「機会を十分に生かして用いなさい」

2021年9月19日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

エペソ人への手紙5章16〜20節

『機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

ハレルヤ!皆さん、おはようございます。今日、このような場所に立たせていただいて、みことばを取り次ぐ恵みに預からせていただいていることを心から感謝致します。
今の滝元美佐子さんの特別賛美、とても素晴らしかったですね。タイトルご覧になられましたか?あのタイトルは「確かにその時機だ。〜いざ共に喜べ、愛する信者たちよ〜」でしたね。今日は「機会を十分に生かして用いなさい。」というタイトルを神さまから与えられ、みことばを準備させて頂いておりますけども、今日のメッセージの内容とぴったりの特別賛美が神さまによって備えられて、本当に神さまは生きておられるなぁ、時にかなって美しいわざをなされる主が確かにおられる、主の恵みを感じながら、この場に立たせていただいていることを心から感謝し、主を賛美する思いで満たされております。今日もその生ける主に期待して、みことばを共に受け取っていければと願わされております。

それではみことばを学んできたいと思いますが、その前にちょっと、チョウチョのお話をしたいと思います。最近、新城教会において、私たちは被造物の管理人であるということを語られるようになって、我が家でも、被造物に対して、もっと知っていこう、興味を持っていこうということで、いろんなことをするようになりました。散歩に出かけては、草花を取ってきて、名前を調べてみたり、また昆虫を捕まえてきてみたりしています。クワガタやカブトムシを捕まえたり、時にはザリガニを捕まえたり、魚釣りをしたりするようになりました。そんな中でただ捕まえるだけではなくて、我が家ではいろんな生き物を飼育するようになりました。
その中の一つがチョウチョです。
 ここ数年、毎年チョウチョを飼育しているんですけども、チョウチョの飛んでいるものを捕まえて籠の中に入れて飼っているというわけではなくて、卵の状態から取ってきて、そしてチョウチョが羽化するまで飼って観察しています。この被造物の管理人としての勤めを家族で学んでいます。

 チョウチョの卵はとってもちっちゃい、粒のような卵なんですけども、それが不思議にそこから青虫が生まれて、そして青虫の時代は葉っぱをたくさん食べるわけですね。そしてやがてサナギになります。サナギになると微動だにしなくなります。そしてしばらくすると、いつのまにかそのサナギの殻を破って、あんな美しいチョウチョに大変身を遂げるんです。青虫の時は葉っぱを食べているだけなんですけれども、このサナギの過程を経て、全く姿が違うチョウチョになって、羽を持って、今度は大空を飛ぶようになる。神さまの素晴らしい作品の成長過程を見る時に、いつも家族で感動を覚えております。

この被造社会を見渡すと、秋が深まって稲穂もだんだん垂れてきて実がなってきました。また教会の駐車場の栗の木も実がたくさんなっております。被造社会に目を留めると、神さまの素晴らしい被造物たちが喜んで賛美しているかのように、時にかなって実をならせて、主に栄光をお返ししているのを見ます。しかし私たちの社会に目を向けると、どのような状況が今あるかと言うと、やはり新型コロナウイルスの影響で、私たちの生活は一変してしまって、何をするにも制限があるというような時を今過ごしております。この礼拝においても感染に十分に注意をして、マスクをしていただいて、消毒をしていただいてという、そのような制限のある生活を私たちはしております。
そのような困難な社会状況の中、また時代の中、また私たちが時に直面する様々な難しい解決困難な病や経済的な問題、また家族だとか、友達や、学校や、職場や、この地域社会においての様々な問題に直面して、私たちは苦しみの時を過ごすような時があるわけです。私たちは時に、「主は私と共におられないのかな。あれ?主は働いてくださらないのか。もうどこかに行って留守にしてしまっているのか。またこのように苦しんでいる私たちの状況を見て、神さまはただ傍観して見ているだけなのだろうか。神さまは変わってしまったのかな。」と、時々不信仰になって、不安や恐れでいっぱいになってしまうのが私たち常であると思います。私自身もそのような者でありますけども、今日、光なる神さまご自身は、確かに私たちと共におられて、そして昨日も今日もまた明日も変わることのない主がおられるということをまず覚えていきたいと思います。
主はまどろむこともなく、眠ることもない方で、二十四時間、私たちに働きかけ続けてくださっています。そして溢れる愛と恵みと祝福を私たちに注ぎ続けてくださっている、変わらない主が今日おられます。私たちがどのような環境の中においても、またこの社会が、時代が、どのように悪くなったとしても、主は生きておられて、そして私たちとともにおられて、すばらしい主ご自身の変わらないご計画を主が押し進め続けてくださっている。被造社会に美しいわざが現されているように、それが証しであるように、私たちにもその主の計画というのは、必ず主によって進められているということを、今日皆さんでまず共に覚えていきたいと思います。ヤコブの手紙一章十六〜十七節に、

『愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』

このように神さまには移りゆく影はありません。変わらない主が共におられる。その事をまず覚えていきたいと思います。しかし現実はやはり、私たちは制限があるという、その生活は変わらないですね。そのような制限があるという状況を覚えた時に、このチョウチョのことが思い浮かびました。
今、ちょうど私たちはチョウチョで例えるならば、サナギの状態にあるような、そんなステージを歩んでいるのではないかなと覚えさせられました。
 サナギというのは微動だにしないわけで、制限のある状態であります。じっとして動かないでいるわけなんですけども、そこから全く姿を変えて美しいチョウチョになっていくわけですけども、あのサナギの状態というのは、決してチョウチョが死んでしまって、何もしていないわけではないんですよね。生きているんですね。
マネはあまりしない方がいいんですけども、指でサナギをちょんっと押してやると、ピクっと動くんですね。サナギは生きているんですね。
最近テレビで見たのですが、国蝶のオオムラサキのさなぎというのはすごく大きいんですね。テレビ番組のレポーターの方が触ったら、すごく大きくふわっと揺れて、捕食者から身を守るために動くんですね。サナギの状態でも、制限がある状態でも、チョウチョはちゃんと生きて、その営みを営んでいるんですね。そのサナギの状態からチョウチョになるわけですから、サナギの中でなされている神さまの創造わざ、細胞分裂の激しさはどれぐらいだろうか。計り知れない多くの働きが、全く動けない制限の中にあるサナギの中において成されているわけなんですね。
今私たちは制限がある、動きを取ることがなかなか難しい、不自由さを覚える時期を過ごしています。困難な時代、時を過ごしていますけど、このような社会環境や時代に対して、「なんとかやり過ごそう。」というところが私自身の中であるなぁということを、最近覚えさせられました。
それは何か間違っているんじゃないか?ということを、このチョウチョのサナギのことから教えられました。変わらない神さまの創造のわざがチョウチョの中でも成されている過程がある。私たちの中にもそのような神さまの変わらない計画が進められている中にあって、私たちはなすべきことがある。神さまから委ねられた、神さまが私たちにして欲しいことがあり、その計画が進められている。そして私たちは制限があるような、サナギのような状況の中にあったとしても、もしかしたら私たちは制限のあるその時こそ、私たちがなすべきことがたくさんあるのではないか。主の大きなみこころが、み思いが私たちに注がれて、今この時に私たちがしなければならないことがあるということを強く覚えさせられています。

このような制限がある時に、周りの社会状況や、環境や、困難な問題に、私たちは目を留めがちになってしまいますけども、その時に心配や不安や不信仰でいっぱいになって萎縮してしまうことなく、変わらない神さまご自身を見つめて、そして変わらない主ご自身のご計画、み思いに目を留めて、主のみこころは何であるか、主に喜ばれることは何であるかということを、しっかりとこの時に、この今の時に悟って、そしてこの最も激しい働きのあるサナギのステージにおいて、私たちは機会を十分に用いて、この今の時を大切に過ごしていくことは、とても重要なことではないかということを覚えさせられております。その主のみ思いを皆さんと共に受け取っていければと思います。
そしてこのサナギのステージの後は、さらに美しい、全く姿形を変えた、羽を持った美しい蝶となって、私たちは大空を飛び回る、素晴らしい季節を、恵みをいただいていく季節がやってくると、そのような希望を神さまから頂いております。今日は、その希望を皆さんと共に受け取っていきたいと願わされています。

では早速、みことばに移っていきたいと思います。エペソ人への手紙の五章十六節から二十節。「機会を十分に生かして用いなさい」という箇所ですが、このエペソ人への手紙の五章の前半にはどのようなことが書かれてあるかと言うと、少し簡単に要約すると、「私たちは神に愛された者として、愛されている子どもらしく神の愛の内に歩み、また光の子どもらしく歩み、光の実を結ぶように。そのために主に喜ばれることは何であるかを見分けなさい。」と、そういった内容が書かれています。
そして「賢い人のように歩んでいるか、よくよく注意し、」とあり、この十六節に繋がっていきます。「機会を十分に用いなさい。悪い時代だからです。」ということですね。主に喜ばれる歩みをしているか。賢い人のように歩んでいるか、よくよく注意してそのために機会を十分に生かして用いなさいというみことばであります。
悪い時代とありますが、いつの時代をとっても、悪魔の支配の中にあって、未だ神の国は完成しておりません。悪い時代の中に私たち常に生かされているものですが、そのような時代にあって、「機会を十分に生かして用いなさい」ということを神さまは言われているわけですね。

この「機会を十分に生かしていて用いなさい」という所の内容を見ていきたいと思います。これは英語のASV訳を見ると、「Redeeming the time」という訳となっています。この「Redeem」というのは、「贖う」という意味があり、「時を贖い出しなさい。」そのような意味合いがここではあります。
この「贖い出す」ということですけども、どのような意味合いがあるかということを二点、見ていきたいと思います。一つは、時を、サタン、悪から贖うということですね。このエペソ人への手紙四章二十六〜二十七節に、

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

とあります。私たちの罪、悪い行いを通して、悪魔が働く機会を与えてしまい、そして時を十分に用いることができずに時を逸することもあるということですね。ですから、罪という悪い道に歩まずに、時を悪から、サタンから贖っていくということは大切なことである。そのようにも解釈することができると思います。
そしてもう一つは、贖いというものは、犠牲が伴いますね。この二番目、「良き事を成す機会を逸しないように、犠牲をはらっても、今の時を有効に活用せよ。」という解釈です。「この機会を十分に生かして用いなさい。」というのは、こちらの解釈の方が強く反映されているかと思います。私たちはこの困難な時代の中、悪い時代の中にあったとしても、変わらない主のご計画の中で生かされている光の子どもとして、主に喜ばれることは何かということを悟って、よくよく注意して、主からの時を贖い、勝ち取っていきたいと思います。

神さまは、光の実を与えてくださるということですけども、秋が深まってきて、様々な収穫の季節となっていますが、収穫にも時がありますね。収穫時期を逃してしまえば、その実の最高の状態というものを逃してしまいますね。取り損ねることもあります。主の計画にも同じようなことが言えるかもしれないですね。私たちが時を逸してしまうと、神さまが用意されている最も良い実を取り逃がしてしまうこともあるかもしれません。あまりにもこの悪い時代に対して目を向けすぎて、時を贖い勝ち取るということを逸して、収穫を逃してしまうかもしれません。
ですから本当に私たちはこの贖い、犠牲を惜しむことなく、時を逸することなく、時を捕らえて、今神さまが注いでおられるご計画、み思いを、霊の目を開かせていただいて、受け取らせていただき、光の子として歩んでいき、そして神さまが用意された光の実を収穫し切っていきたいと願わされております。

そのような「機会を十分に生かして用いなさい。」に続けて、神さまは、どのように注意をしていったらいいかということが、エペソ人への手紙五章十八節に書かれています。

『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。み霊に満たされなさい。』

これは命令形なんですね。「酒に酔うな。」「御霊に満たされよ。」強い口調であるわけですね。この「酒に酔ってはならない。」ということは、実際の酒に酔ってはいけないということも言えるかもしれませんが、もう少し内容を深く見ていきたいと思います。
エペソの町というのは、ローマのアジア州の首都であって、エーゲ海の東岸にありました。この小アジア地方はぶどうの名産地でありました。良いぶどうが採れたみたいですね。
そしてそれは酒の、ワインの素となっていったわけですけども、このエペソやこの地方にあったのは、何があったかというと、酒の神、ローマ神話の神、バッカスですね。

これが祭られていたと言います。
この「酒に酔ってはいけません。」とは、もちろん本当の「酒」ということもあるかと思いますが、このようなエペソの地方にあった「酒神バッカス、偶像礼拝に対して注意しなさい」ということを言っているのかもしれません。
またそのような偶像礼拝は、その地方において当然のような文化や習慣となって、人々の生活の中に君臨していた悪であります。そのようなものに注意をしなさいということを言っているとも解釈できるかと思います。
そして「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と続いていきますが、酒に酔って品性を失ってはいけませんよということでもありますけが、放蕩という言葉の原語を見ると、「救われ難い」とか、「無駄にする」、そのような意味があります。そのような私たちの生活にひっそりと入り込んでいる悪に屈して主の恵みを私たちが無駄にしてはいけない、また救われ難くなってはいけない、そのようなメッセージをここでは語られているのではないでしょうか。

現代の私たちの生活の中に当然のごとくに入り込んでいる悪の存在とは何であろうかということを思い巡らした時に示されたのが、SNSだとか、インターネットですね。また映画が見れたり、ビデオが見れたりするAmazonプライムだとか、Netflixのことが思い浮かびました。
 皆さんもよく使われるかと思いますが、私もよく使っておりますけども、これを使っていると本当にあっという間に時間が過ぎていくのを皆さん経験されたことはないでしょうか。私はあります。私が一番注意しなきゃいけないですが。しかし、これらは私たちの生活に本当に当然の如くに入り込んで、そして時間を奪っていくんですよね。
これらすべて、インターネットが悪いとか、そういうことを私は言いたいわけではないんで。今の時代、こういったものを使って福音宣教のために用いられておりますから、欠かすことのできないツールだと思います。しかし、これらのものは、私たちの生活の中に巧みに入り込んで、時間を盗んでいく時間泥棒なのです。私たちの時間を盗んでいく、神さまから与えられた時間を盗んでいくような悪に対して、私たちはしっかりと見極めて、選び取って行くことは、本当に大切ではないかなということを、覚えさせられております。何か物が盗まれるのではなくて、時間が盗まれるんですね。本当に悪魔は巧みですね。

このインターネットにちなんで、最近はスマホが普及し、私たちの生活の中には常にたくさんの情報が入り込んできていますね。それを良いもと悪いものを見分けるというのは本当に難しい時代であるなと思います。そんな情報に溢れる私たちの生活の中で、スマホ中毒だとか、スクリーンがないと駄目という「スクリーンスレイヴァー」「スクリーンの奴隷」となってしまう方が多くおられると言われます。たくさんの情報が常に生活の只中に入り込んでいる現代人は、注意散漫になってしまう傾向があるということが言われます。
さて、ここで皆さんにクイズを一つ出したいと思います。問題です。「人間の集中力はどの程度持続するでしょうか?」今、注意散漫になってしまう時代でありますけども、アメリカのマイクロソフトのカナダの研究チームが二千人を対象に脳波を測定して、その結果を出したんですね。それは二〇〇〇年のデータでありますが、どれくらいだと思いますか?では正解を見ますね。十二秒です。
そして、二〇一五年にも調査をしたそうです。何秒だと思いますか?八秒だそうです。私たちから集中力を奪って、本当に見るべきものを見せないようにし、時間をどんどん奪っていくような悪魔の策略というものがあることを覚えます。ちなみに金魚の集中力は何秒かというと、九秒だそうです。金魚に負けているかなぁと思いますけども、金魚も神さまの素晴らしい創造物ですけども、金魚に負けないように、本当に時間が奪われないように、神さまから目をそらされないように、主を見上げて、主のみ心を受け取っていきたいと思います。そのために何が必要かというと、「み霊に満たされなさい」ということが次に書かれてあります。

み霊に満たされるためには、五章十九〜二十節、

『詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。』

と、み霊に満たされるために、何が必要か。この「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語ること、また歌うこと、賛美すること、感謝すること」ということであります。「互いに語る」というのは、意味合い的には「楽譜に合わせてはっきりとした言葉で主を賛美する。」そのような意味合いがあるということですけども、この互いにということは、一人以上ですね。ある意味、教会の、キリストのからだの賛美と捉えることもできるかと思います。そして個人の賛美もささげていく。また感謝をささげていく。その時に、み霊に、聖霊に私たちは満たされていくということをここで見ることができます。

今、この「機会を十分に生かして用いていく」”時を贖うため”にということで、見てきましたけども、それをさかのぼっていくと、この賛美と感謝をささげていく時、私たちはこの世の悪に屈せず、酒に酔わず、み霊に満たされていく。そして聖霊によって主に喜ばれることは何であるかということを、しっかりと悟り、正しいものを選びとって、行動していくことができる。そしてそのような中で、機会が十分に生かされていく。時が贖われて、その「今」という時を逸せずに、主のみこころを受け取り、主のみこころを成して、そして光の実をいただいていくことができる鍵が、このエペソ人への手紙の五章の中に隠されているということを教えられます。

この賛美をささげる、感謝をささげるというの、簡単なようで、とても難しい時もあります。今このような困難な状況の中、またお一人おひとりが様々な問題の中で苦しむ時、悲しむ時、私たちは賛美をささげるという事ができない時があります。感謝をささげるということができない時があります。
しかし、そのような状況の中においても賛美をささげるということは、何が伴っているかというと、犠牲が伴うということですね。機会を十分に生かす。時を贖い出す。この贖いには犠牲が伴っているということですね。私たちは犠牲をささげなければいけないということです。
聖書の中で最大の犠牲をささげた人物は、は、もちろんイエスさまでありますね。イエスさまの十字架の贖い、それ以上の犠牲というものはありません。