「弱さを知るときに働く神の恵み」

2021年5月16日(日)新城教会牧師 岡本信弘

コリント人への手紙第一 1章27〜31節

『しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。こうしてここに立つのは久しぶりです。皆さんと共に主を礼拝できる恵みを心から感謝いたします。

皆が集まって毎週礼拝する、それが当たり前のように思っていましたが、今は、皆が一堂に会することができずにいます。一年以上、一部・二部・ネット配信に分け、会堂なども十分に換気をし、消毒にも心がけるなどの対策に加え、座席の間隔をあけることやマスク着用など、皆さんにも注意を払っていただきながら礼拝が継続されています。いまだ新型コロナウイルスの感染は収まらず、現在は緊急事態宣言も出されていますが、まず、ここまで守られてきたことを感謝します。ここに来られている方やその関係する方々が守られてきたということは、ただただ主のあわれみであり、主の恵みであることを心から感謝します。これからのことはわかりませんが、主が必ず守ってくださると信じています。

教会、ミッション、プレイズの働きについても、皆さんが心配してくださり、時に、「大丈夫ですか?」と声を掛けていただくことがあります。いろいろと大変なこともありますが、その中でも主の恵みがあり、守られていることを心から主に感謝し、皆さんにお祈りいただいていることにも感謝いたします。

皆さんの家庭や職場でも、少なからずコロナの影響があると思います。また、そのほかにも病気で苦しんでおられる方やさまざまな困難な状況に陥っておられる方もいると思いますが、いつも主が共におられるということを忘れず、祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。

 

さて、四月二十九日から五月五日はゴールデンウイークでしたが、昨年、今年と外出自粛が叫ばれる中、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。この間、リバイバルミッションでは「ゴールデンウィークスペシャル」という七日間連続の配信がありました。私は関係者側にいながら、製作にはまったく携わっておらず、どんな集会なのかほとんど知りませんでした。私も昔は若者でしたので、いろいろな準備などにかかわっていましたけれども、今は若い人たちが頑張ってくださっているのを見ている立場となりました。

さまざまな企画がありましたが、明先生の「われ土方なれど」を元にドラマ化したものも配信されました。本は読んでいますし何度も聞いてきたエピソードでしたが、実際に映像で見て感動しました。また、この短期間によくぞここまで作り上げたなぁと感心しました。と同時に、私たちはこの一時間半ほど見ているだけですけれども、これを準備するためにどれくらい時間がかかったんだろう。裏方で働いてくださったスタッフはどんなに大変だっただろうと、その苦労を思い、さらに感動しました。

本当に素晴らしい出来で、それを見た知り合いも、「あの映像すごいですね。大学の演劇部よりもうまいですよ」と評価していました。またある方からミッションに、「私も献身者の一人ですが、あのドラマを見て再献身させられました」と、お便りが寄せられたそうです。今日の午後は、そのドラマが再び配信されるそうです。先回見られなかった方は是非ご覧ください。また見られた方も、献身についてのメッセージもあるそうなので、ぜひご参加ください。

 

先日、順先生がヨブ記からメッセージをされ、聖書の中に出てくる人物の中で、一番大きな苦しみを通ったのはヨブではないかと話されました。本当に壮絶な人生をいただいたというか、強いられた人ではなかったかと思います。私は弱い人間だから、あのような状況になったらとても耐えられないだろうと思っていた時に、このみことばが頭に浮かびました。今日は、コリント人への手紙第一 一章から、『弱さを知る時に働く 神の恵み』というテーマで、皆さんにお分かちしたいと思います。

 

皆さんの中でも、自分が「強い」と思っている人はあまりいないと思います。どこが弱いかは人それぞれ違います。歳をとってくると肉体的にもいろいろなところに不都合が出たりしてきます。私はもともと頭が弱いのですが、六十歳を過ぎてから体力がなくなってきたなぁと思うようになってきました。でも、若い時の残像が残っているというか、「まだこれくらいはできるだろう」と思っているのか、やってみるとできない、というようなことが多くなりました。

聖書には様々な人物が出てきますが、弱さを感じ、その弱さを主の前に訴えている人の記事もたくさんあります。旧約時代に現れたギデオンも、その一人です。

彼は、三百人の勇士だけで大軍隊と戦い、勝利を得ましたから、「素晴らしい勇敢な勇士」というのが皆さんのイメージだと思います。もちろん、そのとおりです。しかし、勝利に至るまでを見るとイメージが違います。また皆さん家に帰って読んでいただければいいのですけど、士師記六章を見てください。彼が、『ミデヤン人から逃れて、酒ぶねの中で小麦を打って』(十一節)いた時、主の使いが彼に現れて、『勇士よ。主があなたといっしょにおられる』(十二節)と言って励まし、遣わそうとされたことが書かれています。しかしこの時ギデオンは、「はい。わかりました!」とすぐに従うことをせず、「主が共におられるならば、なんでこんなことが起こったのですか。なぜこんな劣勢なんですか」、「どうしてそんなことができるでしょう。私の分団はマナセのうちで最も弱く、父の家で私は一番弱いのだから」(十五節参照)と、弱さを訴えている様子が書かれています。

 

では、新約聖書の人物で皆さんが「弱い者」だと思うのは誰ですか? 私にすぐに思い浮かんだのは、ペテロでした。皆さんの中にも「あぁ、そうですね」と思われる方がいるかもしれません。今日は、このペテロという人物に焦点を当てて、考えてみたいと思います。

ペテロはいくつかの失敗をしたことが書かれています。その原因を見てみると、私たちに重なるところがあるのではないかと思います。

ペテロの弱さの一つは「自信過剰であった」ということです。ここに「私は自信過剰だ」と思っている人は誰もいないと思います。人は時に失敗をするものですが、ペテロはイエスさまが十字架にかかる前、「みんながイエスさまを見捨てたとしても、私は絶対に見捨てることはない」と言いました。彼には自信があったのです。事実、ペテロはマタイの福音書二十六章で、このように言っています。

 

『すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。』(三十三~三十五節)

 

ペテロも弟子たちも、「絶対にあなたを知らないと言うことはない!」と断言しています。でも実際にはイエスさまが捕らえられた時、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまいました。その中でペテロは、イエスを捕まえた人たちが、イエスを大祭司のところへ連れていく時、「イエスさまはどうなってしまうんだろう」と心配してあとをつけていき、群衆に紛れて大祭司の中庭にいました。その時、ペテロは三人の人から、「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。この人は、ナザレ人イエスと一緒にいました。あなたもあの仲間だ、なまりでわかる」と言われ、ペテロは「そんな人は知らない」と、イエスさまを完全否認したのです。

ペテロは三年半もの間、イエスさまと苦楽を共にしてきました。そして自分はイエスさまの一番弟子だ! という自負があったと思います。

ペテロは、自分自身の弱さや欠点に気づいていませんでした。もし気づいていたら、あのような失敗をすることはなかったかもしれません。しかし彼は、「私は決してつまずかない」という自信過剰によって、失敗をしてしまったのです。

皆さんはいかがですか? 先ほども言いましたが、ペテロを含めて、「自分は自信過剰です」と言う人は多分、誰もいないと思います。しかし、自信過剰であるということに気づいていないだけかもしれません。もう一つみことばをお読みします。第一ペテロ五章六節です。

 

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』

 

この教会には今までに、何千、何万人の人が訪れたと思います。しかし、家族からの反対や異性の問題、些細な行き違いによって信仰を落としてしまった人が多くいます。信仰を守っていくのは大変なことだということを、私も分かっています。私は信仰生活六十年近くになりますが、このみことばを何度も何度も聞いてきて、「分かっていますよ。へりくだったら祝福されるのでしょ」と思ってきました。そして、「私は信仰を落としたりしない。自分は大丈夫」と思っているところもあるのだと思います。このように、自信過剰とまでではないけれど、どこかに「これぐらいは大丈夫」という自信があるのではないでしょうか。何でもできると思っているわけではないけれど、「これぐらいならできる。あの人よりはできる」と、自分で決めているというか、自信を持っている部分があるのではないでしょうか。

また、人は自分の弱さを認めたくない、自分はもっと出きるんだと思うものではないでしょうか。そして、自分で何とかしようと、一般のビジネス書を読んだりします。そこには、「あなたはできる。もっとできる!」と、自己啓発を促すことばが並んでいて、一見、心引かれます。しかし、これが高ぶりの始まりであり、大きな落とし穴であることも覚えてください。

 

そして、ペテロの失敗のもう一つの理由は、恐れではないでしょうか。

実際には、連行されるとも殺されるとも決まったわけではないにもかかわらず、ただ「あの人の仲間ではないですか?」と質問されただけで、イエスの仲間だと分かれば自分も連行されるかもしれないし、殺されるかもしれないと、人を恐れ、怯えて、自分の身を守るためにイエスを否認したのです。ここで彼の弱さが露呈したのです。

ペテロは失敗に気づいた時に、「こんなはずじゃなかった!」と思ったことでしょう。それまでのペテロは、どんな生活をしていたのでしょう。彼は漁師として一生懸命働き、多くの仲間もいましたが、イエスさまに召し出されて、弟子たちの長老格として他の弟子たちをまとめるような役割をして、いつもイエスさまと共に過ごしていました。これからも、ずっと一緒だと思って頼りにしていたイエスさまが突然捕らえられ、仲間の弟子たちがみんな逃げてしまいました。その中で、彼は一人ぼっちになり、それまで経験したことのない孤独を感じ、弱さを覚えたのだと思います。

世の中の人は、酒を飲み、大音量で音楽を聞き、大声で騒ぐことによって「自分は一人じゃないんだ。自分は大丈夫なんだ」と錯覚しているかもしれません。ペテロも弟子たちと一緒にいる時には、「たとえ全部の者がつまずいても、私は決してつまずきません」とイエスさまに断言しています。しかし彼が一人になった時、ただ質問されただけなのに、彼は恐れおののいています。

皆さんの中にも、新型コロナウイルスの感染への恐れや、なかなか教会に行くことができずクリスチャンとの交わりもできない、祈ってもらうこともできないと、孤独を感じたり不安を持っている方がおられるかもしれません。でも神さまは、いつも私たちに励ましてくださっています。

ヘブル人への手紙十三章六〜八節に、このようなみことばがあります。

 

『ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。』

 

皆さんの信じている神さま イエスさまは、「過去も、現在も、未来もすべて知っておられ、いつまでも変わることがない、偉大な神さまである」ということを覚えてください。

 

そしてもう一つ、ペテロが失敗したのは、人としてこの世に来てくださったイエス・キリストしか見ていなかったということではないでしょうか。

マタイによる福音書十六章二十〜二十三節に、このようにあります。

 

『そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』