「70年が満ちた2021〜回復と再建の年〜」

2021年1月3日(日)新城教会主任牧師 滝元順

イザヤ書44章26〜28節

『わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」』

ハレルヤ!おはようございます。そして新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。今日は一月三日ですが、皆さんの前に立ってお話ができますことを、心から感謝しています。
和基君の演奏すごかったですね。本当に氷の上を滑っているようでした。二〇二〇年、どんな人生だったでしょうか。私にとっては忘れることができない年となりました。本当に様々なことがあって、氷の上を滑っているような危ういところしたが、今日この場所に立つことができて、本当に感謝しています。
家内に去年の十月、膵臓癌が発見されて、余命は三ヶ月、四ヶ月と宣告されました。しかし、すでに一年二ヶ月ぐらい経ちました。元気にしております。まだ治療が続いていますので、ぜひとも祈っていただきたいと思いますが、今までのお祈りを、心から感謝いたします。
実は本日一月三日は、家内の六十五歳の誕生日です。昨年は六十五歳の誕生日は迎えることができないだろうと思ったのですが、皆さんの祈りによって支えられて、今年も誕生日を迎えることができて、心から感謝するとともに、主は生きておられると、大胆にお伝えできます。

今年の指針となるみことばが、十二月三十一日の夜、カウントダウンワーシップの中で語られました。私以外の七名の先生方が語ってくださいました。大変恵まれたメッセージでした。まさに七人で一つのメッセージを構成していました。二〇二一年に向かって、主が語っておられる印象を持ちました。
どのような順番で語るのかは打ち合わせなしで、この場所でくじを引いて決めました。聖書の中に、「くじは膝に投げられるがその決定は主から来る」と箴言にあります。「主よ、どのような順番でメッセージを構成されますか。教えてください。」と祈って、くじを引いたら、本当に上手くハマりました。あれだけ見ても、二〇二一年を主が導いてくださることを感じます。
それらをダイジェストとしてまとめてくださいましたので、ご紹介したいと思います。次週、それぞれのメッセージがどのようなものか、文章化してお届けしますので、お読み下さい。
二〇二一年に向けて主から新城教会に与えられたメッセージであると、信じるならば、そのようになると宣言します。アーメンですか?
では読んでみますね。

==
<<預言的メッセージ>>

昨年はあなた方にとって、波逆巻く嵐の中を小舟で進むような一年でした。しかし、わたしがあなた方とともにいて、あなた方を励まし、あなた方の敵を追い払いました。

新しい年は「喜びの年」です。
あなたは、まずわたしを喜び、わたしがあなたを訪れる道を整えなさい。
宣教70周年を振り返り心から感謝するとともに、あなたの将来をわたしに託し、希望を持ちなさい。苦しみは大きな勝利の喜びへと繋がっているのですから。

ダビデが王服を脱ぎ捨てて力の限り喜び踊りながら、神の箱を迎えたように、あなたの着ている、神に逆らう「自分」という王服を脱ぎ、主ご自身が着せられる「油注ぎ」という王服を着なさい。71年目の今年、主の回復が訪れます。

昨年、あなたは苦難と社会の変化の中で、いかにわたしを信じるかを試されてきました。それは、さらに強い信仰を持つことをあなたにもたらしました。新しい年にも、わたしはあなたに同じことを望みます。

どうか、主にある喜びを持ち続けてください。今は喜べない状況にあるかもしれませんが、気落ちせずにわたしを信じ、感謝の祈りを忘れずに、喜びを持ち続けてください。それが、あなたの力なのですから。

わたしはあなたにカナンの地を与えます。70年が満ちた年、あなたに大粒のぶどうの実を担がせましょう。勇気を出しなさい。わたしはより多くの収穫が得られるための備えをしました。

あなたは、右に行くにも左に行くにも「これが道だ。これに歩め」とささやくわたしの声をよく聴き、疲れることなく歩み続けなさい。
2021年は「回復と再建の年」となります。

わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。
淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」 イザヤ書 44章26~28節

===
二〇二一年に向けて主が新城教会に語ってくださった預言的なメッセージであると私は堅く信じます。
昨年、私たちに与えられた聖書のみことばは、エレミヤ書二十九章十節〜十二節でした。なぜならば新城教会は、二〇二〇年をもって、宣教七十周年を満たすことができたからです。
私の両親が七十年前、一九五〇年のことでしたけれど、この地域に入ってきて宣教を開始しました。そして昨年で七十年が満ちたということです。
今年は七十一年目を迎えます。

イスラエルに対して主は、「七十年の満ちる頃、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところに帰らせる。」とエレミヤを通して預言されました。実にその通りになりました。私たちが信じる神さまは、無秩序に働くのではなく、秩序の中で働かれる神であることがわかります。計画性を持った神です。「七十年が満ちる頃」と言ったら、「満ちる頃」になって、動きを始められるわけです。「七日目」と言われたら七日目に働きをなされる方です。気まぐれではないです。秩序を持って働いてくださいます。
ということは、そのご性格は今でも変わりませんから、私たちも主を信じる霊的イスラエルですから、同じように関わってくださるはずです。新城教会、今年で七十一年目を迎えましたから、回復と再建が始まると私は堅く信じます。
この会堂は献堂四十年が過ぎました。お隣の教育館は三十年近く経ちまして、だいぶ傷んできました。ですから回復と再建の必要があります。教育館の目地が縮んで、雨水が入って雨漏りがすごく、今週から目地の改修工事が始まります。一ヶ月くらい足場が組まれているかもしれません。これから教会に来られる時には、気をつけていただきたいと思います。見える領域においても、また、見えない領域におきましても、主が回復と再建を果たしてくださると、心から期待しています。

私たちが神さまと関わって、備えられた計画を手に入れるために必要な条件が、エレミヤ書二十九章に記されています。それは「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。」とあります。「祈り」それは、最も重要な条件と言っても良いでしょう。神さまは全てをご存知だから祈らなくてもいい、なんていう意見も時々聞きますけれど、そうではありません。神さまは、すべてを知っておられますけれど、祈りに応じて応答されるお方です。ゆえに「祈り」のスタンスを崩してはいけないのです。
二〇二〇年、私の人生の中で、最も祈ったという印象があります。なぜならば家内の病気があり、その上、新型コロナも始まり、様々な制限が重なり、本当に先が見えない年であったからです。それで真剣に祈らされました。しかしこの祈りの姿勢を、二〇二一年も貫く必要があります。そうしたら、必ず、主は良くして下さるはずです。

それともう一つ、重要なことは、「感謝」をささげる事です。先ほどの預言的メッセージの中にも、「感謝をささげなさい。」と語られていました。
感謝は、人間が持っている性格です。誰かによくしてあげて、その人が感謝してくれたら、もっとよくしてあげたい気持ちになります。良くしてあげても無視されたら、二度とやりたくなくなっちゃいます。これは人間の性格というよりも、神さまの性格が人間にコピーされているわけです。ゆえに、感謝の気持ちが湧き上がるわけです。私たちが主に感謝する時、主は、さらなるわざを進めてくださるのです。
それを聖書全編から学ぶことができます。例えば、サムエル記第一 七章十一〜十二節に、こんな記録があります。

『イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。』

イスラエルは、カナンの地に入ったのですが、すぐにカナンの地を勝ち取ることはできませんでした。神さまは「カナンの地を与えます」と言われましたが、実際、中に入ってみたら、先住民族が住んでいて、彼らとの間に激しい戦いがありました。
そんな中でも「ペリシテ人」と呼ばれる人たちとの戦いは、激しいものでした。今でもイスラエルに行きますと、「パレスチナ」という呼び名が使われています。「パレスチナ」とは、「ペリシテ人」を意味します。現在でも使われているということは、古から今に至るまで、ペリシテ人は強大な力を持った民族であったことを意味します。
あるとき、ペリシテ人との間に激しい戦いがありました。神の箱という、イスラエルの宝物のような、主の臨在を現す箱が、彼らに奪われて、海神ダゴンの神殿に据えられてしまった事件が起きました。しかし、イスラエルが主に頼り祈ったことにより、神の箱がキルヤテ・エアリムという場所にまで戻ってきたのです。
キルヤテ・エアリムは、太陽礼拝の拠点であったと言われます。またバアルという土着の偶像が祀られる拠点でもありました。そこに主の箱が運ばれて据えられ、膠着状態になって二十年間が過ぎました。
その時に、イスラエル人たちは、何をしたのかと言うと、「イスラエルの全家は、主を慕い求めていた。」と記されています。神さまの働きは、ある時は激しく前進しますが、ストップする時もあります。
新城教会、七十年の歴史を見ても、宣教がぐんぐん進んだ時期もありましたが、止まってしまった時期もありました。もうこれっきり、動かないんじゃないか、というような時期もありました。
しかしそのような時、何をすべきでしょうか。「イスラエルの全家は、主を慕い求めていた。」とあります。真剣に主を慕い求めることが重要であるということです。
私の家内の癒やしも、一年を振り返ると、まさに、どんっと進むこともあれば、止まってしまい落ち込んで、真剣に主の前に出る繰り返しでした。しかし真剣に主に頼ると動くのです。これは一つの霊的原則じゃないかと思います。

世界は現在、未曾有の困難に直面しています。また、キリスト教会も大きな困難に直面しています。現在、日本に八千ぐらいの教会がありますが、最近、教勢が全体的に落ちていて、二〇三〇年ぐらいになりますと、教会数が半分ぐらいになるのではないかと懸念されています。
それにこの新型コロナですから。この先どうなるだろうかと、どの教会の牧師たちも、心配が絶えないと思います。しかし一方ではこれは神さまからのメッセージを含んでいると思われます。この時にこそ、「主を求めなさい!」と主は語られているはずです。「主を求めたら、再度、動き始めます!」ということです。
時に人生の中で様々な困難に会い、膠着状態になってしまうことがあります。その時にこそ、命がけで、主を求めるならば、必ず、物事は動きます。私も二〇二〇年、それを体験させられました。

ミツパという場所に、サムエルは民族を集めて、真剣に悔い改め、主を求めて祈りました。しかしその時を目指して、ペリシテ人たちが襲いかかってきました。サムエル記第一 七章十節、

『しかし主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。』

なんとこの時に、イスラエルを助けたのは、もちろん主が助けたのですが、神が武器として使われたのが、「雷鳴を轟かせた」とあります。武器は「雷」でした。雷は、日本でも、「地震、雷、火事、親父」というぐらい、天敵みたいな存在です。古におきましては、雷が、どうして発生するのかわからず、大きな恐怖でした。しかし人類の敵のような雷がイスラエルに加勢して、イスラエルをペリシテ人の手から助け出したのです。

「福音とは何か」に関して、去年一年も、私たちは深く学ばせていただきました。福音とは、人間だけのものではないということです。救いは人の救いから始まり、神が造られた被造物全体に及ぶものだと学びました。しかも、被造物たちは神の子どもたちが現れるのを、待ち望み、日々、うめいているのです。「一刻も早く神の子どもたちが来て、我々に福音を宣言してくれないかなぁ。」と祈っているのです。それがローマ人への手紙八章で語られています。
被造物の多くは、現に人類と対立関係にあります。新型コロナの問題を考えてみれば、ウイルスと人類との対立です。世界中で最も数の多い生物は何かというと、実は、「ウイルス」だそうです。ウイルスは、数限りなく存在し、ウイルスが存在しなかったら、人間も生物も生きることはできないらしいです。本来は持ちつ、持たれつの関係で、ウイルスは自己増殖できず、宿主が必要で、人などに寄生して自分の仲間を増やし、お互いに共生するわけです。不思議な神の創造のみわざですよね。
しかしどうでしょうか。人の罪によって、本来は人に必要なウイルスが変化して、現在、強烈に敵対しているじゃないですか。これは本来ウイルスにとっても、良いことではありません。人間に寄生して、仲間を増やさしてもらい、人類も生きる共生でなければいけないお互いです。しかし人に宿ったら人が死んでしまったら、元も子もありません。その結果、自分も死ななければなりませんから。これは人と被造物であるウイルスとの間に、壁がある証拠ですね。
水がなかったら人も動物も植物も、生きることはできません。しかし日本、水が多すぎます。大雨があって、洪水が起きて、水に押し流されて死ぬ人も多いです。本当に被造物と人類との間に壁があります。これは人間の罪ゆえです。
しかし主イエスの十字架は、パウロも語っているように、「全被造物との和解」であったのです。イエス・キリストの十字架によって、神と人との和解だけでなく、神と被造物全体との間の壁も打ち破られたのです。
被造物が我々の味方になると、今まで天敵であったような雷も、味方になって、ペリシテからイスラエルを救い出したのです。すごいじゃないですか。