「敵にとどめを刺す祈り② あなたが主の勇士です」

2021年10月3日(日)新城教会福牧師 鈴木陽介

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

ハレルヤ!おはようございます。今日こうしてまた日曜日の礼拝でみことばを取り次がせていただける恵みを心から感謝します。

皆さんにお祈り頂いて、七月九日にオープンしたヘブンズアイスクリーム&コーヒーも、早いもので、三ヶ月ほど経ちました。主のみこころの中で守られ、店舗の営業というなかで、勝ち取るべき経済的領域における勝利というものも見せていただいているということは、本当に心から感謝です。皆さんのお祈りに感謝します。

そして、皆さんもよくご存知のように、金曜日に滝元享子さんが退院をされました。無事に手術を終えて、術後の入院期間も三週間という最短でした。これは主が与えてくださっている癒やしであり勝利であります。私たちはそれをしっかりと受け取っていきたいなというふうに思います。
またそのような中で、私たちの家族全体も二年弱、母の闘病という戦いに挑んでいる期間が続いております。私の家族のためにも本当に多くの祈りの支えがあり、また実際の助けがあり、今日があることを心から感謝しています。それではみことばに入りたいと思います。

第一サムエル記十七章五十一節、これは五月九日にも、私がこの場所で語らせていただいたメッセージの箇所です。お読みします。

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

ダビデとゴリアテの戦いの記事というのは、クリスチャンであれば多くの方が思い浮かべることが出来るシーンではないかと思います。
しかしその記事の中で、今読んだ箇所というのは、どちらかといえば強調されない部分ではないでしょうか。少年ダビデが巨人ゴリアテに対して石一つで勝利を得た、そのような描写がハイライトとして色濃く私たちの中に残っています。それと比較して今読んだ箇所、ダビデが剣を抜いてとどめを刺したという状況、場面が、さほど印象に残っていなかったということも言えるのではないでしょうか。
しかしこの戦いのストーリー全体の中で、霊的戦いというキーワードの中で、この節こそ、ある点において、より重要な節ではないかなというふうに思います。
私個人として、二〇二一年二月から、この箇所、あるいはさらにもっと先に「ときの声」というような記事、ヨシュア記の箇所から、旧約聖書の背景とともに、霊的戦いというものを、軍と軍の戦いの描写の中で考える、そのような視点が与えられております。そのようなことを度々皆さんにもメッセージや様々な機会で共有させて頂いております。
今日は先にも申し上げた通り、五月九日に語らせていただいたこの同じみことばからさらに、私たちが霊的戦いということを掲げる中に、聖書が何を示しているのか、みことばと向き合い、また主と向き合い、私たちの使命は何なのかというところを学んでいきたいと思います。

まずは五月九日のメッセージの要点を振り返るところから始めさせていただきます。

主が与えてくださった石ころ一つによってもたらされた勝利、その後、ダビデは何をしたのか。勝利を与えてくださったのは主ですけども、その後ダビデは「すぐに走って行って、倒れたゴリアテの上にまたがって、その敵自身、ゴリアテ自身の剣を奪って、それをさやから抜き、とどめを刺して首をはねた」とあります。この事は、主が与えてくださった勝利に対し、私たちクリスチャン一人ひとりが応答して、主が与えてくださる勝利をさらに確かなものとする、そのような使命が私たちの霊的戦いと掲げる中にあるということを示しているのではないでしょうか。勝利を与えてくださるのは主で、私たちの能力や権力ではありません。では私たちはその勝利を、ただ手を広げ、口を開けて待っていればいいのかと言うと、そうではありません。何をするべきなのか。その勝利に応答して、すぐさま走って行って、敵にとどめを刺す。それが私たちクリスチャンに霊的戦いとして与えられている使命だというふうに読み解くことができるのではないでしょうか。

さらに戦いの視点で見ていくと、ダビデとゴリアテ一対一の戦いでしたけども、同時にそれは軍対軍の戦いでした。一対一の戦いが軍対軍の戦いの勝敗の結果さえも代弁するような状況、これは一騎打ちということで、この地上において長らく続けられていた戦いの方法の一つでありました。その一騎打ちにおいて勝敗が決したならば、勝った側が勝ちを宣言します。その結果負けた側の軍に敗北を突きつけ、さらなる敗走を促すことができます。そして味方の軍に対しては、一気に士気をあげて勝利を確かなものとする。勝利を拡大していくことができます。
それが、「勝ち鬨(かちどき)」というものです。「ときの声」の中で、勝った時に宣言するものを勝ち鬨と呼びます。勝ち鬨がいかに重要な機能を果たしているかということも前回学びました。ここでもダビデはゴリアテの首をはねて、何をしたのか。勝ち鬨をあげて、ペリシテ軍全体が敗走し、イスラエル軍がそれを追撃して、その陣地を勝ち取ったとあります。そこまでが十七章全体の結論であり、私たちが受け取るべきメッセージです。

そして勝利の宣言、勝ち鬨は取りも直さず、私たちの信仰の最大の根拠となっている、イエス・キリストの十字架上でのことばにもある点においては示されています。イエスさまは十字架上で「完了した」ということばを発しています。これは悪魔という敵に対して、そして人類の罪、そこからもたらされる死に対して、十字架上で完全に勝利、全て清算され、勝利が確定したのだという意味合いでの非常に大きな勝利の宣言、勝ち鬨の雄叫びでした。
そして、さらにもう少し広げて、前回のメッセージを振り返りたいと思います。第一サムエル記十七章というのは、このような冒頭で始まります。一節から三節、

『ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。』

この軍対軍の戦いの描写の中で、私たちがよく知っているダビデとゴリアテの戦いの記事があります。十七章全体をひとまとまりとしてメッセージを受け取りましょう。
ここに『軍隊を招集した。』とはっきりと書かれています。ですから、「ペリシテ人」、「イスラエル人」と訳されている訳を、この十七章だけで結構ですから、「ペリシテ軍」、「イスラエル軍」と訳し直してこの章を読んでみてください。そうすると、より深いみことばの理解が与えられます。
ペリシテ軍・イスラエル軍が谷を隔てて相対しました。
 人類の歴史において、戦争というのは、このように数と数で軍隊同士、部隊同士がぶつかり合うものでした。聖書の背景も同様です。ですから私たちが持つべき戦いのイメージ、描写はこのようなものであり、さらに発展して霊的な領域において霊的戦いを捉えるときも、このような視点が必要です。
 そして、地図で言うと、赤い丸の辺りがこのダビデとゴリアテの戦いが含まれる、ペリシテ軍・イスラエル軍との戦いの現場です。実際に、この地上に存在しているイスラエルの地、エラの谷と呼ばれる場所です。
その様な中、突如現れたのが大戦士ゴリアテです。四節。

『ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。』

みことばから描写を頭の中で描いていただきたいと思います。

イスラエル軍はゴリアテの出現に伴って、どうなったでしょうか。全軍が意気消沈し、戦意を喪失し、立ち向かう者が一人もいませんでした。その中で一人立ち上がったのがダビデでした。
まずはハイライトを見ていきたいと思います。第一サムエル記十七章四十五節、

『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」

ダビデは主の御名によってゴリアテに立ち向かいます。ダビデは終始、この戦いは主の戦いだということを強調し宣言してゴリアテに向かって行きます。
武力のみを頼りに勝ちを確信していたゴリアテと、それを擁するペリシテ軍。一方、イスラエル軍は逆に敗北を覚悟していました。そのような中で主がダビデを通して勝利を与えられました。この戦いの描写は、五十節に至るまでずっと主のわざだということが強調されています。ここから私たちが戦いということを考える時に、前提として何を学ぶことが出来るでしょうか。クリスチャンの戦いというのは、そもそも主によってなされる主のためのものです。主のみこころ、主の計画がこの地に引き下ろされること、主の勝利、主の支配がこの地に拡大してくこと。それが私たちの戦いの目的であって、それは主が用意しておられる主のご計画です。ダビデはそのことに従い、勝利の確信を持って、主の戦いとして、ゴリアテに挑んでいきました。

次に、主が勝利を与えてくださる中で、私たちはどう応答するのでしょうか。五十一節からは、主のわざの視点から、ダビデがその後どうしたかという描写に移っています。お読みします。サムエル記第一 十七章五十一〜五十三節、
該当箇所を「ペリシテ軍」と読みます。

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ軍は彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの連合軍は立ち上がり、ときの声(勝ち鬨)をあげて、ペリシテ軍をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ軍は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル軍はペリシテ軍追撃から引き返して、ペリシテ軍の陣営を略奪した。』

「ペリシテ軍の陣営を略奪した。」これが十七章全体の最後の文になります。結末ということです。このように、十七章全体を文脈から、具体的な描写とともに読んでいくと、多くのことを受け取ることができます。
ダビデとゴリアテの記事を、単に「少年ダビデ」が「巨人ゴリアテ」を打ったというだけのストーリーでとどめてしまうならば、それこそみことばの矮小化になってしまいます。大事な結論はペリシテ軍、敵の軍勢を打ち破り、その陣営を略奪した、主の勝利が拡大したということです。
 地図をみていただくと、開戦した場所が右の丸、そして左の丸の辺りがイスラエル軍が追撃したおおよその位置になります。ここまで前線が押し込まれ、主の陣が勝ち取られたということになります。そしてその後、イスラエル王国はダビデ・ソロモンの時代に主にあって栄華を極めました。その当時のイスラエルの陣地がこちらです。ペリシテをはじめ、多くの異民族の陣を勝ち取っています。
 結果的にダビデとゴリアテの戦いが、この様なイスラエルの繁栄の序章となりました。後の王ダビデの初陣です。

ここから学べるように、私たちの個人的な祈りや身の回りの状況に対する霊的戦いも、より大きな視点、より大きな主のみこころに立って進められていかなければなりません。
主によってなされる主の戦い、主が与えてくださる勝利、主の栄光・支配の拡大。そのための私たちの戦いです。

今回、私がもう一度この日曜日の礼拝で、何を語るべきかと祈らされる中に、さらにこのみことばと向き合うことが示されました。私は半年来このような視点で、このみことばに何度も何度も向き合いました。本当にここからメッセージすることがみこころなのかと、昨夜も遅くまでみことばと向き合いました。主と向き合いました。しかし主がやはりこのみことばから語れということでしたので、またこのみことばから今日語らせて頂いております。
みことばというのは本当に奥深いもので、読めば読むほどその深みに引き込まれていきます。みことばに溺れるという経験を皆さんしたことがあるでしょうか。何度も何度も読んだはずのみことばの箇所、しかし何度も何度も新しい視点が与えられ、新しい主からの励ましがあり、戦いに奮起する思いが与えられる。とても人間には計り知る事ができない奥深さです。それが私たちの人生の根底となっている主から与えられているみことば、聖書です。
もう一度、十七章全体に順を追って、向き合っていきます。

第一サムエル記十七章、先ほど四節でゴリアテが登場したところまで見ました。十一節、その続きです。

『サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』

ゴリアテの出現でサウルとイスラエルの全てが一気に意気消沈し、戦意を失いました。一節から三節にあったとおり、戦いのために招集された軍隊ですからここに一般市民はいませんでした。軍隊全てと、全軍を率いる最高司令である王サウルが意気消沈し、非常に恐れました。

二十節から二十二節、
『ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。』

十七章の「主役」ダビデは、当初この戦いに参加すらしておりませんでした。ダビデはエッサイという人の子ども、八人兄弟の末っ子でした。兵士として、まだ戦いに参加するべき年齢ではなかったということです。(十代後半ぐらい)
体格は大人と同じでしたが、まだ若かったため「少年」と書かれております。
八人兄弟のうち、戦いに出ていたのは上から三番目まででした。父エッサイが、食料を届けるようにとダビデを戦場に遣わしました。
そして、このストーリーの主役ダビデが、遅ればせながらこの舞台に登場します。まずは兄たちの安否を気遣い、そして戦いの状況を把握しようとします。周りの兵士たちの会話に耳を傾けました。二十五節、

『イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」』

このような会話をダビデは聞きました。彼らも兵士であり、戦いの当事者です。兵士同士です。しかし、この言葉はすでに他人事です。何か強大な敵が現れて、王も報酬を示し、なんとか立ちあがる者を求めたけども、誰一人立ちあがる者はいない。「何も義務を負わせないそうだよ。」と他人事、誰かが立ちあがるのをただ待っているだけの状況。「私が行こう。」という者は誰一人いない。一方ダビデは次第に状況を把握します。二十六節、