弟の奥様はR姉妹とおっしゃるのですが、二人とも新城教会のメンバーであります。昨日召天式の時にR姉妹が順先生の所に来られてご挨拶しておられました。その時にこんなことをおっしゃっていました。「今日は笑って送り出したいと思います。」と。その言葉を聞いて感動いたしました。私たちはイエスさまを信じて、永遠のいのちをいただいた確信を持つことができています。そして召された方も今は安らぎの中にいらっしゃると信じていますし、自らもそこに行って、もう一度再会することができる。そういう望みがあります。ですから私たちは死を悲しむ必要がないのです。これは本当に素晴らしい恵みであります。
先週、M兄弟の召天式の折に、Mさんが病床で話された動画が紹介されました。その中では、Mさんは体力も衰え、この世の旅路の終着点が近いことが分かり、息をするのも苦しい大変な状態の中、娘さんが「お父さん、英語で何か話してよ。」と言いました。それで「英語?」と戸惑いながら、Mさんが話されたのは、「I’m very happy(私はとっても幸せです)」だったのです。その映像が紹介されて、本当にすごいなぁと私も感動しました。
召天式の時、私の家のご近所さんで、Mさんの知り合いの方がいらっしゃって、私の家内の所に連絡が来ました。「私、クリスチャンじゃないけど教会の召天式に行ってもいいの?」と聞かれました。それで家内は、「ご親族も喜ばれると思いますよ。ぜひよろしかったら。」と勧めて、三人の奥さんが来て下さいました。
彼女たちが見たものは、本当に衝撃だったみたいですね。召天式の中で賛美がささげられましたが、まず歌われたのは、今日の礼拝の一番最初に歌った「ときの声を上げよ」の賛美でした。召天式のただ中で、会衆一同で、「ウォー!」とやったわけです。それでまず面食らい、その後、Hiraku & Norikoの特別賛美もありましたし、その時は順先生が、「こういう場ですけど拍手でお迎えください。」と言って、みんなで拍手で迎え曲が終わったら拍手して、とどめがMさんの「I’m very happy」だったわけです。教会でなければ、この辺りのお葬式といえば、ポックポック・・ホニャーホニャーホニャララーーー・・チーン・・・「合掌・・。」とか言います。お葬式の中で明るいことを言うとか、みんなで歓声を上げるとか、一般的な葬式ではそのような行為はもっての外です。むしろ悲しみを前面に出すことを良しとするものです。ですからあまりの違いに彼女達も「教会のお葬式っていつもこんなに明るいの?」とおっしゃったのです。
クリスチャンって、死んだ時にも証しすることができる。すごいなぁと私は常々感じるのですが、今回も改めて強く思わされました。

また、今日はこの後、婚約式があります。いつも言われることですけど、昨日はここで召天式がありましたので、私が立っているこの場所に遺体が置かれていたわけです。人によっては、「なんと縁起の悪いこと!」「祝いの席で、前の日にそんなことがあって!」と言われるかもしれないですが、教会ではそんなことはないですね。お葬式もイエス・キリストによる罪の奴隷からの贖い、そして赦しを受けた私たちにとっては、死も、縁起の悪いものでも忌まわしいものでもないということであります。永遠の祝福に入る入り口です。教会は「ゆりかごから墓場まで」とよく言われますけど、人生の四季が織りなされるところであります。
今日の婚約式の当事者の兄弟は私の甥で、個人的にも嬉しいです。
婚約者のYさんとは、私も二年ぐらい前からお話したり交わりを持ったりしていますけど、気遣いのできる優しい方です。お父さんを早くに亡くされて辛いことも経験しておられますが、そういう中で素晴らしい方に成長されたと思います。今日は一段と美しくて、甥は素晴らしい方と婚約することができて感謝しています。みんなでお祝いしていただきたいと思います。

メッセージの本題に入らせていただきたいと思います。私たちが信じている信仰の土台である聖書は、扱っている時代区分が人類の歴史と重なっています。

このように天地創造から始まって、人類の歴史とともに聖書の記述は進んでいきます。最後は世の終わり、そして新天新地の到来で終わるわけです。

そして聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。
 そして、旧約聖書と新約聖書の全体の中心テーマが、イエス・キリストによる人類の救いです。ですから旧約聖書と新約聖書の真ん中にイエス・キリストがあり、十字架があるということです。救い主イエス・キリストを中心にして、それ以前の出来事は旧約聖書に記されている。旧約聖書の中心メッセージは、「人類に救いが与えられます。」という預言メッセージです。
神さまがアブラハムを選ばれて、救いの歴史がスタートしました。アブラハムから出たイスラエルという民族を選ばれて、その後イスラエル十二部族の中からユダ部族が選ばれて、ユダ部族の中から今度はダビデ王が選ばれて、時代を通じて救い主の具体像が徐々に、旧約聖書の中で明らかにされていくわけです。
そして新約聖書の中には救い主イエス・キリストを通して、神の国の到来が宣言されたと語られています。
 イエス・キリストの十字架を経て教会が誕生し、救いの業が世界に宣べ伝えられ拡大していったわけです。神の国が徐々に世界に拡げられてゆき、最終的にイエス・キリストの再臨、もう一度再びイエスさまがこの地上に来られ世界を治められ、新天新地が現れて永遠に続いていくことになるわけです。
これがざっくりとした聖書の全体像であります。

これをご覧になってもあまりピンとこないかもしれませんけど、この全体像は人間業では創ることができない、神さまにしかできないことです。長い歴史を貫いて現された出来事であります。今まで申しあげたように、聖書はそういった歴史の中で書かれた書物であります。六十六冊の本が一冊にまとまっており、多くの人たちによって書き上げられた本です。そして、世界の初めから人類の歴史、未来、世の終末について書かれているわけです。こんな本をあらかじめ骨格を練って、そして「よし!こんなストーリーでいこう!」なんて計算できる人なんて一人もいません。神さまが脚本を作って、イスラエルというキャストを選んで、彼らを操る監督に神さまが自らなられて、彼らを中心に歴史を動かされたからこそ、この事実を綴り上げた本・聖書が出来上がったということなのです。
聖書には、この世界が歩んできた歴史に、イスラエルという民族を通してご自身を現された神さま。そしてその物語によって神について、神の国について、そして永遠について教えています。だから歴史自体が聖書のことばの正しさを証ししているのです。
イエス・キリストを世に送り出した民族イスラエル。その歴史を通じて神さまが救いの計画を現されたことを、私たちは実は旧約聖書を通して知ることができるのです。
旧約聖書には、「イエス・キリスト」、あるいは「イエス」という名前は、ただの一回も出てこないのですが、旧約聖書の中には、イエス・キリストについて語られていると言われるみことばが、ある人が数えた結果によると三百以上もあると言われています。私は数えたわけではないので分からないのですが、別の方が言うと七十五くらい、別な人は六十ぐらいあるのではないかと言う人もいます。いずれにしても、旧約聖書にはたくさんの記述があるということであります。
その預言を実現したのがイエスさまです。ですからイエス・キリストは、神の子救い主としての資質を備えた存在であるということを知ることができます。

ちょっと話が変わりますが、最近よく暦についてお話しされるようになりました。皆さんも暦の重要さについて理解されていると思います。でも「暦ってそんなに重要なの?」と思われている方もいらっしゃるかもしれません。
この暦がなぜ重要なのか考えると、旧約聖書に書かれている記述と聖書の暦、そしてイエスさまがなされたことを突き合わせることによって、イエスさまが十字架にかかられたタイミングが旧約聖書の出来事と関連していることを私たちは知り、その意味するところを知ることができる。私たちは暦を学ぶことによって、そのことに気づくことができるようになったわけです。
聖書に記されている暦は、十字架以降、教会の歴史の中で書き換えられてしまったことが話されています。ですから私たちが旧約聖書の時代に描かれた神さまのカレンダーが、実はイエスさまの十字架を暗示する影であることが、私たちの心に実感として迫って来てなかったと思います。
先週も順先生が語っておられましたが、旧約時代になされた過ぎ越しとイエスさまの十字架との間には重要な関わりがあることに気がつきませんでした。、暦に目を留めるまでは、全く関係ない太陽暦の日曜日の方がイエスさまのよみがえりと強い関わりを持っている、そういった的外れな認識を持ってクリスチャン生活を送っていたわけです。
去年の復活祭の時、私たちは「イエスさまがよみがえられた日曜日をお祝いしましょう!」と認識していたわけです。そして、私たちが日曜日に礼拝をささげることも、それがよみがえりの日だから、と信じていました。
けれども太陽暦の暦で言うと、今年は三月二十七日の土曜日にイエスさまが十字架にかかられ、復活の日は三月二十九日の月曜日だと考えられます。日曜日ではないということです。それを私たちは今まで知ることができなかった。聖書にはっきり書いてあるのに私たちはそれを意識してなかったということなんです。
もちろんコロサイ人への手紙の二章十六〜十七節を見ますと、

『こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。』

とありますように、現在私たちが主を礼拝するのは何曜日でも構わない。旧約時代の律法によってもたらされる束縛から私たちは解放され、割礼を受けなくてもいい。いけにえをささげることもしなくていい。あるいは旧約の時代にあった食物の規定、「これは食べていい。これは汚れてるから食べちゃダメだ」という、そういった各種の定めに囚われる必要はない「恵みの時代」に私たちは生かされている。そして暦の束縛からも解放されて、いつでも集まって礼拝できます。

しかし、今お話ししてきたように、歴史を通して神さまの現された計画の偉大さを見る時に、イエスさまがなされたこと、十字架刑とその後のよみがえりが、仮に歴史的な背景がなく、イエスさまが突然現れて、成り行きの中で十字架にかかり、成り行きの中で復活された。イエスさまが本当に神の子であって、その行った業が事実であったとしても、今生きる私たちがそのことを真実で私たちのためのものだと実感することはできないのではないかと思います。前振りの歴史がなく、突然それらが起こったとしたら、どこかの新興宗教の教祖が「私は神に出会いました。」とか、「私は神から遣わされました。」というのと変わらない。そういう人は世の中にいっぱい出ています。そして、ありがたいと思われるような教えを語って信者を集めるようなことがよくあります。その教えには重みがないわけです。そうではなくて、旧約聖書を通して、歴史の中で生きておられる神さまを見て、その神さまが千年以上にわたって、イスラエル民族を通して周到に計画された人類の救済計画があって、それをイエスさまが実現された。暦も踏まえて、日にちも合わせて、旧約聖書の出来事を完全なものとして成就されたことを、私たちは旧約聖書に目を向け暦に目を向ける時に、発見することができるわけです。だから暦が重要な意味を持ったものだということを私たちは知らなければなりません。

ヨハネの黙示録十二章一〜二節をお読みしたいと思います。これは聖書の最後の書巻です。冒頭にお読みしたみことばの前の部分です。

『また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。』

黙示録は難解な書と言われます。ここに一人の女が出てきます。この女のイメージは、
 なんじゃこりゃ?というものです。太陽を着て、月を足の下に踏んで、頭には十二の星の冠をかぶっていたと。こういうイメージを見るとちょっとやっぱり異様ですね。普通ではない。これは何だろうか?と考えます。ある人はこのことばを、「未来に対する予言だ!この時代のこの人物を女は現しているんだ!」みたいに解釈したりして、ますます訳が分からなくなるというようなところがあるのですが、このイメージを理解するために、旧約聖書に目を留めると、理解の助けになるんです。
最近皆さんタブレットかスマホで聖書をお読みになる方も多いですけど、紙媒体の聖書、本の聖書を見ますと、この女について書かれている所に小さく数字が打ってあります。それで注釈欄を見ると、そこに引照として書かれているのは旧約聖書の創世記三十七章九節です。そこを読んでみると、

『再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。』

イスラエルの始祖となったアブラハム、イサク、ヤコブ。そのアブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ。このヤコブがラケルと結婚して生まれたのが、このヨセフなんです。ヤコブには実は他にも奥さんがいまして、

レアとラケルとビルハとジルパという、二人の奥さんと二人のそばめがいて、合計十二人の子どもが生まれました。ヨセフが見た夢とは何かと言うと、太陽と月と十二の星というのは、自分の家族のことを言っています。それは大きな意味では、そこから増え広がって一つの国民となったイスラエル民族というものを指します。

だからここに書かれているなんとも摩訶不思議な女のイメージは、実はイスラエルの民族を象徴しているイメージだと知ることができます。そして、イスラエル民族に起こった歴史的な出来事について、ヨハネの黙示録十二章には描かれているということを見ることができます。

この女が「産みの苦しみをした」のはどういうことかというと、イスラエル民族は先ほど申し上げたように、イエス・キリストを生み出すために用いられた民族ですが、そのために、歴史を通じて様々な苦しみを経験しました。そのことを産みの苦しみとして表現しているわけですね。そして子どもが生まれた、その子こそがイエス・キリストです。
そして、これらのイスラエルの苦難の背景には、実は悪魔の妨害、攻撃があったのだと記されています。ヨハネの黙示録十二章三〜十節にかけてそのことが書かれています。

『また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。』